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第14話 届く力



 間に合え、としか考えていなかった。


 東部戦線の中心。裂けた空。空間そのものを槍みたいに尖らせた特級異獣。背後に押し詰まった避難民の列。そこへ立つ、炎雷の揺らぎ。


 原子眼が拾った像は、残酷なくらい鮮明だった。


 ユリナはもう限界に近い。心拍が乱れ、魔力循環が一部焼け、右腕の出力が明らかに落ちている。それでも立っているのは、背後を見捨てられないからだ。そういう立ち方だった。


 そして、天哭翼の一撃はもう落ちる。


 止めるなら、今しかない。


 リンドウは考える前に、抑え込んでいた魔力の流れをもう一段だけ解いた。皮膚の内側で押し留めていた膨大な量が、一瞬だけ推進へ変わる。視界が裂けた。空気の層が潰れ、雲粒の列が白い線へ引き伸ばされる。


 速い。


 それでも遅い。


 東の戦場が目前まで迫っているのに、天哭翼の方がまだ先に届く未来が見える。原子眼はそういう残酷な計算まで、勝手に出してくる。


「っ……!」


 脳の奥が焼ける。鼻の奥で血が弾けた。だがそこで緩めれば終わる。


 行け。


 もう一段。


 リンドウは空中へ踏み板を連続で生成し、その全部を一息で踏み砕いた。爆ぜた魔力の反動で、身体がほとんど光の線みたいに前へ射出される。白い髪が背後へ引き千切れそうに流れ、外套代わりの布が風圧で裂けた。


 視界の中心で、ユリナが右手を上げていた。


 最後の炎雷だ。あれは迎撃ではない。せめて相打ちで軌道をずらすための一撃だと、見ただけで分かる。生き残る前提の構えじゃない。


 やめろ、と叫びたかった。


 けれど声にするより先に、世界が落ちてきた。


 天哭翼の折り畳まれた巨体が、空間断層を纏って一直線にユリナへ突っ込む。距離が捩じれ、近いと遠いが何度も反転する。普通の迎撃では間に合わない。普通の防壁では触れた瞬間に砕ける。


 だから、普通の魔術を普通じゃない密度で使う。


 リンドウは右手を前へ突き出した。


「――障壁」


 ただの汎用防壁魔術だ。誰でも教本で習う、薄い魔力板を前方へ立ち上げるだけの術。


 だが今の彼は、それを一枚で終わらせなかった。


 原子眼が見抜いた空間断層の進行角、その内側でずれている座標の継ぎ目、衝突直前に濃くなる圧の偏り。その全部に合わせて、防壁を一枚、二枚、三枚ではなく、百を超える薄層へ分ける。厚く一枚で受けるのではなく、極薄の板を異なる角度で積層し、触れた衝撃を片端から剥がして流す。


 白い閃光が、ユリナの目の前へ割り込んだ。


 次の瞬間、天地が鳴った。


 空間断層と積層障壁がぶつかり合い、高台の岩盤が一斉に割れる。衝撃波で避難列の先頭が膝をつき、後方の荷車が横転しかける。だが、それでも進路は止まった。天哭翼の穂先みたいな頭部が、わずかに逸れる。


 それで十分だった。


 リンドウはその反動ごと身体を滑り込ませ、さらに二枚の障壁を斜めに差し込み、怪物の軌道を地表へ擦らせる。巨大な翼が高台の端を抉り、土と石が空へ噴き上がる。けれど直撃だけは外れた。


 間に合った。


 その実感が胸を打つより先に、リンドウは着地した。足裏の下に圧縮した空気の板を敷き、そのまま高台の土へ滑り込む。地面が悲鳴を上げて裂ける。背中では天哭翼が一度大きく跳ね上がり、再び空へ離脱していた。


 後ろで、誰かが息を呑む音がした。


 ユリナだと分かる。


 振り返る余裕はない。それでも背中越しに、彼女の炎雷がまだ消えていないのを感じた。細くなってはいるが、折れてはいない。


「……下がれ」


 短く言った。


 自分の声が、戦場の喧噪の中でも妙に澄んで聞こえる。高くなった声。昔の自分とはまるで違う。今ここでそんなことを気にしている場合じゃないのに、一瞬だけ喉がひっかかった。


