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第6話 禁忌

 


 地下室の空気は、日に日に冷たくなっていった。


 季節のせいだけではない。石床いっぱいに描き広げた魔法陣が、まだ起動していないくせに、そこにあるだけで温度を奪っていくみたいだった。灯石の白い光を受けた導線は鈍く沈み、見れば見るほど、人が立ち入るためのものではなくなっていく。


 リンドウは中央の主環の外周をなぞり、指先の感触だけで歪みがないことを確かめた。


 線は正確だ。分岐も狂っていない。負荷分散環も、位相固定環も、自己認証陣も、計算上は問題ない。地下室そのものの石材密度も安定している。ここまで来れば、もう設計の粗さで失敗する段階ではなかった。


 失敗するとしたら、自分が足りないか、代償が足りないか、そのどちらかだ。


 机代わりにしている古い作業台へ戻る。上には手帳と、地下から見つけた無署名の記録束、自分で書き足した計算紙、触媒の試作品が無秩序に積まれていた。無秩序に見えて、彼の中では全部場所が決まっている。


 最上段の紙には、何度も書き直した一文が残っていた。


 ――欲する見返りは、異獣(いじゅう)に対抗できる資質のすべて。


 曖昧なようで、これ以上細かくは切れない願いだった。


 膨大な魔力量が欲しいだけでは足りない。出力があっても、それを扱う器がなければ潰れる。器があっても、術式を見抜く感覚がなければ意味がない。感覚があっても、異獣そのものへ届く手段がなければ、結局また戦場で足りなくなる。


 リンドウが欲しているのは、単一の力じゃない。


 異獣に抗い、殺し、あの日から続いている敗北を終わらせるために必要なもの全部だ。


 それを、今の自分の延長線上で手に入れる方法はもうない。


 だから、延長を捨てる。


 机の脇で、魔導通信端末が短く震えた。淡い青の受信光が、木の天板へ小さく滲む。


 リンドウは見た。


 見て、反応しなかった。


 数日おきに来る連絡だ。最初は通信、次は音声伝言、その後は短い文面だけの簡易連絡。差出人の表示は、毎回同じ名前だった。


 ユリナ。


 端末の受信光が三度ほど明滅し、やがて消える。未再生の表示だけが残った。


 最初の頃は、指先が勝手に端末へ伸びかけたこともあった。今どうしているのか、傷は悪化していないか、食事を取っているのか、そんな言葉が並んでいるのは想像がつく。想像がつくからこそ、開けなかった。


 読めば、揺れる。


 揺れた先で止まれる自信がない。


 リンドウは端末を裏返し、受信光が見えないようにした。それで何も消えはしない。ただ、見えないだけだ。それでも今は、その程度の誤魔化しが必要だった。


 座り直し、計算紙を一枚ずつ並べる。


 置換魔術の理論自体は、もう何周も検証した。無機物と生物の差、自分自身を対象とした時の例外性、置換範囲の拡大に比例する自己崩壊リスク。そこに曖昧な箇所はほとんど残っていない。


 無機物は静的だ。


 木材も鉄も石も、そこにある形が一瞬ごとに自律更新されることはない。温度や圧力で変質はするが、それは外部条件に従った変化であって、内部から「自分を自分として維持する」動きではない。だから置換魔術は通しやすい。術者は対象の今ある構造を掴み、その対応関係をずらせばいい。


 生物は違う。


 血が巡る。神経が走る。細胞が分裂する。魔力を持つ生体なら、そこに位相の揺らぎまで加わる。つまり、生物は常に「自分であり続けようとする構造」そのものだ。置換術式はその自己維持と正面から噛み合う。だから抵抗が生まれる。だから痛い。だから通らない。


