第1話 底辺魔術師
警報は、空を裂くような甲高い音だった。
地方防衛線第三十八区画。灰色の防壁がゆるやかな弧を描いて続き、その外側には、雪解けの泥を踏み荒らしたみたいな荒野が広がっている。二百年前、この大陸の北端に穴が開いてから、世界の景色はずっとこんな色になった。人が暮らす場所と、人を食い潰すものがいる場所。その境目だけが、年々くっきりしていく。
リンドウは防壁の胸壁に片手をつき、浅く息を整えた。耳の奥で鳴る警報より、胸の内側で鳴っている脈の方がうるさい。
「前衛、三番から七番まで出るぞ。下級群だ。散らすだけでいい」
隊長の短い指示に、兵たちが一斉に返答する。声に迷いはない。慣れているからだ。ここでは、異獣の小規模な湧出は天候みたいなものだった。
ただし、慣れていない者が一人だけいる。
いや、とっくに慣れている。慣れているのに、できない。
その事実の方が、リンドウには堪えた。
彼は胸元の魔導補助器に触れ、起動の確認光を見た。一般兵向けの量産型。低魔力者でも最低限の戦闘補助ができるよう、術式が刻まれている。魔力の流れを増幅し、刃の強度を補い、短距離の加速まで支援してくれる便利な道具だ。
便利なだけで、足りないものは埋めてくれない。
「リンドウ、お前は右寄りだ。無理に前へ出るなよ」
隣で槍を担いだ年上の兵士が言った。カインという男だった。露骨に馬鹿にするでもない、かといって期待もしていない声音だ。気遣いの形をしている分、余計にきつい。
「……分かってる。横から削る」
「ならいい」
それだけ言って、カインは先に壁上通路を蹴った。
分かっている。何度も言われたことだ。無理をするな。突出するな。足を引っ張るな。お前はお前なりにやれ。
全部、正しい。
正しいからこそ、腹の底に沈殿する。
防壁の外で、泥が爆ぜた。
最初の個体が地表を割って現れる。犬に似ているが、骨格の数が違う。肋骨が外側にめくれ、そこから第二、第三の脚が生えている。頭部は獣というより潰れた兜みたいで、割れ目の奥で赤い光が蠢いていた。最下級種、兵の間では裂爪犬と呼ばれている類だ。一体一体なら脅威は薄い。だが群れると面倒で、油断した新兵は喉を持っていかれる。
泥の中からさらに三体、五体、七体。
胸壁の上から迎撃の魔弾が降った。青白い閃光が一体の肩を吹き飛ばし、別の一体の前脚を焼く。けれど勢いは止まらない。潰れた喉から笛みたいな鳴き声を漏らしながら、異獣たちは防壁の基部へ殺到する。
「行くぞ!」
前衛が出る。
リンドウも一拍遅れて駆けた。壁面に組まれた昇降用の斜路を滑り降り、外縁の迎撃平台へ飛び出す。足場は広くない。すぐ先は荒野だ。ここで食い止めるのが、第三十八区画のいつものやり方だった。
正面から一体が跳んでくる。
速い。だが見えないほどじゃない。
リンドウは腰の短剣を抜いた。刀身に刻まれた補助術式へ、針の先みたいに細い魔力を流し込む。普通の兵士なら一息で済ませる起動操作を、彼は三段階に分けて精密に通す。そうしなければ、わずかな魔力すら術式の溝からこぼれて消える。
刃が淡く光った。
踏み込み。横薙ぎ。
しかし、浅い。
裂爪犬の前脚を断ち切るはずだった一閃は、皮膜と筋を半ば裂いただけで止まった。硬い。いや、自分の火力が低すぎる。体勢を崩した異獣がそのまま頭を突っ込んでくる。
「っ」
受け切れない。
反射で身をひねる。肩をかすめた爪が外套を裂き、熱い線が走った。二歩たたらを踏む。足場の端。すぐ下は泥と血と砕けた骨片が混じる地面だ。
