第3話 惨敗
召集から三時間後、北東方面第七次掃討線の前進基地は、夜明け前だというのに昼より騒がしかった。
簡易滑走路には魔導輸送艇が何隻も並び、整備班が怒鳴り合うように点検を進めている。砲兵隊は移動式の術式砲台を展開し、通信兵は青白い光板の前で矢継ぎ早に報告を飛ばしていた。遠くの防壁の向こうでは、まだ見えないはずの異獣群の気配だけが、空気の重さとなって押し寄せてくる。
リンドウは装備点検を終えた短剣を鞘へ収め、手袋の上から一度だけ指を握った。指先の感覚は悪くない。補助器の出力も規定内。肩の傷も、昨日のうちに問題なく塞がっている。
条件だけ見れば、出られる。
だから余計に、胸の内側が落ち着かなかった。
「顔、硬えな」
隣で装弾帯を締めていたカインが言った。いつものぶっきらぼうな声だが、今日は少し低い。
「大規模だからな。緩んでる方が怖い」
「まあそうだが、噛みすぎると顎が死ぬぞ」
軽口だった。普段ならもう少し乾いた空気で終わるやりとりなのに、今日は違う。周囲の兵たちも、動きこそ手慣れているが、誰もが少しだけ早口で、少しだけ無駄に装備へ触れている。大規模掃討は、定例任務と同じ顔をして来ない。
前方展開された光板に、作戦図が浮かんでいた。北東方面の荒野、その先に伸びる崩落丘陵、複数の小規模湧出口、そしてその奥で確認された異常魔力反応。主力は中央から来る重装部隊と特務戦闘部隊ウルティマが担当する。地方防衛隊の数個中隊は、その外縁で陽動と掃討線維持を任される。
リンドウたち第三十八区画所属小隊は、その陽動側だ。
つまり、本命の敵を引き出すために前へ出る。
分かりやすい役目だった。
「第三小隊、前へ」
上官の声が飛ぶ。
兵たちが一斉に動き出す。リンドウも列へ加わり、仮設通路を進んだ。鋼材と魔導樹脂で組まれた進発路の下では、補給班が最後の弾薬箱を押し込んでいる。
その途中、滑走路の向こうに赤銅色の髪が見えた。
ユリナだった。
黒い戦闘外套の上から、ウルティマ所属を示す銀の肩章が淡く光っている。彼女は数名の特務隊員と短いやりとりを交わし、すぐに別方向へ歩き出した。こちらに気づいたのは、ほんの一瞬だけだ。目が合う。だが互いに言葉はない。こういう場では、それが正しい。
昨日まで私服で並んでいた相手が、もう完全に別の戦場の人間へ戻っている。
「行くぞ、リンドウ」
カインに肩を叩かれ、リンドウは前を向いた。
陽が昇る前、第一波の術式砲撃が始まった。
低い地鳴りとともに空気が震え、前方の荒野に幾本もの火柱が立ち上がる。照準は主群ではない。浅い湧出口と進路の切断が目的だ。爆ぜた泥が霧みたいに広がり、その奥で無数の赤い点が揺れた。
異獣の目だ。
「各隊、予定線まで前進。繰り返す、予定線まで前進」
通信板が点滅する。
第三小隊は防壁外縁を抜け、荒野へ踏み出した。泥は前日の雨を吸って重く、ところどころ砲撃で抉れた地面から白い蒸気が上がっている。先行した別小隊の足跡に、自分たちの踏み跡が重なった。
前方五十。最初の接敵。
下級種だ。
「散らすぞ!」
隊長の号令とともに、前衛が走る。裂爪犬型、節足型、瘤だらけの二足型。規模は大きいが、まだ想定内だった。
リンドウは右側面へ寄り、短剣と補助器の術式を同時に起動する。少ない魔力を漏らさないよう、いつも通り細く、丁寧に。正面の敵を落とす火力はない。だから狙うのは足、目、関節、魔力の偏る節点。敵の動きが一拍でも鈍れば、その隙を味方が刈り取れる。
一体目。節足型の第二脚の腱へ短剣を入れる。
浅い。だが歩法が崩れた。そこへ左から槍が突き刺さる。
二体目。裂爪犬の牙の根元に置換魔術を通し、噛み合わせだけを歪める。顎が空を噛んだ瞬間、リンドウは懐へ潜り込んで喉を裂いた。
