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第4話 もう戦わないで

 


 呼び出しは、治療経過の確認という名目だった。


 傷が塞がりきる前の朝、リンドウは療養棟の寝台から起こされ、簡易礼装の上着を羽織って管理棟へ向かった。肋骨のひびはまだ疼いている。大きく息を吸うと胸の奥が鈍く痛み、魔力回路の過負荷も完全には抜けていない。だが歩けないほどではなかったし、実際、医務班からも軽い日常動作なら問題ないと言われていた。


 だから、最初は本当に経過確認だけだと思っていた。


 管理棟二階の面談室は、どこにでもある無機質な部屋だった。灰色の壁、曇りガラスの窓、書類棚、魔導照明。机の向こうには、地方防衛軍のロウエン中佐が座っている。隣には医務官。二人とも忙しい時の顔をしていて、雑談を挟む余地は最初からなかった。


「座れ」


 短い指示に従って椅子へ腰を下ろす。

 ロウエン中佐は手元の書類に一度だけ目を落とし、そのまま用件を切り出した。


「リンドウ・セイル伍長。戦闘記録および医療報告、ならびに上申内容を総合判断した結果、お前を前線戦闘任務から除外する」


 言葉の意味は明快だった。

 あまりに明快で、すぐには現実味がなかった。


「……除外、というのは」

「そのままの意味だ。次回以降、お前は前線戦闘班に入らない」


 ロウエン中佐の声は淡々としている。慰めも、もったいぶりもない。事務処理の延長みたいな口調だった。


「後方支援、術式整備、資材管理、解析補助のいずれかへの配置転換を検討する。お前の固有魔術(こゆうまじゅつ)と魔力制御精度は、そちらの方が有効だと判断された」


 リンドウはすぐに返事ができなかった。

 予感がなかったわけではない。第七次掃討線での自分の失態は、自分が誰よりよく知っている。中級異獣に通じず、味方を庇って潰れ、結局はユリナに拾われた。あの戦闘を見た者が、前線適性なしと考えても不思議ではない。


「意見はあるか」


 ロウエン中佐が問う。

 リンドウは喉の奥で一度だけ息を詰まらせ、ようやく声を出した。


「……戦績が悪いのは自覚しています。ただ、即座に外すほどかと聞かれれば、納得はしきれません」


 言い返すというより、確認に近い声だった。


「前線で通用していない部分はある。それは認めます。でも、だからといって完全に外す判断になるのは――」

「死にかけた」


 ロウエン中佐が遮る。

 短く、断定的だった。


「しかも一度ではない。記録上でも、お前は複数回、前線で単独対処不能の状況を作っている。今回だけでも、中級異獣への干渉、味方庇護、重傷。結果として生存したのは、中央特務の即応が間に合ったからだ」