 戦場で下級異獣の爪先一つを脆くするだけで、頭の奥が焼けるような痛みに襲われたのは、その理屈の帰結だった。


 他者に向ける限り、置換魔術は弱い。


 けれど、術者本人が対象なら話が変わる。


 術者と対象の魔力位相は同一だ。少なくとも根幹では重なっている。外から侵入するのではなく、内側で自分を書き換える形になる。そのため、噛み合わせのための魔力消費が極端に少なくて済む。少ないどころではない。規模によっては、ほぼゼロに近い。


 リンドウはその一文へ、何度目か分からない視線を落とした。


「魔力じゃない」


 独り言が漏れる。


「必要なのは、交換に耐えるための代償だ」


 そこが、この儀式の本体だった。


 今の自分の魔力量は常人の百分の一しかない。だから普通の大規模儀式なら、起動前の段階で話にならない。けれど自己対象の置換なら、出力不足の壁だけは越えられる。その代わり、力の代金を別のところで払わなければならない。


 置換とは交換だ。


 受け取るだけでは成立しない。新しい何かを得るなら、対応する何かを差し出す必要がある。


 問題は、何を差し出せば「異獣に対抗できる資質のすべて」に届くのかだった。


 最初は、血や寿命のような分かりやすい代償を考えた。だが足りない。そんなもので手に入るのは、せいぜい一時的な出力増幅か、歪んだ身体強化の類だ。今のリンドウが欲しているのは、その場しのぎの上振れじゃない。根本からの作り替えだ。


 なら、根本を払うしかない。


 彼は新しい紙を引き寄せ、中央に三つの語を書いた。


 魂。

 肉体。

 置換魔術。


 しばらく見つめ、それから最初の語へ線を足す。


 男としての魂。


 そこを曖昧にはできなかった。


 魂そのものを捨てるのではない。捨てるのは、今の肉体と噛み合い、今の自分を「男」として成立させている位相の固定だ。そこを残したまま肉体だけを置き換えても、魂の側が元の座標へ引き戻そうとする。器だけ変えても、中身の基準が古いままなら、いずれ破綻する。


 だからまず、男として積み上げてきた自己同一性ごと手放す必要がある。


 リンドウはその結論に、最初の夜こそ手が止まった。


 男であることに誇りがあったわけではない。むしろ、今の自分は男としても兵士としても半端だった。それでも、そこにはこれまで生きてきた全部が絡みついている。子どもの頃の記憶も、候補生学校での時間も、軍で敗け続けた日々も、ユリナと並んだ景色も、全部「今の自分」という枠の中にあった。


 それを捨てると紙に書くことは、簡単じゃなかった。


 だが、必要だ。


 必要だから、もう一つの語へ目を移す。


 肉体。


 こちらはもっと単純だ。今の身体は小さすぎる。器として足りない。魔力回路は細く、総量も少なく、異獣と対峙するには脆すぎる。強化では間に合わない。補修でも足りない。根本から置き換えるしかない。


 だから今の肉体そのものを差し出す。


 骨も、肉も、血も、回路も、男として育った器ごと。


 最後に残るのが、置換魔術そのものだった。


 ここが最も冷たく、最も重い。


 この大儀式は、置換魔術を使って自分を置換する。だが規模が大きすぎる以上、術式を回しきるには単なる手段としての使用では足りない。固有魔術の核そのものを燃料化し、儀式の自己参照系へ組み込む必要がある。つまり、【置換魔術】は完成と同時に壊れる。


 発火装置であり、代償でもある。


 今の自分に残っている数少ない強みを、自分で焼き潰す。それが三つ目だった。


 リンドウは紙へ明記する。


 置換対象は三つ。

 男としての魂。

 今の肉体。

 そして固有魔術【置換魔術】そのもの。


 そこまで書いて、筆が止まる。


 手元の灯りが少し揺れた。地下室は静かだ。静かすぎて、自分の呼吸と、たまに鳴る家鳴りだけがやけに大きく聞こえる。


 ここまで来れば、もう理論の不足で足踏みしているわけではない。


 足りないのは覚悟だけだ。


 その自覚が、妙に淡々と胸へ落ちてきた。


 夜が更け、作業台の端に置いた郵便束へ目が行く。


 返送して以降、ユリナからの支援は来なくなった。代わりに、二度だけ短い手紙が届いた。どちらも開けていない。封筒の表にある癖のない字を見るだけで、内容は大体分かる。無事ならそれでいい、せめて生きていると知らせてほしい、そのくらいだろう。