三体目。跳びかかってきた二足型の膝裏へ、補助器経由で短い衝撃魔術を打ち込み、姿勢を折らせる。カインの槍が頭蓋を砕いた。
最初は、何とかなっていた。
派手ではない。余裕もない。それでも、足を引っ張るだけでは終わらずに済んでいる。呼吸は速いが、動きはまだ切れていない。小隊の前進速度を大きく落とさず、自分の役目だけは辛うじて果たしている。
これなら行けるかもしれない、と錯覚しそうになる程度には。
「右、湧くぞ!」
叫びと同時に、地面が波打った。
泥を割って新たな群れが這い出してくる。砲撃で浅層を焼いても、全部は止めきれない。陽動部隊の仕事は、こうした取りこぼしを派手に踏み荒らして、主群へこちらの存在を見せることだ。
リンドウは前進しながら、目の前の異獣へ置換魔術を飛ばした。前脚の爪先を脆質化。成功。砕けた足場に体勢を崩したところを、横から短剣で頸部へ。
殺せる。
手間はかかるが、やれないわけじゃない。
喉の奥で熱い息を吐いた時だった。左前方で、若い兵士が足を取られて転ぶ。二体の裂爪犬が同時に飛びかかった。
反射で身体が動く。
リンドウは走った。間に合う距離ではない。それでも行くしかなかった。補助器の出力を無理やり上げ、土を蹴る。肺が焼ける。右手の短剣へ全力で魔力を通す。
「伏せろ!」
叫びながら、一体目の鼻梁へ横薙ぎ。
刃は深く入らない。だが勢いは逸らせた。二体目には左手を向ける。置換。眼球表層の液膜と外気を瞬間的に噛み合わせる乱暴な干渉。術式が通った瞬間、頭の奥を焼けるような痛みが走った。異獣が悲鳴を上げて身をよじる。
若い兵士が這って後退し、カインが追いついて二体とも仕留めた。
「助かった……!」
兵士が青ざめた顔で息を吐く。
リンドウは何も返せなかった。左のこめかみから視界の奥にかけて、鈍い痛みが広がっている。生物への置換は、やはり負荷が重い。しかも今のはかなり強引だった。
「無茶しすぎだ」
カインが低く言う。
「庇わなきゃ食われてた」
「だからって、お前が潰れたら意味がねえ」
その通りだ。
その通りなのに、身体が先に動いたのなら仕方がない。仕方がない、としか今は言えなかった。
前進は続く。
砲撃音が遠のき、代わりに直接の咆哮が近くなる。陽動線は想定より深く食い込んでいた。主力が別方向で本命を叩いている証拠でもあるが、そのぶんこちらに回る圧力も増える。
通信兵が叫ぶ。
「前方魔力反応、増大! 中型反応――いや、違う、これ!」
声が最後まで言い切る前に、前線の空気が変わった。
低い唸り。
荒野の先、砲撃で抉れた大地の裂け目から、黒い影が這い上がる。最初に見えたのは尾だった。鋼索みたいに節の刻まれた長い尾。そのあとに甲殻、前肢、頭部。甲冑を無理やり獣の形に組み上げたような巨体が、土を押しのけて立ち上がる。
中級異獣。
兵たちの間で殻蛇獣と呼ばれる類だ。蛇というには脚が多く、獣というには骨格が異常すぎる。顔の半分は硬質の外殻、残り半分は筋肉が露出し、内部で赤黒い魔力が脈打っている。前線の通常班が数人で相手取るものではない。
「陽動線に中級だと……!」
「主群から漏れたのか!?」
ざわめきが一瞬で恐慌へ近づく。
殻蛇獣が咆えた。空気が揺れ、前方にいた二体の下級異獣がその圧だけで吹き飛ぶ。次の瞬間、巨体がありえない速さで前進した。
「散開!」
隊長が叫ぶ。
だが遅い。
最前列の兵士が一人、尾の一撃で地面ごと薙ぎ払われた。土と血が一緒に舞う。別方向では前肢が振り下ろされ、術式障壁ごと二人が吹き飛ばされる。中級種と下級群が同時に来る想定ではなかった。隊形が一気に崩れた。
リンドウは息を呑み、足を止めそうになるのを噛み殺す。
