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第2話 届かない背中

 


 休暇といっても、たった二日だった。


 地方防衛線から中央寄りの駐屯都市へ戻る輸送列車の窓に、リンドウは額を預けていた。ガラスの向こうを、灰色の平野と魔導送電塔が流れていく。遠くの空には薄い雲が垂れこめ、ところどころで防壁の白線が鈍く光っていた。


 戦場を離れたはずなのに、肩から力が抜けない。

 眠れていないわけじゃない。食べてもいる。傷も浅い。けれど身体の芯に、細い棘みたいな疲れがずっと刺さっている。魔力が少ない人間は、全力で戦っても出力そのものはたかが知れているくせに、消耗だけは容赦なく残る。その理不尽さに慣れたつもりで、まだ慣れきれていない。


 停車の鐘が鳴り、列車が減速する。

 窓の外に、都市の輪郭が近づいた。灰色の石造建築に、魔導ガラスをはめ込んだ近代的な棟が混ざっている。街路樹の根元には暖房術式の発光線が巡らされ、中央広場の時計塔には対異獣戦役二百年の記念旗が垂れていた。


 人が多い。声も光も、防衛線の夜とは比べものにならない。

 それだけで少しだけ息がしやすくなる自分がいて、リンドウは内心で苦笑した。休暇に浮かれる性分じゃないと思っていたが、さすがに戦場の空気を吸い続けていれば、普通の街の匂いくらい恋しくもなるらしい。


 駅舎を出たところで、彼は一度立ち止まった。

 待ち合わせの時間まで、まだ少しある。

 けれど先に店へ向かう気にもなれず、駅前広場の人波を眺める。露店が並び、湯気の立つ軽食屋の前には若い兵士たちが群れていた。学生らしい制服の一団が笑いながら通り過ぎる。背中の鞄には練習用の杖が差してあった。どこにでもある、平和な街の景色だ。


 その一角に、ひときわ人だかりができていた。

 掲示板だ。

 近づかなくても内容は分かった。新しい戦果報告の張り紙。その中央に、見慣れた名前が大きく載っている。


 中央直属特務戦闘部隊【ウルティマ】、ユリナ・アークライト。


 西方第三防衛線での大規模掃討。中型異獣群の壊滅。民間避難路の確保。戦傷者最小。抜群の戦果。文面は簡潔でも、周囲の反応が十分に補っていた。


「やっぱすげえよな、ウルティマ」

「ユリナ少尉だろ? この前も単独で穴の前線押し返したって」

「英雄様って感じだよね」


 誰かがそう言って、別の誰かが感嘆の息を漏らす。


 リンドウは目を逸らした。

 誇らしいと思う。そこに嘘はない。故郷を同じ日に失って、それでも前へ進み続けた幼馴染が、今こうして大勢の人間に希望として見られている。そんなの、本来なら胸を張るべきことだ。


 なのに、掲示板の前に立ち続けていると、自分だけがその輪の外にいるような感覚が強くなる。

 お前は何者だ、と無言で問われているみたいで。


「待たせた?」


 不意に声がして、胸の奥が小さく跳ねた。

 振り向く。

 ユリナが立っていた。


 軍の正装ではない。濃紺の外套に、生成りのニット、膝丈のスカート。休日らしい柔らかい服装なのに、立ち姿には軍人の芯が残っている。赤銅色の髪はいつもより低い位置で束ねられていて、その横顔を見た一瞬だけ、リンドウは昔の記憶へ引き戻されそうになった。


「いや、今来た」

「それ、たぶん少し前から待ってた人の言い方」


 ユリナはそう言って、少しだけ笑った。からかうというより、硬さをほどこうとする笑い方だ。

 近くを通った若い兵士が、彼女に気づいて足を止める。すぐに友人へ何か囁き、二人そろってそっと距離を取った。無遠慮に声をかけてくる者はいないが、視線は隠しきれていない。

