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第8話 残された者

 


 最初の違和感は、返ってきた封筒だった。


 中央駐屯都市へ戻ったユリナが執務机の上でそれを見つけたのは、北部掃討任務から帰還した翌朝だった。白い封筒の端に、赤い返送印が重なっている。見慣れた自分の字で宛名が書かれていて、余計に胸がざわついた。


 ――受取人不在。転送先不明。


 短い文言しかない。


 それだけで、喉の奥が冷えた。


 彼に支援を押しつけたことは、自分でも分かっている。断られたことも、返されるだろうことも、どこかでは予想していた。けれど、返送されたのが「拒絶」ではなく「不在」だったことが、妙に引っかかった。


 ユリナは封筒を手にしたまま、しばらく動けなかった。


 嫌な想像はすぐに浮かぶ。だが、浮かぶたびに頭の中で無理やり押し返す。まだ何も分かっていない。たまたま宿を移っただけかもしれない。短期の仕事で郊外へ出ているだけかもしれない。落ち着いて確認すればいい。そう自分に言い聞かせる。


 言い聞かせないと、足元が崩れそうだった。


 その日のうちに、彼が最後に泊まっていた安宿へ向かった。


 店主はユリナを見るなり、気まずそうに帽子を取った。軍人、それもウルティマ所属の自分がこんな場所へ来れば、相手が身構えるのは当然だったが、今日はそれが煩わしいと思う余裕もない。


「リンドウ・セイルさんのことを聞きたいんです」


 できるだけ柔らかく言う。


 店主は記憶を探るように眉を寄せた。


「退役した若い旦那さんですな。ええ、覚えてますよ。静かな人だった」

「今、どこにいるか分かりますか」

「それが……数日前に荷物まとめて出ていきましてね。先の宿は聞いてません。買い物の話ぶりからして、この街に長くいる気はなさそうでしたが」


 数日前。


 計算すると、ちょうどユリナが前線へ再出動していた時期と重なる。自分が彼を捜しに動けなかった、ほんの短い空白だ。


「様子は、どうでしたか」


 問いながら、ユリナは答えが怖かった。

 店主は少し考え、それから歯切れ悪く言った。


「落ち込んでるようには見えませんでした。ただ、決めた人の顔ではありましたな。……あまり、引き留められる感じじゃなかった」


 その表現が胸に残った。

 決めた人の顔。


 ユリナには、それが分かってしまう。リンドウは追い詰められた時ほど大きく荒れない。黙って、静かに、戻らない方へ歩いていく。そういう頑固さを持っている。


 宿を出た後、彼女はすぐに軍の照会網を使った。正式な行方不明届ではない。退役者の所在確認に、軍の権限をどこまで使っていいかは曖昧だった。それでも彼女は止まらなかった。購買記録、簡易登録、都市外縁の不動産契約、郵便転送先。中央直属の権限とウルティマの名は、こういう時に嫌なほどよく通る。


 その結果が出たのは二日後だった。


 郊外南西区、旧街道外れ。築年数不詳の古い屋敷。一括購入。名義はリンドウ・セイル本人。


 紙面の住所を見た瞬間、心臓が一度強く脈打った。


 買った。

 借りたのではなく。


 戻る気の薄い選び方だと、すぐに分かってしまう。

 だが、その時点でもまだユリナは自分を説得できた。住む場所を決めただけだ。連絡がないのは、単に彼が自分を避けているからかもしれない。避けられる理由なら、十分すぎるほどある。


 だから最初は、一人で行くつもりだった。

 だが出発前、直属上官のラディス大佐に呼び止められた。


「私的行動にしては、調べ方が派手だ」


 執務室でそう言われ、ユリナは一瞬だけ言葉に詰まった。ごまかせない相手だ。ラディス大佐は実務に厳しいが、無意味に感情を切り捨てる人でもない。だからこそ、正面から答えるしかない。


「退役した元伍長の所在確認です」

「その元伍長は、お前の幼馴染だったな」

「……はい」


 大佐は書類から目を上げた。その視線は鋭いが、責め立てるためのものではなかった。


「上では、脱走まがいの失踪か、自傷の類を疑う声が出ている」


 ユリナの指先がわずかに強張る。


 脱走。自傷。


 言葉としてはあり得る。退役直後、精神状態不安定、所在不明、連絡断絶。報告書の上だけ見れば、そうまとめられても不思議ではない。だが彼女には、その整理があまりに雑に思えた。


