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第5話 儀式場

 


 街の外れへ行くほど、建物は古くなる。


 中央寄りの駐屯都市から半日ほど離れた郊外には、戦前の名残を無理やり継ぎ足して使っているような家々が点在していた。魔導送電の幹線から外れ、舗装も甘く、夜になれば街灯術式の明かりも疎らになる。人が住めないわけではないが、わざわざ選ぶ理由も薄い。金のない流れ者か、静けさを欲しがる変わり者でもなければ、まず足を向けない場所だった。


 リンドウはその道を、一人で歩いていた。


 退役から三日。安宿を転々として、ようやく手頃な物件の情報を掴んだのが今朝だった。軍を辞めた人間に貸し渋る大家は少なくない。しかも若く、身元保証も弱く、まとまった収入のあてもないとなれば尚更だ。部屋一つ借りるだけでも、思った以上に面倒が多かった。


 だから、買う方がましだと判断した。


 もちろん、まともな家が買えるわけではない。安宿の机で不動産屋の端末板を見ながら、彼が選んだのは「土地付き、老朽化著しい、補修前提、魔導設備不全、地下区画あり」と並ぶ、どう見ても人が敬遠する類の物件だった。


 案内役の仲介人は、小太りの中年男だった。名前はダルトン。仕立てのいい上着に安っぽい香水の匂いをまとわせ、歩きながら何度もこちらを盗み見る。


「先に言っておきますがね、期待はしないでくださいよ」


 郊外道の先に見えてきた屋敷へ顎をしゃくりながら、ダルトンは言った。


「昔はそれなりだったらしいんですが、今じゃほとんど値がつかない。水回りは半分死んでる、暖房術式は主核ごと交換が要る、窓も何枚か割れてる。あと地下室。あそこが一番評判悪い」


「評判?」


「前の持ち主が魔術師(まじゅつし)崩れだったとか、私設の工房だったとか、色々です。怪談めいた尾ひれもついてますが、まあ、安い理由の半分はそういう噂でしょうな」


 目の前の屋敷は、たしかに安い理由が一目で分かる見た目をしていた。


 石と木材で組まれた二階建て。かつては白かったらしい外壁は雨染みで灰色にくすみ、蔦が壁面を半ば覆っている。屋根の一部は補修跡がまばらで、庭は伸び放題の草に埋もれていた。門扉は片側が歪み、触れれば軋みそうだ。


 それでも、完全な廃墟ではない。


 骨格はまだ生きている。壁は傾いていないし、窓枠の何枚かは後年に交換された痕がある。捨てられたというより、長く手が入らないまま残された家だと分かった。


「……静かだな」


 思わず漏れた言葉に、ダルトンが苦笑する。


「そりゃ郊外ですから。隣家も少し離れてます。騒ぐ者もいないでしょうよ」


 静かで、古くて、安い。


 それだけで今のリンドウには十分な条件だった。


 案内された玄関をくぐる。中は思ったより広い。玄関ホールから左右に部屋が分かれ、奥に食堂、その先に勝手口。床板はきしむが抜けるほどではなく、壁紙も剥がれかけてはいるが致命的ではない。窓の多い家だった。曇ったガラス越しに入る光が、埃の粒をぼんやり浮かせている。


 二階はさらに荒れていた。空き部屋が三つ、書斎らしい部屋が一つ。どれも長く使われていない匂いがしたが、書斎の棚だけは意外なほどしっかりしている。古い魔術書が残っているわけではなかった。持ち出された後なのだろう。ただ、机の天板に焼け焦げた痕があり、この家がただの民家ではなかったことをそれだけで匂わせていた。


「地下室はこっちです」


 ダルトンに導かれ、食堂の奥の床板をずらす。下へ続く石段が現れた。冷たい空気が上がってくる。土と鉄と、乾いた薬品みたいな匂いが混ざっていた。


 灯石を持って降りる。


 地下は思ったより広い。保存庫として使われていたらしい空間が二つ、その奥にさらに大きな一室がある。壁面には鉄環が打ち込まれ、床には古い導線溝が走っていた。かなり前に削られた痕もあるが、魔法陣か術式床の残滓だとすぐ分かる。