 英雄だ。街の真ん中にいれば、嫌でも目立つ。


「店、予約してあるの。駅前だと落ち着かないから、少し歩くけど」

「分かった」


 並んで歩き出す。

 人混みの中では、昔みたいに肩が触れそうな距離にはならない。少しだけ間が空く。意識しているわけじゃないのに、気づくとその幅ができていた。

 通りを一本入ると、騒がしさが和らいだ。石畳の路地に、小さな喫茶店や古書店が並んでいる。暖色の魔導灯が昼でもほのかに灯り、風よけの結界板が軒先に吊られていた。

 ユリナが連れていったのは、角にある古い喫茶店だった。窓辺に乾燥花が飾られ、店内には静かな弦楽が流れている。暖房術式の効いた空気がやわらかい。


 席について、注文を済ませる。

 向かい合った途端、妙に気まずかった。

 会えなかったわけじゃない。軍内で顔を合わせることはある。報告の場ですれ違うことも、駐屯地の廊下で短く言葉を交わすこともあった。

 でも、こうして私的に座るのは久しぶりだ。


「……元気そうでよかった」


 先に口を開いたのはユリナだった。彼女の指先が水の入ったグラスに触れる。細い指だが、戦場で何度も人を救い、殺してきた手でもある。


「そう見えるなら成功だな」


 リンドウが言うと、ユリナの目が少しだけ細くなった。


「誤魔化したね」

「多少はな」

「多少で済んでるならいいけど」


 声音は柔らかいのに、そこだけ妙に真っ直ぐだった。リンドウは肩をすくめるふりをして外套を椅子の背に掛ける。治療済みの肩の傷はもう痛みも薄い。だが、包帯の厚みは隠しようがなかった。


 ユリナの視線がそこに落ちる。


「第三十八区画のあと、また出てたでしょ」

「任務だからな」

「無理してない?」

「してないとは言わない。でも、みんなそんなもんだ」


 半分は本当だ。戦場にいる以上、無理をしない兵士なんていない。ただ、その無理を支える土台の量が自分はあまりにも少ない。そこまでは言わない。

 温かい飲み物が運ばれてきて、会話が一度切れた。ユリナは香草茶、リンドウは濃い黒茶だ。湯気が上がる。甘い焼き菓子の匂いが近くの席から漂ってきて、ほんの少しだけ、昔の祭りの日を思い出した。


「覚えてる?」とユリナが言った。「故郷の冬市で、はちみつの焼き菓子を毎年買ってたお店」


「ああ。親父が毎回、高いって文句言いながら結局二袋買うやつ」


 答えると、ユリナがふっと笑う。


「そう。で、リンドウのお父さん、最後は自分が一番食べてた」

「否定できないな」


 自然に笑いがこぼれた。

 その一瞬だけ、張っていたものが緩む。


 故郷の話をするとき、痛みが先に来る日もある。今日は、少しだけ懐かしさが先だった。雪の残る石畳、風除け布のひるがえる市場、干した果実の匂い、鍛冶場の熱。ユリナの家の前にあった古い井戸。リンドウの家の裏手で鳴いていた痩せた犬。名前もない、細かな景色。


 なくなったからこそ、妙にはっきり思い出せる。


「うちの母さん、ユリナのことよく褒めてた」


 リンドウはカップを持ちながら言った。


「礼儀があって明るくて、将来絶対出世するって」

「それ、半分くらいは外向けの顔だよ」

「全部じゃないんだな」

「全部ではないかな」


 ユリナは少し考えるように視線を落とした。


「でも、リンドウのお母さんの前では、ちゃんとしてたかった。優しかったから」


 その言葉が、不意に胸へ落ちる。

 優しかった。過去形だ。

 分かっているのに、言葉として聞くと、まだ少しきつい。

 リンドウはうなずいた。話を止めるほどではない。ただ、内側で何かが微かに軋むのを感じた。


「お前のとこも、よく覚えてる」


 彼は言葉を継いだ。


「夕方になると、窓からいつもスープの匂いがしてた。うちよりだいぶまともな飯だった」

「それはリンドウの家が無茶だっただけ。鍋に入れれば何でも食べられると思ってたでしょ」

「思ってたんじゃない。実際、食えた」

「食べられると、おいしいは別だよ」


 懐かしいやりとりだった。

 くだらない話をしているだけなのに、喉の奥が少し熱くなる。あの頃は、明日がなくなるなんて考えたこともなかった。村の外れまで競争して、叱られて、また翌日には同じことをした。そんな時間がずっと続くと、本気で思っていた。