 机の上の書類が軽く叩かれる。


「運が悪ければ死んでいた、ではない。運が良かったから死ななかった。そこを履き違えるな」


 反論の言葉は出なかった。

 事実だからだ。


 ロウエン中佐は数秒だけ間を置き、声音を少し落とした。


「切り捨てたいわけではない。お前の技量そのものを否定しているわけでもない。整備と解析へ回れば、十分戦力になる見込みがある。むしろそちらの方が活きる」


 その言い方に、余計に胸が痛んだ。

 否定ではない。排斥でもない。合理的な再配置だ。だからこそ、逃げ場がない。


「……上申内容、と言いましたね」


 リンドウは指先を膝の上で握った。爪が布越しに食い込む。


「誰からですか」


 ロウエン中佐は答えを濁さなかった。


「医務官の報告、現場指揮官の所見、それに中央特務所属ユリナ少尉からの進言があった」


 その名前が出た瞬間、胸のどこかが静かに沈んだ。

 驚きはない。


 たぶんそうだろうと思っていた。あの戦場のあと、ユリナが何も言わずに引き下がるはずがない。彼女はあの場を見ていたし、あのまま放っておく性格でもない。

 分かっていたのに、実際に聞くと違う痛みがある。


「どんな進言でしたか」


 自分でも驚くほど平坦な声だった。

 ロウエン中佐は一瞬だけリンドウを見て、それから事務的に答えた。


「このまま前線に戻せば、いずれ確実に死ぬ。本人の意志より先に、指揮系統が止めるべきだと」


 室内がやけに静かに感じられた。

 医務官が書類をめくる紙の音だけが小さく響く。

 リンドウは視線を落としたまま、数秒何も言えなかった。怒りが湧いたわけではない。むしろ、内容の方向としてはユリナらしすぎて、怒るにもずれがある。

 見下されたのではない。

 守ろうとされたのだ。


 だから……痛い。


「本人は後方配置を拒否する可能性が高い、とも付記されている」


 ロウエン中佐が続ける。


「そこまで読まれている以上、こちらも形式だけの打診では済ませられん。命令として伝える」


 リンドウはようやく顔を上げた。


「拒否した場合は」

「軍規上は従軍継続の形で後方配置だ。ただし、任意退役を願い出ること自体は妨げない」


 そこまで聞いて、ようやく話の全体が見えた。

 前線不適格。後方配置。もしくは退役。

 つまり、もう戦うなということだ。


「質問は以上か」


 問われて、リンドウはしばらく黙っていた。いくつか言いたいことはあった。前線でしか見えないものがあるとか、自分にはまだやれることがあるとか、整備に回れば納得できるわけじゃないとか。

 けれど、そのどれもがこの場では薄い言葉にしかならない気がした。


「……ありません」


 かろうじてそう返す。

 ロウエン中佐は頷いた。


「本日中に配置転換受諾か、退役申請かを決めろ。療養名目で先延ばしにはしない。以上だ」


 面談はそこで終わった。

 廊下へ出た瞬間、外の光がやけに白く見えた。管理棟の窓越しに、訓練場の音が遠く聞こえる。掛け声、金属音、術式の起動音。いつもと同じ朝のはずなのに、自分だけそこから切り離されたみたいだった。


 前線不適格。


 頭の中でその言葉だけが、変に澄んだ輪郭のまま残っている。

 リンドウは壁際に立ち、ひとまず深く息を吐こうとして、肋骨の痛みに眉を寄せた。うまく息が入らない。痛みのせいだけではなかった。胸の奥で、何かがひどく静かに軋んでいる。


 足音が近づく。

 聞き慣れた靴音だった。振り返る前から誰か分かる。


「……終わったんだね」


 ユリナが立っていた。

 軍服姿だった。今日はウルティマの外套ではなく、駐屯地内用の軽装だ。けれど肩章はそのままで、胸元の徽章もよく磨かれている。廊下の光を受けて、銀が冷たく光っていた。

 彼女の顔色は悪くない。ただ、目元に疲れが残っている。ここ数日、前線と中央の往復で休めていないのかもしれない。


 リンドウはすぐに返事をしなかった。


 ユリナも急かさない。だが、その沈黙が長くなるほど、答えを知っている者同士の気まずさだけが濃くなっていく。


「……聞いた」


 ようやく口にすると、ユリナの睫毛がわずかに揺れた。


「そっか」

「お前の進言も入ってるって」


 責めるつもりの言い方ではなかった。少なくとも、そうならないように抑えたつもりだった。けれど完全に平らな声にはできていないのが、自分でも分かる。

 ユリナは少しだけ息を吸い、それから頷いた。


「うん。私からも言った」

「だろうな」


 それ以上ここで話すつもりはなかった。廊下の向こうでは人が行き交っている。誰かに聞かれたい内容じゃないし、何よりこのまま立ち話で済むようなことでもない。

 リンドウが視線を外すと、ユリナが静かに言った。


「少しだけ、時間もらえる?」


 断ろうとして、できなかった。

 話さなければ終わらないと分かっていたからだ。


「……場所は」

「中庭の温室。今の時間、人が少ないから」


 彼女の提案に、リンドウは黙って歩き出した。


 管理棟の裏手にある温室は、傷病兵の気分転換や薬草栽培に使われている小さな施設だった。ガラスと魔導金属で組まれた半円形の屋根に、朝の光が淡くにじんでいる。中へ入ると、湿った土と青い葉の匂いがした。外の軍施設らしい硬さが、ここだけ少し薄い。