 リンドウは足を止めた。


 胸の奥が、小さくざわつく。


「……工房か」

「ええ、噂では。正式な届け出のない私設工房だったとかでしてね。後から摘発される前に持ち主が死んだとか消えたとか、話はいろいろです」

「床、まだ生きてる部分があるな」


 しゃがみ込み、指先で溝をなぞる。術式導線はほとんど死んでいるが、石材そのものの密度が均一だ。後付けの床ではない。最初から、地下儀式区画として設計されている。


 ダルトンがやや気味悪そうに肩をすくめた。


「そういうのが分かる人には、かえって価値があるのかもしれませんな。私はごめんですが」


 価値は、たしかにあった。


 少なくともリンドウには。


 安い、静か、地下がある。しかも旧式ながら術式工房の名残つき。普通なら忌避される条件が、そのまま自分に都合よく並んでいる。ここまで揃えば、逆に出来すぎているくらいだった。


「買う」


 立ち上がってすぐに言うと、ダルトンが目を丸くした。


「今、見て回ったばかりでしょう?」

「十分だ」

「修繕費込みで考えると、安宿暮らしの方がまだ――」

「それでもいい。ここにする」


 声は驚くほど平板だった。勢いで決めたのではない。むしろ、ようやく見つけたという感覚に近かった。


 ダルトンは少しだけ逡巡したあと、商人らしい早さで表情を整える。


「……ありがとうございます。では手続きを」


 屋敷の購入は、思ったよりあっさり終わった。


 まとまった資金の大半が消えた。今後の生活を考えれば無謀に近い。だが、借りを作らずに済むならその方がいい。ユリナの申し出を受けるくらいなら、古屋敷の壁一枚と心中する方がましだと、今のリンドウは本気で思っていた。


 その日の夕方、安宿へ戻ると、主人が気まずそうな顔で声をかけてきた。


「坊や、あんた宛てに預かりもんだ」


 差し出されたのは封筒だった。厚い。差出人名を見なくても、誰からか分かる気がした。


 封を切る。


 中には短い手紙と、かなりの額の金券、それに中央区の住居紹介状が入っていた。手紙の文字はユリナのものだった。整っていて、無理に丁寧さを保とうとした時の癖がそのまま出ている。


 ――勝手なことをしている自覚はある。でも、必要だと思ったら使ってほしい。

 ――住む場所だけでも、せめて困らないで。

 ――返事がなくても責めない。ただ、無理だけはしないで。


 読み終えたあと、リンドウはしばらく封筒を閉じられなかった。


 胸が痛んだ。


 腹が立つわけではない。むしろ逆で、真っ直ぐすぎる善意が苦しい。自分を追い詰めたあの温室の続きが、そのまま紙になって届いたみたいだった。


 主人が遠慮がちに訊く。


「……知り合いかい」

「知り合いだ」

「えらく気前のいい」


 リンドウは答えず、封筒をきちんと閉じた。


 その足で街の郵便所へ向かう。夜番の窓口は空いていた。返送手続きを頼み、封筒ごと全部そのまま差し出す。文面は短く書き添えた。


 ――受け取れない。

 ――気持ちは分かっている。でも、受け取らない。

 ――これ以上は送らないでほしい。


 書き終えた時、指先が少し震えていた。


 窓口の係員は事務的に受理し、封筒へ返送印を押す。その赤い印を見ていると、何か一つずつ橋を焼いていくような感覚があった。


 けれど、手は止まらなかった。


 屋敷へ移った最初の数日は、ほとんど掃除で終わった。


 雑草を刈り、壊れた窓に板を打ち、使える部屋を最低限まで絞る。二階は放置した。一階の食堂と隣室、それに書斎だけを何とか人の住める形に整える。暖房術式は主核が死んでいたが、据え置きの小型炉に簡易結界を足せばしのげた。水回りも、魔導圧送器の配管を置換で一部つなぎ直せば最低限は動く。