 しばらくして、ユリナが静かに言った。


「故郷の夢、まだ見る?」


 リンドウはカップを置いた。小さく音が鳴る。

 隠す意味はあまりない相手だ。見栄を張っても、たぶん通じない。


「見る」

「……そっか」

「お前は」


 問い返すと、ユリナはすぐには答えなかった。窓の外へ一度だけ目をやってから、こちらに戻す。


「見るよ。頻度は減ったけど、消えてはない」


 そこで彼女は少しだけ笑おうとして、やめた。


「今でも、煙の匂いで息が詰まるときがある」


 リンドウは何も言わなかった。

 言わなくても、分かる気がしたからだ。あの夜を知っている人間は多くない。同じ場所から逃げた人間はもっと少ない。その中で、最後まで同じ炎を見たのは、たぶん二人だけだ。

 共有している痛みは、慰めにもなるし、逃げ場のなさにもなる。


「リンドウはさ」とユリナが続ける。「今も、戦う理由って変わってない?」

「変わってない」


 答えはすぐに出た。


「異獣を殺すためだ。あの日の借りを返すため。それだけじゃ足りないのは分かってるけど、根っこはそこから動いてない」


 言い切ると、胸の奥が少しだけ静かになった。迷いがないわけじゃない。戦場では無力感ばかり噛み締めている。それでも、そこだけはまだ嘘になっていない。

 ユリナは頷いた。否定も、困った顔もしない。


「うん。そうだと思ってた」

「お前は?」

「わたしも、始まりは同じだよ」


 彼女は両手でカップを包むように持った。白い湯気が頬をかすめる。


「でも、今は少し増えたかな。あの日みたいな場所を増やしたくない。故郷をなくす人を、一人でも減らしたい。たぶん、それで戦ってる」


 まっすぐな言葉だった。

 綺麗事ではない。ユリナなら本気でそう思っているのだと分かる。実際、彼女はそういう力を持っている。個人の怒りから始まったとしても、それをもっと大きいものに変えて前へ進める人間だ。

 自分とは違う。


「らしいな」


 リンドウはそう返した。


「お前は昔から、目の前の一人を放っとけない」

「リンドウにだけ言われたくない気もする」

「俺は放っとけないんじゃない。諦めが悪いだけだ」

「それ、あまり否定になってないよ」


 また少し笑いが混じる。

 空気が和らいだ、その直後だった。ユリナの視線がふっと下へ落ちる。彼の手元だ。カップを持つ指先が、無意識に少し震えていたのかもしれない。


「……疲れてるよね」


 静かな声だった。

 リンドウは反射的に手を引っ込めそうになって、やめた。子どもみたいだと思ったからだ。

 リンドウは視線を逸らし、窓の外を見た。通りを歩く人々の姿が、ガラス越しに少しだけ歪んでいる。


「前線はきつい。でも、きつくない任務なんてないだろ」

「そうじゃなくて」


 ユリナはそこで一拍置いた。言い方を選んでいるのが分かる。


「怪我の数とか、睡眠時間とか、そういう分かりやすいことだけじゃなくて……張りつめすぎてる。ずっと」


 胸の奥で、小さく何かが跳ねた。

 当てられたからだ。

 自分では誤魔化せているつもりだった。少なくとも、表面上は。だがユリナは昔から、そういうところだけ妙に見抜く。見抜かれるたび、ありがたさと居心地の悪さが同時にくる。


「お前にそう見えるのは、たぶん昔を知ってるからだ」


 やや固い声になったのを、自分でも感じた。


「今の俺しか知らないやつから見れば、そこまで変じゃない」

「変じゃないようにしてるんだと思う」

「……」


「ごめん。責めたいわけじゃないの」


 ユリナはすぐにそう足した。


「ただ、見てて苦しい」


 その一言が、思った以上に刺さった。

 苦しいのは自分の方だ、と喉元まで出かかった。けれどそれをそのまま投げ返すのは違うと、ぎりぎりで分かる。彼女が言っているのは、同情ではない。本気で気づいて、本気で案じているだけだ。