 人影はない。


 中央の通路を挟んで長椅子が二つ。ユリナは奥の方へ進み、そこでようやく足を止めた。


「ここなら大丈夫だと思う」

「大丈夫って言い方、便利だな」


 自分でも驚くほど乾いた返しだった。


 ユリナはほんの少しだけ困ったように笑って、すぐ真顔に戻る。


「ごめん。たぶん、何を言っても軽くなる気がして」

「……そうだな」


 リンドウは向かいの長椅子へ座らず、少し離れた場所に立ったままだった。座ってしまうと腰が据わりすぎる気がしたし、何より今の自分は落ち着いて向き合える状態じゃない。

 ユリナもそれを咎めなかった。


「前線から外すように言ったのは、私」


 彼女は先にそう認めた。


「医務官の判断も、指揮官の報告もあった。でも、最後に強く押したのは私」


 まっすぐな言い方だった。言い訳めいた飾りがない分、余計に重い。


「分かってる」


 リンドウは短く返した。


「お前がそんなことを他人任せにするとは思ってない」


 ユリナの指先が、軍服の裾をそっと握る。緊張している時の癖だ。昔から変わらない。


「怒ってる?」

「……怒ってない、は嘘になる」


 少し間を置いてから、リンドウは言葉を足した。


「でも、お前が悪意でやったと思ってるわけじゃない。そこは分けてる」


 ユリナの表情がわずかに揺れた。安堵と苦しさが一緒に滲む。


「ありがとう」

「礼を言われる話じゃないだろ」

「それでも。ちゃんと分けてくれたから」


 沈黙が落ちる。温室の自動散水術式が、どこかで小さく水音を立てた。

 リンドウは葉の影がガラス越しの光に揺れるのを見ていた。見ていないと、今すぐ視線を逸らしたくなりそうだったからだ。


「何で、そこまでした」


 ようやく出した問いは、思ったより低かった。


「前線で危ないのは、お前も昔から知ってる。今回だけ特別じゃない」

「今回は、特別だったよ」


 ユリナの返答は即座だった。


「私、何度も見てきた。あなたが無理してるのも、無茶してでも前に出るのも。でも、あの日は違った。あれはもう、次があったら間に合わない側だった」


 その言葉に、喉の奥が少しだけ熱くなる。

 言いたいことは分かる。分かりすぎるほど分かる。あの日の殻蛇獣の前で、自分がどんな顔をしていたかも、今なら少し想像できるからだ。


「だからって、勝手に決めるのか」


 責めるつもりの声音ではなかった。問いとして出した。けれど、そこに滲む痛みまでは隠しきれない。

 ユリナは一度だけ目を伏せる。


「勝手だってことは、分かってる」


 そして、顔を上げた。


「でも、見てられなかった」


 その一言が、ひどくまっすぐ胸へ刺さった。

 見下されたんじゃない。捨てられたんじゃない。見ていられないほど心配されたのだ。その善意の形が、リンドウには何よりもきつい。


「リンドウ」


 ユリナが彼の名を呼ぶ。


「もう戦わないで」


 空気が静まった気がした。

 その言葉を、どこかで予想していた。たぶん面談室で彼女の名前を聞いた瞬間から、こうなることは分かっていたのだと思う。

 それでも実際に口にされると違う。


 リンドウは何も言えなかった。怒鳴る気にもなれない。ただ、胸の内側で何かが音を立てずに沈んでいく。


 ユリナは続けた。言葉が途切れないようにするためか、少しだけ早口だった。


「前線に戻っても、あなたはまた無茶をする。自分がもたないって分かってても、人を庇う。退かない。そういうの、もう見たくないの」


 そこで彼女は唇を噛み、呼吸を整える。


「整備でも解析でも、あなたにできることはある。戦う方法は他にもあるし、軍を離れる方がいいなら、それでもいい」


 リンドウはようやく視線を向けた。


「軍を離れる方がいい?」

「……うん」


 ユリナの声が、さらに低くなる。


「住む場所は私がどうにかする。中央に部屋を取れる。生活費も、しばらくは私が出すから」


 その瞬間、頭の中が真っ白になった。

 意味が分からなかったわけではない。むしろ、言葉の意味だけなら澄みすぎるほど分かる。だからこそ、身体のどこにも逃げ場がなかった。

 住む場所。生活費。私が出す。


 つまり、生き方ごと引き取ると言われたのだ。


 守るを通り越して、支えると。もう戦わなくていいように、何も失わなくて済むように、彼女の力で囲うと。

 リンドウはすぐに返事ができなかった。

 怒りは湧かない。怒るには、ユリナの顔があまりにも必死だった。彼女は本気でそうするつもりなのだ。見下しているわけでも、支配したいわけでもない。本当に、ただ失いたくないだけ。