逃げるな。
止まるな。
けれど、どうする。
目の前でカインが槍を構え、吠えるように指示を飛ばす。
「下級無視! 中級の足止めるぞ、脚節を狙え!」
無茶だと分かっていても、それしかない。
リンドウは殻蛇獣の動きを目で追った。正面から斬ってどうにかなる相手じゃない。外殻は厚い。だが関節の継ぎ目、露出筋、眼、呼吸孔。何か一つでも通せる場所があるはずだ。
巨体が右へ旋回する。
尾の軌道。踏み込みの癖。前肢の荷重。
見ろ。見て、拾え。
リンドウは走った。三人の兵が前から抑えに入り、二人が左右へ散る。その一瞬の隙に、彼は殻蛇獣の左後肢側面へ回り込む。近い。近づきすぎれば終わる距離だ。
左手を突き出す。
「――置換」
狙うのは外殻そのものじゃない。脚節内部、接続軟骨の一部。そこだけを脆い石灰質へ置き換える。成功すれば、踏み込みで自壊する。
術式は組めた。
しかし通らない。
中級異獣の魔力抵抗が、下級とは桁違いだった。噛み合わせた瞬間、凄まじい逆流が脳へ叩き込まれる。頭蓋の内側に釘を打たれたみたいな激痛。視界が白く弾ける。
「っ、ぁ――!」
声にならない。
膝が折れかける。けれど術式は半ば通っていた。殻蛇獣の左後肢が一瞬だけ沈み込む。完全ではない。それでも、巨体の動きがほんの半拍鈍った。
「今だ!」
カインの槍が走る。他の兵の魔弾も集中する。露出筋に傷が入る。だが浅い。決定打にはならない。
殻蛇獣が苛立ったように頭を振る。
次の瞬間、側面にいた兵の一人が腹から噛み砕かれた。
時間が止まったみたいに見えた。
血が飛び、叫びが遅れて響く。噛みちぎられた兵の身体が投げ捨てられ、泥の上を転がった。
隊形が完全に崩壊する。
「後退! 線を下げろ、下げろ!」
隊長の声がかすれる。
だが撤退は整然とした動きではなく、ほとんど潰走に近かった。下級種の群れがなおも食らいつき、殻蛇獣がその上から進路ごと踏み潰してくる。誰もが自分の死角で何が起きているか把握できていない。
リンドウは頭の痛みをこらえ、後ろへ下がる兵の一人を支えた。若い兵士だ。さっき庇った相手だった。足をやられている。自力では走れない。
「立てるか」
「っ、少しなら……!」
「少しでいい、下がれ」
肩を貸しながら数歩。
その時、前方で地面が弾けた。
殻蛇獣の尾が迂回してきたのだと理解するより先に、横から別の兵が突き飛ばされるのが見えた。次は自分たちだ。間に合わない。
考えるより先に、リンドウは若い兵を突き飛ばすように後方へ投げた。
そのまま自分が前へ出る形になる。
尾が来る。
正面から見れば、それはもはや鈍器ではなく壁だった。避ける余地はほとんどない。補助器の出力を限界まで引き上げ、短剣を逆手に構える。受け止められるはずがない。分かっている。だからせめて軌道をずらす。
左手を振る。置換魔術。尾の節と節の継ぎ目、その噛み合わせを一瞬だけ狂わせる。
通れ。
通ってくれ。
術式は、ぎりぎりで噛んだ。
尾の軌道がほんのわずか逸れる。
それでも足りない。
衝撃が来た。
全身の骨が一度に鳴った気がした。視界が反転し、空と泥と血の色がぐちゃぐちゃに混ざる。呼吸が止まる。何か硬いものに背中を打ちつけ、そのまま地面を転がった。
痛みが遅れてやってきた。
肺に空気が入らない。口の中に鉄の味が広がる。腕が痺れ、短剣はどこかへ飛んでいた。耳鳴りの向こうで、誰かが叫んでいる。
起きろ。
起きないと死ぬ。
分かっているのに、身体が言うことをきかない。
ぼやけた視界の先で、殻蛇獣がこちらを向いた。赤黒い眼が、まっすぐリンドウを捉えている。足止めの術式を二度も通された相手として、はっきり敵認定されたのだと分かった。