 そういう作業は苦にならなかった。


 むしろ落ち着いた。


 木材の継ぎ目、金具の歪み、導線の摩耗。どこが噛み合っていないかを見るのは得意だった。軍では派手な戦果にならなかった技術が、こういう場所ではそのまま生活の骨になる。皮肉だな、と一度だけ思ったが、深くは考えなかった。


 朝起きて、水を汲み、掃除をし、簡単な食事を作り、午後は地下を調べる。


 そんな日々が続いた。


 静かだった。


 驚くほど、静かだった。


 軍にいた頃は、静けさなんて落ち着くものだと思っていた。けれど実際に一人で住み始めると、それは時々、音のない圧力みたいに部屋を満たした。食器を置く音、自分の足音、風が窓板を鳴らす音。それ以外がほとんどない。夜になるほど、空白が耳に触る。


 それでも宿へ戻ろうとは思わなかった。人の気配に紛れれば少し楽だとしても、その代わり自分の考えも薄まってしまう気がしたからだ。


 今のリンドウには、それが一番困る。


 考えを薄めたくなかった。


 地下室の調査は、最初は慎重だった。


 保存庫の棚を外し、壁面を叩き、床の導線溝を掃除し、魔力反応の残滓を拾う。古い工房だったなら、何かしらの術式設計が壁裏や床下に残っているかもしれない。そう思って調べ始めたのだが、当たりは意外に早く見つかった。


 地下最奥の一室、その石床の一角に、別素材の継ぎ目があった。


 幅一メートルほどの石板を持ち上げると、薄い鉛箱が埋め込まれている。錆びた封印金具を置換で外し、慎重に蓋を開ける。中にあったのは書簡でも禁書でもなく、数枚の術式図面と、細かな観察記録の束だった。


 私設工房の前主が残したものなのかは分からない。署名はない。ただ、内容は明らかに実務書ではなく、個人的な研究記録だった。


 生体反応と術式抵抗。

 対象魔力位相の自律性。

 無機物と有機物における置換負荷差。


 ページをめくるたび、リンドウの視線は鋭くなっていく。


「……やっぱり、そこまでは考えてたのか」


 独り言が漏れた。


 内容そのものは未知ではない。置換魔術が無機物に適していて、生物に極端に向かないことは、固有魔術持ちである彼自身が嫌というほど知っている。だがこの記録は、その理由を感覚や経験則ではなく、術式理論として分解していた。


 無機物は、構造が固定されている。


 もちろん温度や圧力で変化はするが、少なくとも瞬間ごとに自らの位相を更新し続けたりはしない。木材は木材のまま、鉄は鉄のまま、一定の結合則を保って存在している。だから置換対象として扱う時も、術者は「今そこにある形」を掴めばいい。


 対して生物は違う。


 肉体は常に循環し、神経は絶えず信号を走らせ、細胞は分裂し、魔力を持つ生物であればその内部位相まで刻々と揺れ続ける。単なる物体ではなく、変動し続ける自己維持系だ。置換魔術は本来、静的な構造へ新しい対応関係を噛ませる術だ。相手が生きているほど、その「静止点」が見つからない。


 しかも、相手の体内には相手自身の魔力がある。


 それが拒絶反応を起こす。


 異物を排除するように、外部から差し込まれた置換術式を押し返す。その抵抗が術者へ逆流し、負荷と痛みになる。下級異獣の爪先一つを脆くするだけで神経が焼けるような痛みを受けたのは、そのせいだ。


 理屈として言語化されると、改めてぞっとする。


 あんなものを、戦場で何度も無理やり通していたのかと。


 だが、同時に別の頁が目を引いた。


 対象同一性について。


 そこには短い式と仮説だけが書かれていた。未完成だが、十分に意味は読める。


 対象と術者の魔力位相が一致する場合、置換負荷は著しく減衰する可能性あり。


 リンドウはその紙を長く見つめた。


 心臓が少し速くなる。


 自分でも、これまで感覚的には知っていた。置換魔術は自分の持ち物、あるいは自分の身体の表層に近いものへ使う時、異様に通りがいい。たとえば自分の服の破れを応急修復する時。掌の火傷部分の表皮を一時的に健全な状態へ近づける時。疲労した筋肉の繊維配列を微弱に整える時。