 だからなおさら、逃げ場がない。


「……お前が心配してるのは分かる」


 リンドウはゆっくり言った。


「それを軽く扱うつもりもない。でも、張らないと立ってられない時がある」


 言葉にしてみると、思っていたよりそのままだった。


「余裕がないのは自覚してる。けど、緩めたら最後、そのまま前から落ちそうなんだよ」


 ユリナは答えず、じっとこちらを見ていた。目をそらさない。逃がさないためではなく、ちゃんと受け止めるための視線だ。

 その目が、時々つらい。


「リンドウ」


 呼ばれて、視線を戻す。


「昔から思ってたんだけど」


 彼女は少しだけ表情をやわらげた。


「あなたの魔力操作だけは、本当に特別だったよ」


 思いがけない言葉に、リンドウは瞬きをした。


「急だな」

「急じゃないよ。ずっと言いたかった」


 ユリナは続ける。


「候補生学校のとき、皆が出力ばっかり競ってた中で、リンドウだけは術式の継ぎ目をちゃんと見てた。壊れた補助器を応急修理して、暴発しかけた訓練杖の流路を繋ぎ直して、わたしが雑に流した魔力の癖まで見抜いてた。あれ、誰にでもできることじゃない」


 脳裏に、古い訓練場の景色が浮かぶ。夕焼けの色。磨り減った床。汗と焦げた金属の匂い。候補生たちが派手な術を競う横で、自分は壊れた器具の端子を繋ぎ、補助陣の歪みを修正していた。

 戦闘評価にはほとんど繋がらない技能だった。

 だからこそ、自分でもどこかで軽く見ていたのかもしれない。


「……そんなの、今さら褒められてもな」


 口から出たのは、半分苦笑みたいな言葉だった。


 救われる気持ちが、たしかにあった。自分の中に、戦えない以外のものを見てくれている。それは嬉しい。嬉しいからこそ、同時に別の痛みが走る。

 慰めみたいだ、と。

 前線に立てない人間へ、それでも君には別の取り柄があると告げる言葉に聞こえてしまう。

 ユリナは、その反応を見越していたようだった。目を伏せず、静かに首を横へ振る。


「慰めで言ってるなら、今ここで言わない」


 きっぱりしていた。


「わたし、あなたに嘘で優しいこと言うつもりないよ」


 その一言で、胸の内の逃げ道が塞がる。

 ユリナは本気だ。本気で、自分の魔力操作を価値あるものだと思っている。だからこそ、リンドウも適当に受け流せない。


「……そこは信じる」


 彼は息を吐いた。


「お前が適当な慰めを言わないのは知ってる。知ってる上で、そう聞こえてしまう自分がいるだけだ」


 それが精一杯だった。

 ユリナの瞳が、わずかに揺れる。傷ついたようにも、ほっとしたようにも見えた。たぶん両方だ。


「うん」


 彼女は小さく頷く。


「そう返してくれるの、ありがたい」

「何が」

「頭ごなしに切らないでくれたこと」


 リンドウは言葉に詰まった。

 そんなふうに見えていたのか、と一瞬思って、それも当然かとすぐに納得する。最近の自分は、かなり余裕がない。ユリナ相手だと余計に、弱い部分を突かれた気がして固くなる。


「切るつもりはない」


 視線を少し落としたまま、彼は言った。


「お前の言いたいことは分かる。俺が戦場で通用してないから、別の強みをちゃんと見ろってことだろ」

「半分はそう」

「半分は?」

「その強みを、あなた自身が一番軽く見てるのが嫌なの」


 きっぱり言われて、胸が熱を持つ。

 苛立ちに近い。けれど全部が反発ではない。図星だからだ。


「軽く見てるつもりはない」

「つもりじゃなくて、結果としてそうなってる」


 ユリナの声は大きくなかった。それでも逃げようのない断定だった。


「前線に立てるかどうかだけで、自分の価値を決めすぎてる。戦う方法は一つじゃないのに」

「それは……」


 言い返しかけて、止まる。


 違うとは言い切れない。彼女の言うことは正しい。精密操作と置換魔術は、整備や工兵、術式解析でもっと活かせる。後方支援や開発補助なら、今の前線よりずっと評価されるだろう。