巨体が近づく。
泥を踏み砕く音が、妙にゆっくり聞こえた。
ここで終わるのか、と頭のどこかが冷静に考える。こんな場所で。何も届かないまま。復讐も、誇りも、意地も、全部中途半端なまま。
嫌だ、と思った。
死ぬのが怖い。
それ以上に、ここで終わるのが嫌だった。
リンドウは無理やり上体を起こそうとした。肋骨のどこかが焼けるように痛む。視界の端で、さっき庇った若い兵が這い寄ろうとしているのが見えた。来るな、と言いたかったが声が出ない。
殻蛇獣が前肢を振り上げる。
影が落ちる。
その瞬間、空が裂けた。
轟音。
真上から降り注いだ雷炎が、殻蛇獣の頭部を横殴りに叩きつける。赤と紫が爆ぜ、巨体が悲鳴を上げながら大きく吹き飛んだ。衝撃波で泥が壁のように巻き上がり、リンドウの身体へ熱風が叩きつけられる。
眩しくて目が開けられない。
けれど、次の瞬間に聞こえた声で誰が来たか分かった。
「下がって!」
ユリナだった。
空中展開した術式環が幾重にも回転し、その中心から炎雷の槍が降る。一本、二本、三本。殻蛇獣が体勢を立て直すより早く、甲殻の継ぎ目と露出筋、眼窩、尾の基部へ正確に打ち込まれていく。爆ぜる。裂ける。焼ける。
圧倒的だった。
こちらが命を削ってようやく一瞬止めた相手を、彼女は空から制圧していく。中級異獣が巨大に見えなくなるほど、ユリナの火力と制圧速度が異常なのだ。
「中央特務、介入! 生存者は後退、後退!」
どこかで通信兵が叫ぶ。
ユリナが着地した。泥を滑らず、熱を散らし、即座に次手へ移る。細剣を抜き、踏み込みと同時に刃へ雷を這わせる。殻蛇獣が咆えて前肢を振り下ろすが、その軌道へ炎の楔が差し込まれ、動きが鈍る。その一拍で彼女は懐へ入り込んだ。
「終わって」
低い声。
細剣が首筋の露出部へ突き込まれ、同時に術式環が収束する。
次の一撃は、もはや剣技というより処刑に近かった。
首から背骨へ走った雷炎が内部で炸裂し、殻蛇獣の巨体が内側から弾ける。甲殻の隙間という隙間から紅紫の光が噴き出し、数秒後には崩れ落ちるしかなくなっていた。
沈黙が来る。
下級種の残党も、周囲の特務隊員と後衛火力がすでに片づけていた。残ったのは焼けた臭いと、負傷兵の荒い息だけだ。
リンドウは泥の上で息をした。吸うたび胸が痛む。生きている。それがすぐには信じられない。
視界の中へ、ユリナの顔が入った。
「リンドウ!」
膝をついて、彼女がこちらへ手を伸ばす。戦闘直後なのに、その手が震えているのが見えた。
「聞こえる? どこが痛い、息は――」
矢継ぎ早の問いが飛ぶ。けれど、リンドウはすぐに答えられなかった。喉が潰れたみたいに、言葉が出てこない。
周囲の視線を感じる。
第三小隊の兵たち。駆けつけた別小隊。後方の治療班。誰の目にも分かっている。今、リンドウはユリナに救われた。助けられた側だ。しかも、誰より無様な形で。
真正面から死にかけて、空から英雄に拾われた。
それが現実として、泥の冷たさよりはっきり身体に張りついてくる。
「リンドウ」
ユリナがもう一度呼ぶ。
焦りを抑えようとして、それでも抑えきれていない声だった。
ありがとう、と言うべきなのだと頭では分かる。実際、助けられた。あのままなら確実に死んでいた。礼を言わない理由はない。ないのに、喉が動かない。
礼を言った瞬間、今ここにある構図を全部認めることになる気がした。
自分は守られた。圧倒的に届かない相手に、命まで拾われた。そう口にしたら、何かが完全に折れるようで。
「……俺は」
やっと出た声は掠れていた。
続きが出ない。
ユリナの瞳が、ほんの少し揺れる。分かってしまったのだろう。リンドウが何に詰まっているのか。
「今は喋らなくていい」