「リンドウは、逃げるために黙って消える人じゃありません」

「自害もしない、と?」

「……少なくとも、何も残さず消える形は選ばないと思います」


 言い切りながら、自分で少し胸が痛んだ。絶対と言えないことが苦しい。あの温室で、自分は彼をあそこまで追い詰めたのだから。


 ラディス大佐は椅子に背を預けた。


「情で判断するな、と言いたいところだが、それだけで動いている顔でもないな」


 数秒の沈黙のあと、短く続ける。


「現地確認は二名同行にしろ。私的調査の体裁ではまずい。異常があれば正式案件へ切り替える」

「了解しました」

「ユリナ」


 名前を呼ばれ、顔を上げる。


「自分の判断が正しかったか悩むのは勝手だ。だが、そのせいで今の任務を落とすな」

「……はい」


 返事はできた。けれど、その「はい」が胸の底まで届いていないことを、自分でも分かっていた。

 郊外の屋敷へ向かったのは、その翌朝だった。

 同行は軍監査局の若い調査官と、地方駐在の治安兵一名。どちらも実務的で、余計なことは言わない。助かった。今のユリナには、気遣われる方がつらい。


 旧街道を外れた先、雑草の伸びた小道の向こうに、屋敷はあった。


 古い。遠目にも分かるほど古い。けれど完全に朽ちてはいない。門扉は歪んでいるが外されておらず、庭の一部は刈られた跡が残っている。最近まで人の手が入っていた印だ。


 胸が少しだけ詰まる。

 ここで暮らしていたのだ。自分の知らない時間を、この静かな場所で一人で。


 玄関の鍵は閉まっていた。だが内側から補強された形跡はない。治安兵が規定通り解除し、扉を押し開ける。蝶番が鈍く軋んだ。


 中は静かだった。


 荒れてはいるが、生活の跡はある。食堂の卓に木皿が一つ。洗いかけの鍋。書斎には紙束とインクの瓶。寝台には乱れた毛布。どこも整いすぎていないのに、放り出された感じとも違う。つい昨日まで誰かがいて、急に消えたような空気がある。


 ユリナは玄関をくぐった瞬間から、嫌な確信に近いものを感じていた。


 自殺する人の家ではない。


 少なくとも、ふらりと絶望して命を絶った人間の部屋の空気ではなかった。そこには切迫はあっても、崩れた痕跡がなさすぎる。むしろ逆だ。選び、整え、準備していた気配がある。


「二階も確認します」と調査官が言う。


「私は下を見ます」


 ユリナはそう返して、一階の奥へ進んだ。


 書斎には手帳が何冊も積まれていた。全部ではない。一番重要なものは持ち出したのか、あるいは別の場所にあるのか。けれど残された計算紙の切れ端だけでも、普通の生活記録ではないと分かる。


 魔力位相、自己対象、負荷分散、肉体座標――。


 専門外の兵士には意味の分からない単語が並ぶ。だが軍人として一定以上の術式教育を受けているユリナには、それが「危ない方向の研究」であることくらいは読み取れた。


 喉の奥が冷える。


 食堂の床に、わずかな擦れ跡があった。家具を引いた痕ではない。正方形に近い範囲だけ、板の色が違う。そこを見た瞬間、直感的に分かった。


「地下……」


 呟いて、床板へ手をかける。


 硬い。だが浮く。下に石段が口を開けていた。冷気が上がってくる。土と焦げの匂いが混じっていて、鼻の奥がちりついた。


 後ろから治安兵が追ってくる気配がしたが、ユリナは待てなかった。灯石を手に、自分が先に降りる。


 石段を下りきった瞬間、足が止まった。


 地下室の中央、その石床一面に、巨大な魔法陣の焼け焦げた痕が残っていた。


 ただの術式跡ではない。部屋いっぱいに広がるほど大きい。幾重にも重なる環、そこから外へ伸びる線、交差する補助陣。床石は熱で半ば硝化し、ところどころ黒く炭化している。壁面の鉄環はねじ曲がり、天井には白く焼けた亀裂が走っていた。