 だが、それで納得できるのかと問われたら、答えは出ている。


「戦う方法が一つじゃないのは分かる」


 リンドウは低く言った。


「そこは否定しない。俺の技術が他で役立つのも、たぶんそうなんだろう。でも、俺が欲しいのはそこじゃない」


 ユリナの睫毛がわずかに震える。


「前から降りたくないんだ。格好つけじゃなくて……たぶん、降りたら自分で自分を許せなくなる」


 テーブルの端に置いた手に、力が入る。


「あの日、俺は何もできなかった。今も大したことはできてない。それでも、異獣と真正面から向き合う場所にいないと、復讐を口にする資格までなくなる気がする」


 言い切ったあと、喉が少し痛んだ。

 ユリナはしばらく黙っていた。反論を探しているようには見えない。ただ、彼の言葉をそのまま受け止めている顔だった。


「……資格なんて、いらないのに」


 ぽつりと漏れた声は、いつもより少しだけ幼かった。


「わたしは、リンドウが生きてるだけで十分なのに」


 その優しさが、やはり刺さる。

 ありがたい。救われる。けれど同時に、それでは足りないと思ってしまう自分がいる。ユリナの気持ちを拒みたいわけじゃない。受け取り切れないだけだ。


「それも分かる」


 彼は慎重に言葉を選んだ。


「お前がそう思ってるのは、本当に分かる。だから今の言葉も、嬉しくないわけじゃない。でも、俺の中で折り合いがつかない」


 ユリナはカップの縁に指を添えたまま、小さくうなずく。


「うん。そこを無理に曲げさせたいわけじゃない」


 そして、少しだけ視線を上げた。


「ただ、覚えてて。あなたが前線で苦しんでる時、戦えてないって決めつけるのは、少なくともわたしは違うと思ってる」


 リンドウは黙った。


 胸の中の苛立ちが、すぐには消えない。自分の足りなさを知りすぎているから、きれいに受け取れない。けれど、その言葉がまるごと無意味かといえば、そんなこともない。


 昔、村の倉庫の鍵穴が壊れた時、リンドウは針金と置換魔術で中の欠けた部品だけを仮置換して開けたことがある。候補生学校では、訓練用の結界盤が暴走しかけた時、誰より早く術式の歪みを見つけて止めた。派手ではない。称賛もされない。だが確かに、自分にしかできないことはあった。


 それを価値と呼ぶ人間が、少なくとも一人いる。


「……覚えとく」


 それが今の限界だった。


 ユリナはようやく、ほんの少しだけ力を抜いたように笑った。


「それで十分」


 店を出た頃には、陽が少し傾いていた。石畳の路地に長い影が落ち、街路の魔導灯が薄く明るさを増し始めている。

 二人はあてもなく歩いた。


 古書店の前を通り、広場の噴水を横切り、河沿いの遊歩道へ出る。川面には魔導船の小さな灯りが揺れていた。休日の街は穏やかで、戦場の話をした直後でも、どこか現実感が薄い。


「覚えてる?」


 橋のたもとで、ユリナが水面を見ながら言った。


「村の裏の用水路。わたしたち、よく落ちたよね」

「よく、は言い過ぎだ。落ちたのはお前が多い」

「リンドウも一回落ちた」

「あれはお前を引っ張ろうとしてだ」

「結果、一緒に落ちたじゃん」


 言い返せない。

 あの頃のユリナは、今よりずっと無鉄砲だった。危ない場所に先に行く。木にも塀にも勝手によじ登る。叱られる直前だけ素直になる。けれど泣き虫ではなくて、転んでも大抵は笑っていた。


「そのくせ、お前は昔から変なところだけ器用だった」


 ユリナが言う。


「壊れた風車、直したのもリンドウだったし」

「風車じゃない。羽根の軸受けだ」

「そういう訂正をするところも昔のままだね」


 少し笑って、それからユリナは真面目な顔になった。


「わたし、あの頃からずっと思ってた。リンドウは、見えないものを見るのが上手いって」

「見えないもの?」

「隙間とか、流れとか、噛み合ってないところ。みんなが派手な方に目を向けてる時に、別の場所を見てる」


 風が吹いて、彼女の髪が揺れた。


「だから、前線にいる今のリンドウだけが全部じゃないって、本当に思うの」


 またその話か、と言いかけて、リンドウは飲み込んだ。違う。さっきの繰り返しではない。彼女は説得したいのではなく、たぶん確認したいのだ。自分の見ているリンドウを、せめて本人にだけは否定してほしくないのだろう。


 リンドウは川面を見たまま言った。


「ありがたいとも思う。少し救われてもいる」


 そこまで言ってから、ゆっくり息を吐く。


「でも、正直に言うと、悔しい」


 ユリナが何も挟まないのを確かめて、続けた。


「そういうふうに言われるたび、自分でも見ないようにしてた場所を見せられる。俺は前線で強くなりたいのに、そこじゃないところを認められると、逃げ道を差し出されたみたいに感じる時がある」