 そのたびに、消費魔力はほとんど誤差だった。


 なぜなら対象が「自分」だからだ。


 相手の体内魔力と位相を無理やり噛み合わせる必要がない。術者と対象の根本情報が同一なら、置換魔術は外部侵入ではなく内部更新に近い形を取る。抵抗はゼロにはならない。だが、少なくとも他者や異獣へ使う時とは比較にならないほど小さい。


「魔力消費が少ないんじゃない」


 リンドウは紙束を置き、低く呟いた。


「噛み合わせに使う分が、ほとんど要らないのか」


 言葉にした瞬間、思考が一段深く沈む。


 対象が自分であるなら、置換は可能だ。しかも近い将来ではなく、今の自分の魔力量でも届く範囲で。


 問題は、その先だった。


 自分を置換するとは、何をどう置き換えることなのか。


 肉体か。回路か。器官か。構造全体か。


 そこまで踏み込めば、もはや応急処置や補修の延長ではない。術者自身を材料にした大規模改変になる。対象との位相一致で消費が抑えられるとしても、肉体や魂に何も残らないはずがない。


 代償は、外に払うのではない。


 全部、自分に返る。


 その理解に辿り着いても、リンドウの手は震えなかった。


 むしろ妙に冴えていた。


 怖くないわけではない。怖い。間違えれば死ぬ。いや、死ぬだけで済むかも怪しい。精神が壊れるかもしれないし、置換魔術そのものが術者を食い潰す可能性もある。


 それでも、軍を去った夜に手帳へ書いた一行が、ここでようやく現実の理屈を持った。


 ――自分を置換する方法。


 唐突な狂気ではない。


 ちゃんと道筋がある。細くて危うくて、人に見せられるような道ではないが、理論の足場は存在する。


 地下室の中央へ立ち、リンドウは床を見回した。古い導線溝。残存する固定環。術式床として設計された石材。前の持ち主が何をしようとしていたかは知らない。だが少なくとも、大規模術式を置くには十分な器だ。


 そこからの日々は、さらに静かになった。


 朝の掃除と最低限の食事を済ませると、ほとんど地下へ籠もる。街へ出るのは魔導粉末と金属塩、記録紙と食料を買う時だけだ。近所付き合いはしない。誰も寄ってこない場所でよかったと、何度も思った。


 置換魔術の理論を一から整理し直す。


 無機物への置換と、生物への置換、その差を式で分ける。対象位相の安定性、自律更新率、魔力抵抗、噛み合わせコスト。さらに、自分自身を対象とした時の例外項。表皮の微細補修、筋線維整列、末端循環の最適化。いずれも小規模でしか試していなかったものを、手帳の余白に洗い直していく。


 夕方には指先がインクで汚れ、夜になる頃には頭の奥が熱を持った。


 それが心地いいと感じる瞬間があった。


 軍にいた頃、戦場で自分は足りないことばかり突きつけられていた。けれど地下室で式を書いている時だけは違う。見るべきものが見え、足りない部分がどこか分かり、そこへどう橋を架けるかを考えられる。


 初めて、自分の弱さそのものが材料になる感覚があった。


 魔力量が低いから、大規模な外部干渉はできない。

 置換魔術は生物へ通りにくいから、他者を変える方向では使えない。

 だが術者本人が対象なら、位相一致により魔力コストはほぼ消える。


 弱点が、そのまま突破口へ反転する。


 皮肉だった。けれど美しい理屈でもあった。


 もちろん、それだけで全てが解けるわけではない。対象が自分なら消費魔力は抑えられる。しかし改変規模が大きければ、今度は「何を代償に術式を成立させるか」が問題になる。巨大な置換は、対応物を必要とする。何かを得るなら、何かを差し出さなければならない。