もう一度、短剣へ魔力を通す。
足りない。
刃を強化しきる前に、体内の回路がきしむ。水差しの底に残った最後の一口を無理やり絞るみたいな感覚だった。常人の百分の一。検査でそう出た時、担当官は気まずそうな顔をした。慰めの言葉すら見つからない数字なのだと、その時に知った。
裂爪犬が吼える。腐った鉄の臭いがする口が開く。
リンドウは低く潜り込んだ。真正面から競るのは無理だ。だから、関節を狙う。力ではなく位置を切る。彼が身につけたのは、弱者が少しでも長く生きるための技術だけだった。
刃先が異獣の腋下に滑り込む。
そこだ、と手応えがあった。
その瞬間、別の個体が横合いから飛び込んできた。
「リンドウ!」
叫びと同時に、槍が一本、彼の目の前を突き抜けた。
カインの槍が二体目の頭部を貫き、そのまま術式発火。穂先の爆裂光が赤い眼を内部から弾けさせる。生暖かい飛沫が頬へ散った。
一体目の方も、追撃でようやく首を断った。泥へ沈む死体を見下ろし、リンドウはひどく浅い呼吸を繰り返した。
「助かった」
「礼はいい。次、来るぞ」
カインはそう言ったが、リンドウの顔は見なかった。見なくても分かるのだろう。今の一体にどれだけ手間取ったか。
迎撃平台の左右で、兵たちが次々に異獣を処理していく。短い詠唱。閃く魔刃。連携された足運び。誰もが最低限以上には戦えていた。
最低限以下なのは、自分だけだ。
次の群れが来る。
リンドウは歯を食いしばり、再び前へ出た。今度こそ一撃で落とす。そう思って、できた試しは少ない。それでも思わないと、足が止まる。
右から迫る個体へ、彼は左手を向けた。
固有魔術【置換魔術】。
頭の中で術式を組む。対象物質の構造置換。位置の交換。性質の転写。本来は工兵や加工職人に珍重される類の術だ。壊れた配線を仮接続し、砲身の摩耗部を代替素材へ差し替え、弾倉内の不良火薬だけを抜く。そういう使い方なら、精度次第でいくらでも役に立つ。
戦場向きじゃない。
けれど、リンドウにはこれしかなかった。
「――置換」
裂爪犬の右前脚、その爪先だけを脆い陶片へ置き換える。
成功した。
爪が砕け、異獣がバランスを崩す。そこへ踏み込んで首筋を狙う。今度は浅くない。短剣が頸椎の継ぎ目を裂き、赤い光が一度だけ強く瞬いた。
置換魔術そのものの消費は大きくない。むしろ精密制御が得意な彼には、術式構築の負担は軽い方だ。問題は、その先だ。相手が生物である限り、術式にひどい抵抗が生まれる。無理やり噛み合わせた歯車が軋み、術者の神経へ逆流してくる。今の一手だけで、指先に痺れが走っていた。
しかもこの程度。爪先を脆くしただけだ。
喉まで上がった吐き気を呑み込む。視界の端で、若い兵士がちらりとこちらを見て、すぐ逸らした。同情とも諦めともつかない目だった。見慣れた種類の視線だ。
直接罵られる方が、まだ楽かもしれない。
群れは切れない。
地表の裂け目から、さらに異獣が湧く。四足だけではない。腹を這う節足型。頭部のない人影みたいな二足型。戦力としては下級でも、数が増えれば防衛線を削るには十分だ。
「三番平台、圧されてる! 補充は!」
「後列から二名回す、持たせろ!」
怒号が飛ぶ。
リンドウは短剣を逆手に持ち替えた。手汗で柄が滑る。補助器の残量表示は、もう心許ない色まで落ちていた。彼自身の魔力が少なすぎて、増幅効率も底が浅いのだ。
一体、二体と受けるうちに、足が重くなる。刃が鈍る。呼吸が乱れる。
目の前の裂爪犬が跳んだ。