彼女はそう言った。
優しい声だった。優しいからこそ、余計にきつい。
治療班が駆け寄ってくる。二人がかりでリンドウの身体を確認し、胸骨のひび、打撲多数、魔力回路の過負荷を告げる。命に別状はない。だが前線復帰はありえない。そういう目で見られているのが分かった。
さっき庇った若い兵が、血の気のない顔でこちらを見ていた。何か言いたそうにして、結局口を閉ざす。感謝か、後ろめたさか、そのどちらでもあるのだろう。
カインが少し離れた場所で立っていた。槍の穂先は折れ、頬に裂傷が走っている。彼は一度だけリンドウとユリナを見て、それから視線を外した。気まずさが、かえって優しさに見える。
担架が運ばれてくる。
「乗せるぞ」
治療兵の声に、リンドウは抵抗しなかった。抵抗できるだけの力がなかったのもあるが、それ以上に、ここで意地を張る方が惨めだと分かっていたからだ。
担架へ移される瞬間、ユリナの手が背中を支えた。
その体温に、リンドウはほんの一瞬だけ目を閉じる。助かったことへの安堵と、どうしようもない屈辱が同じ場所で混ざって、吐き気に近いものへ変わる。
運ばれていく途中、空が見えた。
灰色だった。さっきまで裂けるほど眩しかったはずなのに、もう何事もなかったみたいな色に戻っている。
野戦治療所は、前進基地の端に急ごしらえされた白い天幕群だった。
担架が並び、治癒術の光が絶えず明滅している。血の匂いと消毒薬草の匂いが混ざり合い、外の泥臭さよりずっと生々しい。リンドウは簡易寝台へ移され、肋骨周りへ固定術式を施された。魔力回路の過負荷には鎮静薬を打たれ、視界の端が少しだけ鈍る。
それでも意識ははっきりしていた。
はっきりしているから、逃げられない。
天幕の入口が揺れ、ユリナが入ってきたのは処置が一通り終わった頃だった。戦闘外套の裾に血と泥がついている。たぶん自分の分だけじゃない。
「入っていいか」と聞く声が妙に律儀で、リンドウは返事に少し間が空いた。
「……もう入ってる」
「そうだね」
ユリナは小さく苦笑したが、すぐに表情を消した。寝台の脇まで来て、立ち止まる。近いのに、手を伸ばせば届く距離なのに、さっき喫茶店で向かい合っていた時よりずっと遠く感じた。
「処置、終わったって聞いたから」
「見れば分かるだろ」
つい、少し硬い返しになる。
ユリナはそれを責めなかった。ただ一度だけ息を整えてから、椅子を引いた。
「肋骨にひび。魔力回路の過負荷。あと全身打撲。命に別状はないって」
「聞いてる」
「……うん」
会話が続かない。
外ではまだ搬送の足音が絶えず、誰かの怒号と誰かの泣き声が交互に聞こえる。治療所の中なのに、この寝台の周りだけ妙に静かだった。
リンドウは視線を天幕の布地へ向けたまま、口を開きかけてやめた。
ありがとう、と言えばいい。
助かった、と認めればいい。
分かっている。分かっているのに、その一言がどうしても喉で引っかかる。言えない自分が最低だという自覚まであるのに、なお出てこない。
ユリナが先に話した。
「間に合ってよかった」
それだけだった。
責めもしない。問い詰めもしない。ただ事実だけを置く。その言い方が、かえって胸を締めつける。
「……ああ」
それが精一杯だった。
ユリナは膝の上で手を組む。指先に薄く火傷の痕が見えた。たぶんさっきの高出力連射の反動だ。彼女ほどの魔力量でも、無傷というわけではない。
その手を見て、リンドウはますます言葉を失う。自分を救うために彼女が無理をしたのでは、と考えてしまったからだ。考えたところで、礼の一つも言えないのだからどうしようもない。
「若い兵、助かったよ」
ユリナが静かに言う。
「あなたが庇った子。さっき確認した。足はやられたけど、命はある」