 背後でユリナが固まる気配がある。


「あなたは……」


 問いかけは最後まで続かなかった。天哭翼がもう一度旋回に入り、魔術崩壊の霧をばらまき始めたからだ。


 灰銀に黒が混じる霧が高台へ這ってくる。普通の術者なら、それを見た瞬間に退避を選ぶだろう。術式に触れれば壊れる。維持すれば逆流する。東部戦線を崩した元凶の一つだ。


 リンドウは眉を寄せた。


 原子眼で見ると、あれはただの霧ではない。微細な魔力粒子が、異常な配列で空中に固定されている。術式というより、術式を壊すための「壊れた術式」だ。触れた魔法の構造を読み取り、その接続部を一斉に腐食させる。ひどく悪趣味で、ひどく合理的な現象だった。


 なら、対処はある。


 術式として成立させなければいい。


 リンドウは足元の小石を一つ蹴り上げ、指先で弾いた。そこへ汎用の衝撃魔術を、術式環をほとんど見せない速度で重ねる。普通なら小さな弾けで終わる初級術だ。だが彼は魔力の圧縮率を桁違いに高め、しかも発動を一拍より短く終わらせる。


 石が、白い線になった。

 弾丸ですらない。空気の層を抉りながら走ったただの石片が、霧の中心を貫き、そのまま後方の土塊を丸ごと吹き飛ばす。

 霧が裂けた。


 構造が持つ前に、物理衝突と瞬間励起だけで中心が崩されたのだ。


 背後で誰かが声にならない呻きを漏らす。


 リンドウ自身も、少しだけ息を吐いた。やれる。置換魔術はない。だが、原子眼で見えてしまう以上、汎用魔術の方を限界まで削り込めばいい。術式の継ぎ目、敵の核、空間の歪み、その全部へ「誰でも使える魔法」を届く形に変える。


 それだけだ。


 簡単に言うには、今の自分の方が十分におかしいのだが。


 天哭翼が咆哮した。


 傷ついた左翼と、さっき無理やり軌道を逸らされた苛立ちが、その声に混じっている。原子眼には感情までは見えない。けれど巨体の内側を流れる魔力循環が、明らかに荒れていた。胸郭の奥に主核が一つ、両翼基部に補助循環が二つ、霧器官の根元に別系統の制御節点が複数。表層の歪曲に惑わされなければ、構造そのものは意外なほど素直だ。


 核が見える。

 循環も見える。


 それなのに今まで人類が苦戦したのは、単純にそこへ届く前に法則を狂わされていたからだ。見えれば、崩せる。


「……そういうことか」


 ひどく静かな納得が落ちる。


 強いとか、速いとか、そういう尺度だけではない。原子眼の本質は、怪物の「どこを壊せば怪物でなくなるか」を問答無用で見せてしまうところにある。


 背後でユリナが、どうにか立ち上がる音がした。炎雷の気配がまだ消えていない。消えていないのに、彼女は一歩も前へ出てこない。


 不思議に思って半身だけ振り返り、リンドウはそこで彼女と目が合った。


 赤銅色の髪は煤と血で乱れ、頬は裂け、呼吸は荒い。けれど瞳だけは死んでいなかった。まっすぐこちらを見ている。その視線の中にあるのは安堵ではなく、困惑と、警戒と、ひどく強い既視感だった。


 しまった、と思う。


 今の防ぎ方が、あまりにも自分だった。


 真正面から力で受けず、継ぎ目を見て最小の角度で逸らす。小石一つを最大効率で通す。火力よりも、どこへ当てれば全体が崩れるかを先に読む。

 昔、弱かった頃からずっとやってきた戦い方だ。


 見た目も声も別人なのに、癖だけが残っている。


 ユリナの唇が、かすかに動いた。


「……リンド、」


 最後までは聞かない。


 天哭翼が再び降りてきた。

 今度は真正面からではない。高台の上空を斜めに横切り、こちらの死角へ入り込む軌道。賢い。さっきの迎撃で「正面は危ない」と学んだのだ。

 だったら、それを上回ればいい。


 リンドウは地を蹴った。いや、もう蹴ったという感覚ですらない。膝を軽く沈めた瞬間に魔力の噴流が背を押し、身体がほとんど瞬間移動に近い速度で空へ出る。高台の上で兵たちが息を呑み、避難列の何人かが思わず顔を上げる。


 空中で、原子眼が怪物の構造をさらに深く暴いた。


 左翼基部の損傷は深い。さっきユリナと自分の攻撃が重なったせいで、補助循環の一つが既に遅れている。問題は胸郭の主核だ。あれを守るために空間歪曲が厚く集中している。真正面から魔弾を打ち込んでも、途中で距離を喰われる。