 息を呑む。


 見ただけで分かる。これは事故ではない。しかも、一般的な大規模儀式とも違う。構造がどこかおかしい。外へ何かを呼び出す陣ではなく、中心からどこにも逃がさないための檻に近い。


 ユリナはそっと主環へ近づいた。


 中心部には、焦げの中に一人分の座標が残っている。人が座っていた位置だ。その周囲から三方向へ、特に濃く焼けた線が伸びている。


 魂。

 肉体。

 術式核。


 言葉として書かれていたわけではない。だが長く魔術に関わってきた感覚が、その意味を勝手に読み取った。


「少尉」


 追いついた調査官が、地下の光景を見て顔色を変える。


「これは……」

「記録を。全部残して」


 自分でも驚くほど声は落ち着いていた。


 落ち着いていないと、その場に膝をついてしまいそうだったからだ。


 調査官は慌てて記録板を起動し、壁と床の痕跡を写し取っていく。治安兵は焦げ跡の外周を慎重に確認し、遺体や血痕の有無を調べた。


「遺体なし」


 やがて低い報告が上がる。


「血液反応はごく微量。大量出血の痕跡はありません。焼却痕も、人一人分を処理した形ではないかと」


 その言葉に、ユリナはほんの少しだけ息をついた。


 安心ではない。死体がないから生きているとも言えない。それでも「ここで焼けて終わった」と言い切れない事実が、一筋だけ心を繋いだ。


 主環の脇に、小さな焼け残りがあった。ユリナはしゃがみ込み、そっと拾い上げる。焦げた紙片だ。端の銀塩がかろうじて残っている。写真の一部だったらしい。焼け跡の向こうに、人の肩らしき影と、笑っている口元の輪郭だけが残っていた。


 胸が締まる。


 それ以上見ていられず、ユリナは静かに指を閉じた。


 地下から戻った時には、空はもう薄暗くなっていた。屋敷の前で、調査官が事務的に結論を整理し始める。


「現時点では失踪案件です。ですが、術式の規模と痕跡から見て、自損儀式ないし禁制研究の失敗を疑うのが妥当でしょう」


 その言い方は冷静で、正しい。

 正しいからこそ、ユリナの胸に鈍い反発が生まれた。


「失敗と決めつけるのは早いです」


 思ったより硬い声が出た。


 調査官が言葉を選ぶように眉を寄せる。


「少尉、感情を排して言えば――」

「排して見ても、遺体がない。逃走なら日用品の残し方が不自然です。自殺ならなおさら。少なくとも、普通の『消え方』ではない」


 自分で言いながら、その結論の不穏さに背筋が冷えた。


 普通ではない。

 それはつまり、リンドウが普通ではない何かに手を出した可能性を認めるということだ。


 調査官は反論しなかった。ただ、公的な結論としては断定できないのだと淡々と告げた。上へ上がる報告書には、「退役後の単独失踪、私設儀式痕あり、本人生死不明」としか書けない。それ以上を言うには証拠が足りない。


 証拠が足りないことが、もどかしかった。


 屋敷から押収された紙束は後日、軍の術式監査へ回された。上層部の反応は早かったが、冷たかった。


 禁制研究の疑いがある以上、個人的感傷で深追いするな。

 失踪した元軍属一名の件で、ウルティマの稼働を割くな。

 本人が自ら消えた可能性も高い。


 そういう言葉が、会議室で整然と並ぶ。


 ユリナは正面から反論できなかった。軍人としての理屈は分かるからだ。今も前線では異獣が湧き続けている。毎週どこかの防衛線が削られ、人が死ぬ。個人の失踪一件へ、無制限に資源を割けるほど戦況は甘くない。


 理解できる。

 理解できるからこそ、苦しかった。

 それでもユリナは、戦い続けた。


 命令が下れば出撃し、前線へ飛ぶ。炎雷魔術で群れを焼き、崩れた線を押し戻し、救護路を開き、部下を生かして帰す。軍人としてやるべきことは、身体が勝手に知っている。動いている間だけは、考えなくて済む。