迎撃の角度は悪くない。見えている。なのに、身体が半拍遅れた。短剣を振り上げる。遅い。牙が肩口へ食い込む寸前、横から走った魔弾が異獣を吹き飛ばした。
「下がれ、リンドウ!」
別の同僚だった。名前を呼ばれたことより、その声に責める色が少しもないことが痛かった。戦えるやつに向ける苛立ちではなく、戦えないやつを事故から外すための声。
「まだ行ける」
「行けるかどうかじゃない。穴が空く」
言い返せない。
実際、彼が一歩遅れるたびに、隣が一歩多く動いている。自分が踏みとどまっているつもりの場所は、誰かの負担の上にしかない。
それでも、下がりたくなかった。
荒野の向こうを見れば、薄曇りの空の下、黒く口を開けた遠い北方の影が想像できる。もちろんここから見えるわけではない。大陸最北端に穿たれた異界孔は、地図の上では遥か彼方だ。だが、そこから溢れた災厄は、彼の村まで届いた。
燃えた家の臭いを、今でも忘れない。
喉の奥に鉄の味が蘇る。父の怒鳴り声。母の手の熱。崩れた梁の向こうで、誰かが泣いていた。あの日、何もできなかった。子どもだったから、では済まない。今も何もできていないのだから。
目の前の異獣を殺せない人間に、復讐なんて言葉を使う資格があるのか。
自嘲が浮かぶより先に、平台全体が揺れた。
重い衝撃。
防壁の外縁へ、ひときわ大きな影が叩きつけられる。下級種より一回り以上大きい、甲殻を纏った四脚種だ。前線では中の下。だが今のこの区画にいる兵の装備だと、少し面倒な相手になる。
「殻持ちかよ……」
誰かが舌打ちした。
その隙に、下級種の群れが左右から回り込む。悪い流れだった。対処は不可能ではない。だが、じわじわ削られる形になる。こういう崩れ方が、一番死ぬ。
「三番、火力足りん! 本隊に応援要請!」
隊長の声が飛んだ、直後だった。
高空から、一本の光が落ちてきた。
それは光というより、熱と雷鳴の束だった。曇天を縫って斜めに走った紅金の線が、殻持ちの背を貫き、そのまま地面へ巨大な魔法陣を焼き付ける。半拍遅れて、轟音。衝撃波で泥と血と骨が円形に吹き上がった。
兵たちが思わず身を伏せる。
リンドウは目を見開いた。
焼けた空気の向こう、平台の先へ人影が降り立つ。長い赤銅色の髪が、熱風の余韻に揺れた。軍の黒い外套。その縁に銀の紋章。地方隊ではなく、中央直属の特務戦闘部隊――ウルティマの証。
女は片手を軽く払って、散った火粉を落とした。
「第三十八区画、応援に来ました。前線指揮はどなたですか」
通る声だった。柔らかいのに、輪郭がぶれない。戦場で聞いても、不思議なくらい落ち着く声。
隊長が短く名乗る。状況報告は三文で終わった。下級群の継続湧出、中型一、局地圧迫。女は頷き、荒野へ目を向ける。
「了解です。ここからはわたしが前を開けます。皆さんは取りこぼしだけ」
そう言って、一歩、前へ出る。
リンドウの喉が固まった。
ユリナだった。
三年ぶりではない。顔を見るのはもっと最近だ。だが同じ部隊で戦うことは滅多にない。彼女はもう、地方防衛線に呼ばれる側ではなく、状況をひっくり返すために投げ込まれる札になっていた。
幼い頃から知っている背中なのに、今のそれは少し遠い。
ユリナが右手を掲げる。
指先に収束した魔力が、可視化するほど濃い。常人の百倍。それが誇張でも比喩でもなく事実だと、彼女を見るたび思い知らされる。空気が震え、平台の術式灯が一斉に明滅した。周囲の魔導器が影響を受けるほどの出力。普通の術者なら暴発しかねない密度を、彼女は呼吸するみたいに制御する。