 なら、距離そのものを信用しない。


 リンドウは空中で両手を開き、汎用魔術の連射を始めた。


 火球ではない。雷槍でもない。誰でも初等課程で習う、ただの魔弾だ。圧縮した魔力塊を飛ばすだけの、教本の一ページ目に載っている術。それを彼は一発ごとに質量、回転、着弾角、遅延時間を変えて数十発同時に打ち分ける。


 白い弾丸が、空に散る。


 一見すると滅茶苦茶な乱射だった。だが全部が意味を持っている。前列は囮。空間歪曲の厚い層へわざと触れさせ、揺れの位相を読む。中列はその揺れへずらして差し込み、外周の補助循環を削る。後列だけが、本命だ。


 天哭翼の周囲で、白い炸裂が連続した。


 最初の数発は外れたように見える。実際、肉には届いていない。けれど歪んだ空間の縁がそのたびにわずかにずれ、見えない防壁が薄くなる。そこへ二十発目、三十一発目、四十七発目が、ほとんど同時に突き刺さった。


 左翼根元。

 胸郭の側線。

 霧器官の接続部。


 全部、ただの魔弾だ。


 それなのに、特級異獣の巨体が明らかに揺らぐ。巨体の内側で循環が乱れ、霧の噴出量が一瞬だけ落ちた。


「嘘だろ……」


 高台のどこかで、兵士がそう呟く。


 無理もない。誰が見ても、今やっていることは汎用魔術の使い方じゃなかった。


 リンドウは地上へ視線を落とさず、そのまま加速した。身体能力も別物だ。空を蹴る一歩で位置が十数メートルずつ跳び、風圧を魔力膜で散らせるせいで、速度を上げても骨が悲鳴を上げない。


 ただ一つ、頭の奥だけがどんどん熱くなる。


 原子眼が止まらない。


 近づけば近づくほど、天哭翼の構造が細かく見える。羽膜を構成する微細な骨片、霧器官を支える管、空間歪曲を発生させる結晶状の節点。見える。見えすぎる。便利だ。便利すぎて、脳の処理が追いつかない。


 痛い。


 それでも戦える。


 その昂揚の方が、今はまだ勝っていた。


 天哭翼が横薙ぎに翼を振るう。空間断層が、刃の列になって空を走る。リンドウは避けない。避ける代わりに、断層の重なりが最も薄い一点へ圧縮障壁を差し込み、自分の身体ごとすり抜ける角度を作る。


 ぶつかった瞬間、障壁が二十枚砕けた。


 だが足りる。自分の身体はその残りの三枚で抜ける。すれ違いざまに、指先へ集めた熱線魔術を怪物の右翼内側へ滑らせる。熱線もまた汎用だ。本来は工兵や切断作業向けの地味な術でしかない。だが今の彼が使えば、極細の高熱刃になる。


 白い線が翼膜を走る。

 遅れて、天哭翼の右翼が半ばから裂けた。

 怪物が初めて、はっきりと悲鳴を上げる。


 大きい。特級にふさわしく、大きい。それでも、もはや「届かない怪物」ではない。構造を見抜き、継ぎ目を断ち、循環を乱せば崩れる。それが分かった以上、恐怖の質が変わる。


 高台の上、避難民の列、砲兵の残り。その全てが、その変化を感じ取ってざわめいた。


 ユリナだけは黙っていた。


 彼女は息を荒げたまま、空中の白い影を見上げている。その表情に浮かんでいるのは、単純な驚きではない。誰かを思い出しかけた時の、あのどうしようもなく苦い困惑だった。


 分かるな、と内心で思う。

 分かってほしい気持ちと、まだ分からないでいてほしい気持ちが、胸の中で嫌に近い場所へ同居していた。

 だが今は、それに答える時間がない。


 天哭翼が高度を無理やり上げようとする。逃がす気はなかった。主核が見えている以上、ここで落とす。落とせる。


 リンドウは空中で一度だけ静止し、左手を胸元へ当てた。膨大な魔力が内側で渦巻いている。置換魔術はない。だが制御はある。なら、ただの魔力を術式へ変えればいい。


 選んだのは、これもまた汎用の雷撃だった。


 初等術式。対象へ電流を流し、神経系や簡易魔導器を痺れさせるだけのもの。普通なら中型異獣にすら決定打にならない。


 だからこそ、怪物は油断する。

 リンドウは主核へ向けて雷撃を走らせた。ただし直線ではない。まず胸郭の外縁を這わせ、補助循環の中へ潜らせ、そこから核の外皮に沿って何十本もの極細経路へ分ける。


 電撃は通るだけでは足りない。


 主核の拍動と、補助循環の遅延、そのほんの一拍のズレへ噛ませる。


「そこだ」


 囁くように言って、最後の収束をかけた。


 雷が、内側で閉じた。

 外から見れば、大きな閃光は一つだけだったかもしれない。だが原子眼には、主核を守っていた外皮の内側で、無数の細い雷が同時に噛み合い、循環の位相をまとめて焼き切るのが見えた。