 だからこそ、ひどく傷つく。

 自分がどれだけ惨めな位置まで落ちたのかを、優しさの形で突きつけられた気がした。


「……そこまで言わせたのか、俺」


 ようやく出た声は、驚くほど掠れていた。

 ユリナが苦しそうに眉を寄せる。


「違う。あなたが悪いって意味じゃない」

「悪いって意味じゃないのは分かる」


 リンドウはそこで言葉を切った。頭ごなしに拒絶したくはなかった。彼女の意図は受け取るべきだと、ぎりぎりで分かるからだ。


「お前が俺を守りたいのも、本気で失いたくないと思ってるのも、疑ってない。そこはちゃんと分かってる」


 言うたびに、胸の奥が削れる。


「だから余計に、きつい」


 ユリナの喉が小さく動いた。

 リンドウは視線を逸らし、近くの薬草棚を見る。薄紫の花が咲いていた。穏やかな色だ。今の自分には、妙に遠い。


「住む場所も、生活費も、お前が出すって……それは」


 言いかけて、言葉が詰まる。

 飼われる、という単語が浮かんだ。だがそれをそのまま口にするのは違う。ユリナの善意を汚すだけだし、彼女自身もそんなつもりではない。

 だから、別の形を探す。


「それは、俺に守られる側で生きろって言ってるのと、結果が変わらない」


 ようやく絞り出すと、ユリナの肩が微かに震えた。


「違うよ」


 すぐに返ってきた声は、珍しく少しだけ強かった。


「守られる側とか、そういう上下で考えてない。私はただ、生きていてほしいだけ」

「理性では理解している。でも、感情がそうならない」


 リンドウは静かに返す。


「お前の中でどういう意味かは分かる。けれど、俺がそれを受け取った瞬間、俺の中では別の形になる」


 ユリナは何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。感情だけで押し切らないようにしているのが分かる。苦しい時ほど丁寧さが少し崩れる、そのぎりぎりの場所に今いるのだと、リンドウには分かった。