炎雷魔術。
炎と雷、その二系統を単純加算ではなく、相互励起で増幅させる破格の固有魔術。発現率百人に一人と言われる固有魔術の中でも、さらに一握りしか持たない戦略級の才能。
「――開いて」
祈りに近い小さな声と共に、世界が裂けた。
前方百メートルに、多重の術式環が展開する。赤熱した円環の隙間を、紫電が骨格みたいに走る。次の瞬間、無数の火槍が雷を纏って降り注いだ。
荒野が白く染まる。
下級異獣の群れは、悲鳴を上げる暇もなく蒸発した。殻持ちは甲殻ごと裏返り、内側から焼け崩れる。さらに後方、地表の裂け目そのものへ雷炎が突き刺さり、魔力の噴出口を強引に封じた。普通なら複数班で時間をかけて行う迎撃と封鎖を、彼女は一手でやった。
熱風が遅れて頬を打つ。
ユリナは詠唱の余韻すら残さず、足を踏み出した。近づいてきた二体の取りこぼしを、腰の細剣で流れるように断つ。大術だけが化け物じみているわけじゃない。基礎戦闘も、もうリンドウの手が届く場所にはない。
「左、まだ一体います!」
若い兵の叫びに、ユリナが振り向く。
「はい」
返事は短い。
その一体が跳んだ瞬間、彼女の足元から稲光が走った。地を這った雷が異獣の腹を焼き、続く火線が首を薙ぐ。鮮やかすぎて、殺したという事実だけが遅れて理解に追いつく。
戦況は、ほんの数秒でひっくり返っていた。
さっきまで圧されていた平台に、今は味方の息遣いだけが残っている。皆、安堵していた。何人かはあからさまに肩の力を抜いている。死なずに済んだのだ。そうなるのは当然だった。
リンドウも同じはずなのに、胸の内は静かではなかった。
すごい、と思う。
誇らしい、と思う。
それと同じだけ、喉の奥がひりつく。
ユリナは昔から強かった。村の訓練場でも、候補生学校でも、彼女はいつも前にいた。リンドウが転びそうになると手を伸ばし、遅れそうになると振り返って待った。見下したことは一度もない。ただ、当たり前みたいに助けてくれた。
それが余計に苦しかった。
自分だけが、置いていかれたみたいで。
「リンドウ」
名前を呼ばれ、肩がこわばる。
ユリナがこちらへ歩いてくる。戦闘直後だというのに、呼吸は少しも乱れていない。頬に煤がついているのが、かろうじて現実味をつないでいた。
「怪我、してるよね。肩、見せて」
「かすっただけだ」
「かすっただけでも傷は傷だよ」
責める調子ではない。いつもの、真っ直ぐな気遣いだった。だからこそ、リンドウはすぐに頷けない。
彼女の視線が肩口の裂けた外套へ落ちる。血はにじんでいるが深くはない。治癒術師を呼ぶほどでもない、小さな傷だ。
「平気だ。今は持ち場の確認が先だろ」
「それはもう済む。湧出口も一時封鎖できたし」
ユリナはそこで言葉を切った。昔と違うのは、無理に押し通してこなくなったところだ。リンドウが何を嫌がるか、彼女はよく知っている。
知っていて、なお手を伸ばす。
「……無茶した?」
静かな問いだった。
リンドウは少しだけ視線を外した。泥の上には、焼けた異獣の残骸が転がっている。彼女が来る前に、自分がやっとのことで倒した個体の死体は、もうどれか分からなくなっていた。
「無茶ってほどじゃない。前が足りなかったから出た。それだけだ」
「それだけじゃない顔してる」
「お前は、そういうのまで見えるのか」
刺すつもりはなかった。けれど、少し固い声になった。
ユリナは眉をわずかに寄せる。それでも引かなかった。
「見えるよ。ずっと見てきたから」