 開けないまま、引き出しへ入れてある。


 捨ててはいない。


 捨てていないことを、自分でも少し情けなく思う。切るならきっぱり切れと思うのに、そこまではできない。できないから、見ないだけだ。


 その夜、地下作業を切り上げて一階の書斎へ上がった時、棚の奥から薄い紙片が落ちた。


 しゃがんで拾い上げる。


 写真だった。


 小さな銀塩写真。縁は少し擦れている。候補生学校に入って二年目の、夏季訓練の終わりに撮ったものだ。集合写真から切り抜かれたらしく、背景の端が不自然に欠けている。


 写っているのは、リンドウとユリナだった。


 まだ今より少し幼い顔をしている。リンドウは表情が硬いが、無理やり口元を上げているのが分かる。隣のユリナは、日焼けした顔でまっすぐ笑っていた。肩が触れそうな距離だ。いや、実際に少し触れている。


 しばらく、目が離せなかった。


 こんなものを残していたのかと、自分で驚く。たぶん手帳の間へ挟んだまま忘れていたのだろう。故郷の写真は一枚も残っていない。けれど、故郷を失ったあとにまだ隣にいた時間の証拠は、こうして手元にあった。


 あの日の訓練場は暑かった。


 砂埃がひどく、教官の怒鳴り声が絶えず、終わったあとは皆ぼろぼろだった。写真を撮ると聞いた時、リンドウは面倒だと思っていた。ユリナだけが妙に機嫌がよくて、せっかくだからちゃんと写ろうと言ってきた。


 その声が、今でも少し思い出せる。


 写真の中の自分は、まだ今ほど尖っていない。弱さは同じようにあったはずなのに、それでもどこか、ここまで追いつめられてはいない顔だ。


「……今さらだな」


 言っても、写真は何も返さない。


 ユリナの笑顔を見ていると、胸の奥で何かがわずかに緩む。戻れるのなら戻りたいかと問われれば、答えは簡単じゃない。戻ったところで、結局また同じ場所へ辿り着く気もする。けれど、この一枚の中にある距離の近さだけは、少し眩しかった。


 リンドウは写真を机の上へ置き、しばらく灯りを消せなかった。


 迷いがなかったわけじゃない。


 ここでやめれば、少なくともまだ、人の形のまま暮らせる。整備の仕事でも探して、郊外で静かに生きることはできるだろう。ユリナの隣にはいられなくても、完全に取り返しのつかない場所まで落ちずには済む。


 それでも。


 その「それでも」が、今の彼を全部押していた。


 写真の中の自分は、ユリナの隣に立っている。


 今の自分は、もうその場所に立てない。


 守られ、切り離され、庇われるだけの位置へ押し込まれたまま、生き延びることだけを選ぶ未来に、どうしても納得できない。


 結局、そこに戻る。


 迷いはある。未練もある。けれど、折れはしない。


 写真を手帳の一番後ろへ戻し、リンドウは静かに閉じた。


「悪い」


 誰に向けた言葉かは、自分でも曖昧だった。


 翌日から、準備はさらに具体化した。


 触媒を三つに絞る。故郷の門柱の木片。自分の血。置換魔術の自己認証式を刻んだ結晶片。木片は原点の固定、血は術者同一性の保証、結晶片は【置換魔術】そのものを儀式へ接続する鍵になる。