「……あなたは、死ぬかもしれないんだよ」


 やがてユリナが言った。


「次は本当に間に合わないかもしれない。そう分かってるのに、どうしてそこまで前に立とうとするの」

「故郷を奪われたからだ」


 返答は迷わなかった。


「それだけで全部説明できるとは思ってない。でも、根っこはそこから動いてない。俺が前から降りたら、あの日から繋がってるものが全部切れる」

「切れないよ」

「俺の中では切れる」


 短く言い切ったあと、胸が痛む。肋骨のせいではない。


「お前の言ってることは正しい。整備や解析に回れば、生き残る可能性は上がる。軍を離れて暮らす道も、きっと普通に見ればまともだ。そこは否定しない」


 リンドウは一度だけ、まっすぐユリナを見た。


「でも、飲めない」


 その言葉が温室の空気に沈む。

 ユリナは目を閉じた。まぶたの縁が、少しだけ赤い。


「お願い」


 彼女はそう言って、声を絞った。


「もう戦わないで」


 同じ言葉なのに、一度目よりずっと重かった。

 懇願だった。命令でも説得でもない。ただ、大事なものを失いたくない人間の願いだった。

 リンドウは喉を鳴らす。返事をしなければならない。ここで黙って逃げるのは、あまりに卑怯だ。


「……お前の願いだってことは、分かる」


 自分でも驚くほど静かな声が出た。


「軽く扱うつもりもない。たぶん、俺に向けられた言葉の中で、一番重い」


 そこで一拍置く。


「でも、それを受けたら、俺はたぶん駄目になる」


 ユリナの目が見開かれ、次の瞬間には深い悲しみへ沈んだ。


「そこまで……?」

「そこまでだよ」


 声を荒げる気には、最後までなれなかった。

 彼女が本気だと分かっているからだ。だから怒鳴れば、自分の方が卑しくなる気がした。


「お前に食わせてもらって、住む場所をもらって、それで前を見るなって言われたら……俺はもう、何を根拠に立ってればいいのか分からない」

「私は、そんなふうに奪いたいわけじゃ」


「分かってる」


 リンドウはすぐに受けた。


「奪いたいんじゃない。守りたいんだろ。だから今も、全部突っぱねずに聞いてる」


 それでも、と彼は続ける。


「それでも俺には、お前の善意の中で生きる未来を選べない」


 ユリナはその場で立ち尽くした。何かを言えばまだ繋ぎ止められると分かっているのに、どの言葉も彼の傷を深くするだけだと、彼女自身も気づいてしまったようだった。


 長い沈黙が落ちる。


 温室のガラス越しに、遠くで訓練用の爆音が一つだけ響いた。日常の音だ。なのに、この場所だけ別の季節に置いていかれたみたいだった。

 やがて、ユリナが小さく息を吐く。


「……ごめん」


 その謝罪に、リンドウは首を振った。


「謝られるのも違う」

「でも、私」

「お前は、お前にできる形で守ろうとした。何も悪くない。悪くないんだよ」


 言いながら、自分でも驚くほど心が冷えていくのを感じる。怒りで熱くなるのではなく、逆だった。どうしようもないところまで来たのだと、静かに理解してしまった時の冷え方だった。


「だからこそ、ここで線を引く」


 ユリナが息を呑む。


「リンドウ」

「後方配置は受けない」


 彼はゆっくり言った。


「軍も、辞める」


 その言葉は、口にした瞬間からもう取り消せなかった。

 ユリナの顔から血の気が引く。彼女は一歩だけ前へ出かけて、止まった。引き留めたいのに、今の彼へ触れたら完全に壊れると分かっているみたいだった。


「待って」


 かすかな声。


「今、決めなくても」

「今日中に決めろって言われてる」

「それはそうだけど、もっと考えてからでも――」


「考えたら、飲める話になるのか」


 問い返すと、ユリナは答えられなかった。

 答えられないこと自体が答えだった。


「俺はもう、お前の善意の上で前を諦める形には乗れない」


 それは拒絶ではなく、宣告に近かった。


「ここに残ったら、たぶんお前は守ろうとし続ける。俺はそれを拒み続ける。その繰り返しになる」


 リンドウは視線を落とした。


「それなら、離れた方がましだ」


 ユリナは唇を噛んだ。止めたい。けれど止める言葉を持たない。そんな顔だった。

 リンドウはもう一度だけ彼女を見た。

 好きとか嫌いとか、そういう単純な線で切れる相手ではない。故郷を失った夜から、ずっと隣にあった人間だ。守られた記憶も、救われた記憶も、支えられた時間も、本物だった。


 それでも今、その本物の優しさが決定的な断絶を作っている。


「……さよなら、とは言わない」


 リンドウは小さく言った。


「そこまで軽く切れる相手じゃないから」


 ユリナの瞳が揺れる。


「でも、今のままじゃ一緒にはいられない」


 返事はなかった。代わりに、彼女の指先がかすかに震えた。

 温室を出たあと、リンドウはまっすぐ管理棟へ戻った。


 歩くたびに胸が痛む。けれど足取りは妙に静かで、自分でも不思議なくらい迷いがなかった。感情が整理されたわけではない。ただ、もう戻れない地点を踏み越えたという感覚だけが、はっきりしていた。

 総務窓口の若い軍属が、退役申請書を見て一瞬目を見開く。


「本当に、本日付でよろしいのですか」

「はい」

「療養期間後の再考手続きも可能ですが」

「それでも、今日で」


 自分でも驚くほど声は穏やかだった。


 手続きを進める間、窓口の向こうで何枚も書類が渡され、署名が求められる。氏名、所属、階級、任意退役理由。筆記具を持つ指先は安定していた。胸の中はぼろぼろのはずなのに、手だけが妙に冷静だ。


 最後に、軍の身分証を返却する段になった。

 薄い金属板に埋め込まれた認証結晶。入隊時に渡されたものだ。隊舎の入退室も、補給も、任務記録も、すべてこれで管理される。軍人であることを証明する、当たり前の小さな板。