その言い方に、胸の奥のどこかが軋んだ。
見てきた。そうだろう。彼女はいつも近くにいた。自分がどれだけ遅れて、どれだけ足りなくて、どれだけ惨めに踏ん張ってきたかも、たぶん全部知っている。
「だったら分かるだろ。今日だけじゃない」
リンドウは短剣を鞘へ戻した。指先の痺れが、まだ抜けない。
「毎回こうだ。最下級一体に手間取って、その間に横が余計に動く。分かってて出てる。分かってて、足りない」
言ってから、少しだけ息を吐く。頭ごなしに突っぱねたくはなかった。彼女が心配していることくらい分かる。それでも、受け取って終わりにはできない。
「お前が助けに来たのはありがたい。実際、助かった。それは本当だ。でも……」
そこで言葉が詰まった。
でも、助けられてばかりなのが嫌だ。
その一言を、うまく形にできない。子どもの意地にしか聞こえない気がしたからだ。けれどユリナは急かさなかった。返事を待つように、ただ立っている。
「……でも、俺はここでお前に助けられる側のまま終わりたくない」
ようやく出た言葉は、思ったより静かだった。
ユリナが目を伏せる。悲しそうに見えたが、同情ではなかった。そこを履き違えないから、余計に困る。
「終わらせるつもりなんてないよ」
彼女はそう言って、そっと息をついた。
「わたしは、リンドウが弱いから隣にいるんじゃない。失いたくないからいるの。……それじゃ駄目かな」
すぐに答えられない。
駄目だ、と切り捨てるのは違う。彼女の言葉は本物だ。故郷を失った夜から、二人が生きてきた時間の上にある。軽く扱えるはずがない。
でも、その優しさの中に甘えてしまったら、自分の足が完全に止まる気がした。
「駄目じゃない」
リンドウはゆっくり言った。
「お前がそう思ってるのは、分かってる。そこは疑ってない。ただ、それで俺が納得できるかは別だ」
ユリナの睫毛が、わずかに揺れた。
「……うん」
短い返事だった。納得したわけではないだろう。それでも、会話を切らないように受けてくれた。
その時、後方から隊長が声を飛ばした。戦後処理と哨戒再配置。すぐに動かなければならない。
ユリナはそちらを振り返り、それからもう一度だけリンドウを見る。
「肩の処置だけ、あとで絶対して。約束」
「了解」
軍人同士みたいな返しになったのは、たぶん照れ隠しだった。ユリナも気づいたらしく、ほんの少しだけ口元をゆるめる。
「そういうとこ、ずるい」
そう残して、彼女は隊長の方へ向かった。
赤銅色の髪が、灰色の戦場で妙に鮮やかだった。見送ったあと、リンドウは自分の手を見下ろす。短剣を握っていたせいで、指関節が白くなっていた。
誇らしかった。
あんなふうに戦える幼馴染がいることが、どうしようもなく誇らしい。
そして同時に、惨めなほど苦しかった。
自分は何だ。異獣一体に息を切らし、助けられ、諭され、それでもなお意地だけは捨てきれない。滑稽だ。戦力として見れば、ウルティマの一人がいるだけで、自分たち地方隊の何十人分にもなる。
分かっている。戦場に感傷の居場所なんてない。
それでも、胸の奥に残るものは消えなかった。
防壁の上へ戻る頃には、空はさらに鉛色を濃くしていた。焼けた異獣の臭いが風に薄まり、代わりに冷えた土の匂いが強くなる。兵たちは黙々と残骸を処理し、術式灯の点検をし、次の警報に備える。誰も先ほどの圧迫を大げさには語らない。ここでは、死に損ねたことをいちいち噛み締めていたら保たないのだ。
カインが戻ってきて、リンドウの肩を一瞥した。