リンドウは目を閉じた。少しだけ、胸の奥の何かが緩む。それがせめてもの救いだった。
「そうか」
「うん」
「……なら、よかった」
その短い返答のあと、また沈黙が落ちる。
礼を言えないまま、別の話題に逃げた形だと自分でも分かる。ユリナも分かっているはずだ。それでも何も言わない。
その優しさが、今日は刃物みたいだった。
「リンドウ」
呼ばれて、ゆっくり視線を向ける。
ユリナは少し迷った末に、ようやく言葉を選んだようだった。
「今日のあれ、無茶だった」
「分かってる」
「分かってるなら……ッ!」
言いかけて、彼女は口を閉じた。普段なら、ここで一歩踏み込んでくるはずだ。どうしてそんなことをしたのか、次はやめてほしい、そう言うはずだった。
でも今は、それ以上を言わない。
言えば壊れると、彼女も感じているのだろう。
リンドウは寝台の縁を握った。固定された胸が鈍く痛む。
「俺より若いやつが食われると思った」
ぽつりと出した言葉は、自分でも驚くほど弱かった。
「だから動いた。それだけだ」
「……うん」
「正しかったかは分からない」
そこまで言って、喉が詰まる。
「でも、見捨てるのは違うと思った」
ユリナは、しばらく何も言わなかった。やがて、ごく小さく息を吐く。
「その気持ちは、分かる」
肯定だった。
頭ごなしに否定されなかったことに、少しだけ救われる。けれど救われたところで、今日の現実は何も変わらない。
自分は死にかけた。
助けられた。
周囲の誰の目にも、それは明らかだった。
沈黙が続く。
リンドウは天幕の隙間から差す薄い光を見た。もう昼に近いはずなのに、今日は少しも明るく感じない。
しばらくして、外から誰かがユリナを呼んだ。中央指揮からの戦況確認らしい。彼女は立ち上がりかけて、それでもすぐには動かなかった。
「また来る」
いつもなら自然に言えるはずの言葉が、今日は妙に慎重だった。
リンドウは一拍置いてから、かすかに頷く。
「ああ」
ユリナはそれ以上何も言わず、天幕を出ていった。
布が揺れ、外の光と喧騒が一瞬だけ入り込んで、また閉じる。残された静けさの中で、リンドウはようやく長く息を吐いた。肋骨が痛む。痛みのおかげで、まだ現実から逃げずに済んでいる気がした。
寝返りも打てないまま、彼は目を閉じる。
瞼の裏に浮かぶのは、殻蛇獣の影じゃない。空から落ちてきた炎と雷、その中に立つユリナの姿だった。圧倒的で、眩しくて、手の届かない背中。
誇らしい。
同時に、どうしようもなく苦しい。
それでも、心は折れていなかった。むしろ逆だった。今日の惨敗は、諦めより先に、黒く尖ったものを内側へ残している。
このままでは終われない。
守られる側のまま固まってたまるか。
そんな意地が、痛みの底でまだ燻っている。
だが、その熱がまともな方向を向いているかと問われれば、自信はなかった。
天幕の外、通路の向こうでユリナが立ち止まっていたことを、リンドウは知らない。
呼びに来た副官へ短く返答しながらも、彼女の視線は一度だけ閉じた天幕へ戻る。そこで伏せられた睫毛の影は深い。
今日の戦場で見たものが、彼女の中にも残っていた。
死にかけるまで前へ出るリンドウの背中。
間に合わなければ失っていたという現実。
そして、助けられたあと礼すら言えないほど追い詰められた顔。
そのすべてを思い返した先で、ユリナは唇を結ぶ。
もう前線に立たせるべきじゃない。
言葉にはならないまま、その決意だけが静かに形を取り始めていた。
次に何を言えばいいのか。
どうすれば彼を守れるのか。
答えのないまま、彼女は再び戦場の方角へ歩き出す。
灰色の空の下、掃討作戦はまだ終わっていなかった。