 リンドウはそれをしばらく見つめた。

 これを返せば、自分は本当に軍の外へ出る。前線不適格と告げられた後方兵ではなく、軍籍のないただの人間になる。

 それでも、躊躇は長く続かなかった。


 カウンターの上へ、そっと置く。

 小さな金属音が鳴った。


 窓口の軍属が受領印を押し、形式的な退役処理完了を告げる。リンドウは礼を言って窓口を離れた。もう呼び止める者はいない。軍は戦う組織で、戦えない者をいつまでも抱えておくほど甘くも悪辣でもない。


 隊舎の自室へ戻り、荷物をまとめる。


 といっても大した量はなかった。着替え数枚、工具一式、魔術理論の基礎書、候補生学校時代から使っている手帳。故郷の写真はない。焼けて失われたからだ。その代わり、小さな木片だけが引き出しの奥に入っていた。家の門柱の欠片。あの日、瓦礫の中から拾ったものだ。


 それを掌に乗せると、ざらついた感触が指に残る。

 故郷の形見と呼ぶには小さすぎる。ただ、何もないよりはましだった。

 荷を肩にかけ、隊舎を出る。


 夕方が近づいていた。訓練場ではまだ兵たちが動いている。誰かが魔術の発動手順を怒鳴られ、別の誰かが笑っている。少し離れたところで、補給車が軋みながら通り過ぎた。

 全部、昨日までの自分がいた場所だ。もう戻らない。


 門へ向かう途中、一度だけ足が止まった。視線の先に、遠くユリナの姿が見えたからだ。訓練場脇の通路に、一人で立っている。こちらに気づいているのかどうかは分からない距離だった。


 声はかけなかった。

 向こうも動かなかった。

 ただ、それでよかった。今言葉を交わせば、何かがまた中途半端に繋がってしまう気がしたからだ。


 駐屯地の門を抜けると、街の空気が少しだけぬるく感じた。人の暮らしの匂いがする。食堂の煙、車輪の油、焼いたパンの甘い匂い。軍を出たばかりの人間には、どれも少し遠い。

 行く当てがないわけではない。安宿くらいは取れる。金も、当座を凌ぐ程度なら残っている。ユリナの申し出を受けずに済む程度には、まだ自分の足で立てる。

 けれど、その先は白紙だった。


 整備の仕事を探すか。解析補助で食い繋ぐか。普通なら、そう考える場面なのだろう。

 なのにリンドウの頭の中では、別のものが静かに形を取り始めていた。

 前線を去った事実。もう戦うなと言われたこと。ユリナの善意の中で生きる未来を拒んだこと。その全部が、一つの方向へ押してくる。


 このままでは終われない。

 前線に立つ資格を失ったまま、守られる側として生きることだけはできない。


 だったら、力を作るしかない。


 まともな道では、もう追いつかないことも分かっていた。魔力量は生まれつき底に近い。努力で埋まる差じゃない。軍の訓練でも、一般的な強化魔術でも、ユリナの背中どころか普通の兵士の背中にすら届かなかった。


 なら、まともじゃない道はどうだ。

 その発想が浮かんだ瞬間、リンドウは立ち止まった。


 夕暮れの街路で、行き交う人々の流れが横を抜けていく。誰も彼を見ない。誰も、今この胸の奥で何が折れて何が尖り始めたのか知らない。


 禁忌という言葉が、初めて現実の手触りを持った。

 恐ろしくないわけではない。むしろ怖い。置換魔術が生物に向かないことも、自分の魔力が底辺であることも、無茶な術式が術者を壊すことも、全部知っている。

 それでも、もう後戻りできない気がした。

 軍を去ったあの瞬間に、元の自分へ戻る道は閉じたのだ。


 夜がゆっくりと街へ降りる。


 安宿へ入ったリンドウは、荷物を下ろすと、手帳を机の上へ置いた。候補生学校の頃から書き溜めてきた、術式の癖、魔力の流れ、置換魔術の細かな観察記録。誰にも見せていない、個人的な研究の断片だ。


 ページをめくる。


 無機物の構造置換。部分転写。自己対象時の負荷低減。書きかけで止まった仮説。危険すぎると判断して、途中で閉じた欄もある。


 最後の空白頁に、リンドウはしばらく筆を置かなかった。


 やがて、静かに一行だけ書きつける。


 ――己を置換する方法。


 文字を書いた瞬間、心のどこかで何かが完全に壊れた音がした気がした。


 けれど、もう怖くはなかった。


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