「逃がしたいわけじゃないよ」

「……だから困る」


 リンドウは少しだけ笑った。自嘲に近かったが、さっきまでよりは柔らかい。


「お前が本気で言ってるから、こっちも雑に返せない」


 ユリナは黙って、ほんの一瞬だけ目を細めた。嬉しそうにも、泣きそうにも見えた。


「ありがとう」

「礼を言われることじゃない」

「それでも」


 そこで会話が途切れる。

 沈黙は重くなかった。川の音と、遠くの車輪音が間を埋めてくれる。昔なら、こんなふうに黙っていても平気だった。今は少し努力が要る。それでも完全には壊れていないと分かる程度には、まだ近い。


 リンドウはふと、掲示板の前で聞いた声を思い出した。英雄様。そう呼ばれるユリナは、たしかに多くの人間を救う。自分が届かない場所まで手を伸ばせる。


 その背中は頼もしい。

 同時に、届かない。

 悔しさの正体は、たぶんそこにある。守られること自体が嫌なのではなく、自分の足で並べないことが耐えがたいのだ。


「なあ」


 気づけば、先に口を開いていた。


「お前、英雄扱いされるの、嫌じゃないのか」


 ユリナは少し驚いたように目を丸くしたあと、苦笑した。


「慣れないよ。今でも」

「でも、堂に入ってる」

「堂に入って見えるようにしてるだけ」


 その答えに、少しだけ救われる。完璧に見える相手にも、見せ方の努力はあるのだと分かるからだ。


「期待されるのは、正直しんどい時もある」とユリナは続けた。「失敗できないって思うし、誰かの希望みたいに見られると、そこから落ちた時が怖い」


「お前でもそう思うんだな」

「思うよ。わたしだって人間だもん」


 当然のことを、当然みたいに言う。

 リンドウは喉の奥で小さく笑った。少しだけ、肩の力が抜ける。


 その時だった。


 二人の胸元で、同時に硬い電子音が鳴った。

 一瞬遅れて、魔導通信用の徽章が淡く発光する。軍属に配られる緊急召集の信号だ。休暇中だろうが関係ない。これが鳴る時は、碌なことがない。


 ユリナと目が合う。


 彼女はすぐに徽章へ指を当て、展開された小型術式板を読む。リンドウも同じように表示を開いた。簡潔な文字列。部隊識別。作戦コード。集合時刻。地点。

 大規模討伐作戦。

 北東方面、第七次掃討線形成。異獣群高密度出現につき、地方防衛隊およびウルティマ混成運用。


 視線が、その一文で止まった。


 混成運用。

 つまり、同じ戦場だ。


 ユリナが息を呑む気配がした。けれど次の瞬間には、もう軍人の顔に戻っている。


「……集合、三時間後」

「ああ」

「第三十八からも人が出るね」

「たぶんな」


 短い会話なのに、そこへさっきまでの空気が全部流れ込む。気まずさも、懐かしさも、刺さる優しさも、少しだけ得た救いも、全部そのまま抱えて戦場へ戻ることになる。

 休暇は終わりだ。

 街の灯りが、さっきより少しだけ遠く見えた。


「リンドウ」


 ユリナが呼ぶ。


 振り向くと、彼女はいつもの真っ直ぐな目でこちらを見ていた。


「次は、同じ戦場だね」

「そうなる」

「ちゃんと帰ってきて」


 その言葉に、リンドウは一度だけ目を伏せた。

 軽くは返せない。けれど黙って逃げるのも違う。


「お前もだ」


 それだけ言うと、ユリナの口元がわずかにやわらいだ。嬉しそうで、少し苦しそうでもある、複雑な笑みだった。


「うん」


 橋の下を流れる水が、夕暮れの光を細かく砕いていく。

 届かないと思っていた背中が、すぐそこにある。けれど並べるわけではない。その距離を抱えたまま、また前へ出るしかないのだと、召集の青白い光が否応なく告げていた。

 二人は同時に踵を返す。


 休暇の終わりは、いつも唐突だ。


 街の穏やかなざわめきの中で、戦場の気配だけが、はっきりと近づいていた。


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