 天哭翼の巨体が止まる。


 ほんの一瞬。

 その停止を見逃す理由はない。


 リンドウはそのまま最高速で突っ込んだ。手刀でも剣でもない。汎用衝撃魔術を一点へ圧縮し、障壁魔術を逆向きに薄く重ね、拳の前に「絶対に崩れない一点」を作る。殴るのではなく、構造へ穴を穿つための槌だ。


 衝突。


 胸郭の主核へ、白い閃光が突き刺さる。


 空が、鳴った。


 次の瞬間、天哭翼の胸部から黒い亀裂が放射状に走り、左右の翼が耐えきれずに引き裂かれる。主核を失った巨体は空間歪曲を維持できない。捩じれていた空が一気に正常へ引き戻され、その反動で怪物の身体そのものが内側から崩れ始めた。


 霧器官が爆ぜる。

 翼膜が散る。

 骨棘の列が砕け、夕暮れの空へ黒い破片が雨みたいに降った。


 天哭翼は、落ちた。


 東部北東斜面の空に君臨していた特級異獣が、最後はただの質量へ戻って地表へ墜ちる。その衝撃で丘陵が揺れ、高台の端が崩れ、避難列の一部で悲鳴が上がる。それでも、今度の揺れは法則を狂わせない。ただの落下だ。


 勝った。


 その認識が、遅れて戦場全体へ広がる。

 兵たちが呆然と空を見上げる。避難民の列も、一瞬だけ足を止める。誰もすぐには歓声を上げられなかった。あまりにも現実味が薄い勝利だったからだ。


 リンドウ自身も、空中で一瞬だけ止まったまま、息を荒げていた。


 できた。

 特級相手に、届いた。


 その事実は凄まじい高揚を呼んだ。異獣に届く力。あの日からずっと欲しかったものが、今やっと自分の中にある。その実感は、胸の底で鋭く明るかった。


 だが、代償は即座に来た。

 天哭翼が崩れたことで、戦場一帯の空間歪曲と霧の密度が一気に変わる。抑えていた情報が堰を切ったみたいに原子眼へ流れ込み、脳の奥を殴りつけた。


「――ッ、ぁ!」


 視界が白く焼ける。

 地上の石、空気、血、魔力、崩れた術式、逃げる人々の熱、遠方で暴れる別の特級反応、その全部が極小単位で一斉に見える。見えるどころではない。脳へ直接突き刺さる。

 遅れて、膨大な魔力の制御も揺らいだ。勝利の高揚で無意識に緩んでいたのだろう。皮膚の表面から光の粒が溢れ、空中で不安定に弾ける。


 まずい。

 押さえろ、と頭では叫ぶ。けれど頭の方がもう限界に近い。鼻から血が落ち、耳鳴りがひどくなり、膝から力が抜ける。

 空中の足場が一瞬遅れる。

 そのままリンドウは高台の斜面へ片膝をついた。着地というより、墜ちかけたところを最後の魔力制御でどうにか止めた形だった。地面に触れた瞬間、身体の中を鈍い痺れが走る。


「っ、く……」


 吐き気がひどい。呼吸も浅い。原子眼へ流れ込む情報を絞ろうとしても、いったん開ききった視界がなかなか閉じない。戦場の中心にいる限り、見えるものが多すぎる。

 視界の端で、人影が駆け寄ってくる。

 炎雷の残り火をまとった、赤銅色の髪。


 ユリナだった。


 彼女はまだ傷だらけで、足取りも完全ではない。それでも迷いなくこちらへ来る。戦いの直後に真っ先に動くべきは指揮と避難誘導のはずなのに、身体の方が先に動いてしまったような、そんな走り方だった。


 リンドウは立ち上がろうとした。だが膝が笑う。情報の波がまた脳を殴り、視界が揺れた。


 まずい。

 今、こんなところで顔を見られたら。

 そう思うのに、身体がついてこない。


 ユリナが目前まで来る。ほんの数歩。風に煽られた白い髪が頬へ張りつき、その向こうで彼女の瞳が大きく見開かれる。


 彼女は、間近でリンドウの顔を見た。


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