「深くないな。治療班で縫えば済む」
「ああ」
「さっきの魔術、悪くなかった」
意外な言葉に、リンドウは目を上げた。
カインは手袋を外しながら、ぶっきらぼうに続ける。
「爪先だけ潰したやつだ。ああいう小細工ができるのは、お前の強みだ。火力はないが、見てるところは悪くない」
慰めではなかった。だから逆に、胸に残る。
「……小細工って言うな」
「戦場じゃ褒め言葉だ」
それだけ言って、カインは次の持ち場へ行った。
少しだけ、呼吸が楽になる。評価されたからではない。ちゃんと見ている人間が一人はいた、それが分かったからだ。だが、その程度で満たされるほど、リンドウの中核は穏やかじゃなかった。
彼がここに立つ理由は、承認じゃない。
異獣を殺すためだ。
故郷を奪ったものを、一体でも多く潰すためだ。
そのはずだった。
なのに現実はどうだ。自分は最弱に近い。魔力量は底辺。軍に籍を置いているのは、精密な魔力制御と固有魔術の希少性が評価されているだけで、純粋な戦闘員として見れば半端もいいところだ。
復讐を支えにして生き延びてきたくせに、その復讐へ届く力がない。
防壁の向こう、荒野の先へ目をやる。
灰色の地平線は、どこまでも冷たい。あの先から異獣は来る。今日みたいな下級種だけじゃない。村を食い破ったのは、もっと大きく、もっとおぞましいものだった。肉と甲殻と牙の塊。人の悲鳴をかき消すほどの咆哮。火の海の向こうで見上げた、あの巨大な影。
忘れた日はない。
忘れれば、たぶん立てなくなる。
処置を終えて兵舎へ戻った頃には、夜が更けていた。簡易寝台へ身体を投げ出すと、肩の傷がじくりと痛む。だが痛みは、今日の失態を薄めるほど強くない。
天井を見上げる。
近くの寝台では誰かがもう眠っている。遠くで整備班の工具音が小さく響く。防衛線の夜は静かだ。静かだからこそ、頭の中がうるさくなる。
ユリナの姿が浮かぶ。
炎と雷で戦場を塗り替えた背中。自分を案じる声。失いたくないと言った顔。
あれほど強いのに、彼女はまだ手を伸ばしてくる。置いていけばいいのに、そうしない。リンドウはそのことに救われている。救われているからこそ、なおさら甘えたくなかった。
「……俺は」
声にすると、ひどく頼りない。
続きは出なかった。
目を閉じる。眠るしかない。明日も警報は鳴る。異獣は来る。立てるうちは、立つだけだ。
だが、眠りはすぐに優しくは来なかった。
まぶたの裏に最初に浮かんだのは、赤だった。
赤い火。黒い煙。焼け落ちる梁。聞き覚えのある誰かの叫び。故郷の夜は、あの日のまま止まっている。
まだ幼かったリンドウは、土の上に尻もちをついていた。熱い。息ができない。喉が痛い。目の前で家が崩れる。火の粉の向こうで、母が何かを叫んでいる。聞き取れない。いや、聞きたくないだけかもしれない。
ユリナがいた。
煤だらけの顔で、泣きそうなのに泣かず、彼の腕を掴んでいた。逃げよう、と何度も言っていた気がする。けれどリンドウは動けなかった。燃えていく村の奥に、異獣の影があったからだ。
人の背丈を軽く越える脚。甲殻の擦れる音。火の中を歩く黒い輪郭。
憎い、と思った。
あの瞬間から、きっと全部が始まっている。
怖かった。惨めだった。何もできなかった。今もろくにできていない。けれど、それでも胸の中心に残り続けたものだけは、少しも薄れていない。
異獣を殺す。
故郷を燃やしたあの夜を、終わらせるために。
夢の中で、故郷がまた燃え落ちる。