 外部から持ち込める触媒はその程度でいい。大半の代償は内側から支払うのだから、外の物質は方向を定める杭にすぎない。


 陣の中心には、術者が座るための小さな円座標を置いた。そこから外周へ伸びる線は三本。魂、肉体、術式核。それぞれ対応する損耗経路だ。視覚化すると気味が悪いほど単純だった。


 死ぬかもしれない。


 いや、おそらく今の自分は残らない。


 その認識はもう、恐怖ではなく確認事項へ変わりつつあった。


 夕方、また魔導通信端末が震えた。今度は音声伝言の着信だった。受信表示の時間が、いつもより少し長い。リンドウは机に置いたままの端末を見つめる。


 指先が、今度こそ本当に触れかけた。


 再生してしまえば、たぶんユリナの声が流れる。


 その声を聞いたら、迷いが増える。揺れた先で止まれる保証はない。それでも、一度くらい聞いてもいいのではないかという考えが頭をよぎる。


 十秒ほど、そうしていた。


 やがて受信光が消え、未再生の印だけが残る。


 リンドウは端末へ背を向けた。


 それでいい。今さら情けを残しても、何も救われない。救われたいのなら、最初からこの地下室にはいない。


 日が落ち、灯石だけが地下室を照らす。


 儀式の最終確認に入る。外周環の閉鎖。導線の連結。触媒配置点の再計測。自己認証式の最終書換え。紙の上の設計図は、もうほとんど役目を終えていた。これ以降は机上計算ではなく、実際に起動するしかない。


 リンドウは血を採った。左手のひらを浅く切り、器へ落とす。量は多くいらない。だが儀式が術者本人を確実に認識するには、新しい生体情報が必要だった。


 故郷の木片を主環の北へ置く。


 結晶片を南へ。


 最後に、手帳からあの写真を取り出した。


 触媒として必要だったわけではない。本来なら、ここへ置く理由はない。けれどリンドウは、数秒迷ったあと、主環の外、東側の石床へそっと置いた。


 自分が何を捨てるのか、その確認のためだ。


 写真の中で笑うユリナは、こちらを見ていない。過去の一瞬は、現在の決意に干渉してこない。ただ静かに、失われる側に回るだけだ。


 リンドウは主環の中心へ入った。


 石床は冷たい。座り込み、背筋を伸ばす。周囲を囲む線と環が、灯石の下で淡く沈んでいる。逃げ道のない檻の中心に自分で座ったのだと、妙にはっきり分かった。


 深呼吸を一つ。


 肋骨の傷は、もうほとんど痛まない。軍を去ったあの日の絶望も、温室で受けたユリナの懇願も、今はどこか静かな場所へ沈んでいる。消えたわけではない。ただ、全部がこれから起こることの前提に変わった。


「置換対象、確定」


 声に出す。儀式は言葉を必要としないが、言語化した方が認識がぶれない。


「男としての魂」


 第一の線が、かすかに青く灯る。


「現在の肉体」


 第二の線が灯る。


「固有魔術【置換魔術】」


 第三の線が灯った。


 地下室の空気が変わる。灯石の光が吸われるように薄まり、代わりに床の導線が内側から白く満ち始めた。


 リンドウは目を閉じない。


「見返りは」


 喉が一度だけ鳴る。


「異獣に対抗できる資質のすべて」


 それが合図だった。


 主環が一気に起動し、石床全体へ白い光が走る。導線が焼ける匂い。空気の震え。術式環が一枚、二枚、三枚と重なり、地下室の天井近くまで幾何の輪を積み上げていく。


 故郷の木片が浮いた。


 血の器が光へ溶ける。


 結晶片が悲鳴みたいな高音を立てる。


 遅れて、中心のリンドウ自身へ最初の負荷が来た。全身の輪郭が内側からずれ始める。皮膚の下で、自分という境界が剥がれていく感覚。だがまだ始まりにすぎない。


 それでも、もう止める気はなかった。


 地下室全体が白光に呑まれる。


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