 だが任務が終わるたび、静かな時間が戻るたび、地下室の焼け焦げた円が頭に浮かんだ。


 あの時、温室で別の言い方ができていたら。

 支援ではなく、ただそばにいるだけに留めていたら。

 前線から外す進言をしなければ。


 そんな仮定が、夜ごと胸の内を掻く。


 もちろん、どれも答えにならない。もし前線に戻していたら、彼は別の戦場で本当に死んでいたかもしれない。それでも、自分の選択が彼をあの地下室へ追い込んだのではないかという疑いは、どうしても消えなかった。


 ある夜、任務報告を終えたあと、同僚の特務隊員がぽつりと訊いた。


「まだ探してるのか」


 責める口調ではなかった。ただ、心配するような低さだった。


 ユリナは窓の外を見たまま答える。


「探してる」

「見つからなくても?」

「見つからないままにしたくない」


 それだけ言って、少しだけ息をついた。


「……守りたかったんだよ」


 自分でも驚くほど素直な言葉だった。


「支配したかったわけじゃない。閉じ込めたかったわけでもない。ただ、失いたくなかった」


 同僚はしばらく黙っていたが、やがてそれ以上は何も言わなかった。慰められても困ると分かっているのだろう。その無言がありがたかった。

 季節が一つ、緩やかに進んでいく。


 郊外の屋敷は封鎖され、地下室は軍監査局の管理下に置かれた。だがユリナは時々、正式な確認の名目をつけてそこへ足を運んだ。もう新しい痕跡は増えない。それでも、あの場所へ立たなければ何かがこぼれ落ちる気がした。


 ある日、監査から戻された写しの中に、一枚だけ気になる図面があった。

 焼け残った設計断片の復元図だ。中心から三方向へ伸びる主線、自己対象認証、位相一致、術式核消費――そこに並ぶ概念を見た瞬間、ユリナの背筋を冷たいものが走った。

 他者へ向けた儀式じゃない。

 召喚でも転送でもない。

 術者自身を材料にした、自己対象の大規模置換。


 そこまで考えたところで、息が止まりそうになった。

 リンドウの置換魔術は、本来、生物に向かない。負荷が大きすぎるからだ。けれど――。


「術者本人が対象なら……」


 声に出した瞬間、自分で顔色が変わるのが分かった。

 自分自身なら、位相が一致する。抵抗は減る。魔力消費も抑えられる。代わりに払うものは、外ではなく内側へ返る。


 肉体。

 魂。

 術式そのもの。


 断片の線が、そこまで語っているように見えた。

 ユリナはその場でしばらく動けなかった。紙を持つ指先が、かすかに震えている。理解したくなかった。けれど理解してしまう。地下室の巨大な魔法陣、遺体のなさ、生活の跡、計算紙の語句。その全部が、一つの方向へ噛み合っていく。


 リンドウは死のうとしたんじゃない。

 逃げようとしたんでもない。

 もっと別の、戻れない禁忌へ、自分から踏み込んだのだ。


 その可能性を悟った瞬間、ユリナは椅子に浅く腰を下ろした。足から力が抜ける。喉が痛い。泣きたいのか、怒りたいのか、自分でも分からなかった。


 ただ一つだけは、はっきりしている。

 自分は、彼をそこまで追い詰めた側にいる。

 そして同時に、それでもまだ彼を守りたいと思っている。

 矛盾しているのに、本心だった。


 窓の外では、夕暮れの光が訓練場を薄く染めている。兵士たちの掛け声が遠い。世界は何も知らない顔で回っていて、自分だけが、あの地下の白い焼け跡の前に取り残されている気がした。


 ユリナは復元図を胸元へ引き寄せる。


 リンドウが禁忌に触れたのだとしたら、あれで終わっているはずがない。


 死んだのかもしれない。

 もう二度と会えないのかもしれない。

 けれど、あの儀式は単純な自壊ではない。


 その理解だけが、かえって別の不安を育てていく。


 どこへ行ったの。

 何になろうとしたの。

 何を捨てたの。


 答えはどこにもない。


 それでもユリナは目を閉じず、復元図の焼けた線を見つめ続けた。


 あの地下室の中心で、リンドウは何か取り返しのつかないものと引き換えに、自分を置換した。


 そうとしか、もう思えなかった。


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