 肉体を変えるなら、肉体のどこかが削れる。

 回路を拡張するなら、今の回路は壊れる。

 器を作り変えるなら、今の自分は残らない。


 代償は外部資源で賄えない。魔石でも血でも薬剤でも、たぶん足りない。根幹を変える規模の術式なら、結局、術者自身の何かを燃やすしかない。


 魂か、肉体か、魔術そのものか。


 その結論に至った夜、リンドウは椅子に背を預けて長く目を閉じた。


 普通なら、そこでやめるのだろう。


 割に合わない。危険すぎる。人間が触れていい領域ではない。まともな理性があれば、そう判断して手を止める。


 だが彼は、もうまともな場所へ戻る道を自分で切っている。


 ユリナの庇護を拒んだ。

 軍も捨てた。

 前線からも降ろされた。


 なら、何を失うのが怖いのか。


 答えは一つしかない。今の自分だ。


 そして、その今の自分を差し出さなければ、先へ行けないのだとしたら。


「……安いな」


 独り言は地下の石壁に吸われた。


 安い、と思ってしまったことに、自分で少しだけ笑う。笑えたのは一瞬だったが、それでも確かに笑った。


 翌日から、彼は地下室の床を本格的に整え始めた。


 古い導線溝を磨き、不要な枝線を削り、中央に新しい主環を刻む。材料は節約した。高価な魔導銀は使えない。代わりに鉄粉と銅塩、骨灰、術式固定用の樹脂、微量の魔石砂を混ぜ、置換魔術で密度を均した即席の導線材を作る。安物だが、自分用の一度きりの儀式なら十分だ。


 円を描く。


 その周囲に六つの補助環。さらに外周へ負荷分散の分岐陣。内側には位相固定、肉体座標、魔力循環、自己認証の式。普通の魔法陣とは発想が逆だった。外界へ干渉するためではなく、術者を外へ逃がさないための檻に近い。


 床に膝をつき、チョーク代わりの鉱粉棒を走らせる。線が伸びる。曲線が繋がる。何度も修正し、わずかな歪みを置換で均す。少しでも狂えば、自分の肉体へ返る負荷が跳ね上がる。大雑把な仕事はできない。けれど、それは彼の得意分野だった。


 夜が更けても、地下室には灯石の白い光が残る。


 床一面に広がっていく陣は、まだ未完成なのに、もう見ているだけで胸の奥が冷える形をしていた。正常な術式にはある種の整いがある。人の手に馴染む、意味の読める秩序がある。


 だが今、石床に広がり始めたものは違う。


 整っているのに、馴染まない。

 理屈は通っているのに、触れたら戻れないと分かる。


 それは禁忌の輪郭だった。


 深夜、最後の一本を引き終えたところで、リンドウはようやく立ち上がった。腰が痛い。指先も強張っている。けれど視線は床から離れなかった。


 中央の主環が、灯石の光を受けて鈍く沈んでいる。その内側に、自分が座ることになる。


 自分しか対象にできない置換。

 消費魔力はほぼゼロ。

 代償は自分自身。


 式はまだ途中だ。触媒も足りない。何をどこまで差し出せば成立するのか、最終計算も終わっていない。それでも、ここまで来ればもう単なる思いつきではない。


 地下室の石床に描かれたそれは、はっきりと未来の形を持ち始めていた。


 リンドウはゆっくりと手帳を開き、新しい頁に進捗を書き込む。


 ――自己対象時、位相抵抗ほぼ消失。

 ――外部燃料不要。ただし代償は内側へ集中。

 ――肉体・魂・術式基盤、いずれか、あるいは複合。


 書き終えたあと、筆先が一瞬だけ止まった。


 最後に、もう一行だけ足す。


 ――もう戻らない前提で組むこと。


 地下室は静まり返っていた。


 その静けさの中心で、未完成の魔法陣だけが、ゆっくりと禁忌の気配を帯び始めていた。


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