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第15話 変わり果てても

 


 空間が元へ戻っていく音は、耳ではなく骨で聞くものだった。


 天哭翼が墜ちたあと、東部北東斜面の上空から、ねじれていた距離の感覚がゆっくりと剥がれていく。近いはずのものが遠く見え、遠いはずのものが手の届く場所へ跳んでくる、あの悪夢みたいな狂いが、ようやく少しずつほどけていくのだ。


 それでも戦場は、まだ戦場のままだった。


 崩れた高台。泣きながら走る避難民。治療班の怒声。残った砲兵が砲身を無理やり回し、下級群の回り込みへ対応している。遠く西では地面そのものがうねり、南ではまだ認識を拒むような歪みが残っていた。勝利した、とはとても言い切れない。ただ、今ここで一つだけ確かなことがある。


 ユリナの目の前へ落ちてきた死は、白い閃光に叩き落とされた。


 その閃光の正体が、今、膝をついている。


 白い髪。

 崩れかけた布を身に巻きつけただけの細い身体。


 女のものだとすぐ分かる体つきなのに、立ち上がろうとする気配だけが妙に鋭い。背中の線は華奢で、血と煤で汚れていて、それでも、さっき空で怪物を屠った存在と同じものだとは思えないほど人間的だった。

 だがその人影は、次の瞬間、片膝をついたまま大きく息を乱した。


「っ、は……」


 掠れた声。高い。けれど弱々しいだけではない。喉を痛めた女とも、声変わり前の少年とも違う、不思議に澄んだ響きだった。


 ユリナは息を詰める。


 さっきまで戦場全体を塗り替えていた圧が、今は明らかに不安定だ。白い髪の人影の周囲で、薄い光の粒が制御を失いかけてふわりと浮く。空気中へ漏れた魔力だと分かった瞬間、ユリナは一歩踏み出していた。


「動かないで」


 ほとんど反射だった。戦場のど真ん中で、正体不明の圧倒的な戦力へ向ける言葉ではない。だが、その細い肩が崩れそうに見えた瞬間、口から出たのは命令でも警戒でもなく、それだった。


 白い人影が顔を上げる。

 その顔を見た途端、胸がきしんだ。


 整いすぎている、と思った。いや、美しいと表現すれば正しいのだろう。雪みたいな髪に、淡い銀を帯びた瞳。輪郭は繊細で、中性的な鋭さがある。男とも女とも言い切れない印象が一瞬浮かぶのに、身体つきははっきり女性のものだ。何より、その顔の奥にあるはずの年齢や感情が、うまく読めない。


 けれど彼女――いや、その人影は、ユリナをまともに見なかった。


 視線が合いきらない。顔の輪郭を辿る前に、肩や喉元や耳のあたりへ滑っていく。人を見る目ではなく、もっと細かい何かを見てしまっているみたいな、不自然な視線の逸れ方だった。


「……下がれ」


 短く言う。

 その一言が、妙に胸へ引っかかった。

 声だけじゃない。言い方が。命令しているようで、頭ごなしではない。相手の状況を分かった上で、自分の方を優先しろと告げる時の癖。昔から、あの不器用な幼馴染がそうだった。


 ユリナはすぐには応じなかった。

 応じられなかった、の方が近い。


「あなた、誰」


 問いかける声は、自分でも驚くほど掠れていた。

 白い人影は少しだけ眉を寄せた。困ったような、誤魔化し損ねたような、短い間だった。その仕草すらどこか引っかかる。


「今は、それより後ろを」


 そう言って、彼女はわずかに顔を背ける。


「列がまだ詰まってる。南東の橋は、あと少しで開く」


 ユリナは思わず後ろを見た。たしかに避難列はまだ残っている。天哭翼が墜ちたことで前線の圧は減ったが、下級群は完全に消えていないし、西と南の特級も生きている。戦場で立ち止まっていていい時間ではなかった。


 だからこそ、余計におかしい。

 初対面の相手なら、まず自分の正体を隠すか、命令系統を確認するか、あるいは何も言わず去るはずだ。この白い人影は違う。最初にするのが、避難列と橋の状況確認だ。

 しかも、言葉にほとんど無駄がない。


「少佐!」


 エミルが駆け寄ってきた。血と泥でひどい顔だが、まだ立っている。


「天哭翼の残骸、固定を急がせています。避難列は今、最後尾が動き出しました。あと、北側の回り込み群は防衛軍残存で受けます」

「分かった」


 返してから、ユリナは白い人影へ視線を戻した。


 その間にも彼女は立ち上がろうとして、膝をつき直していた。限界が近いのは明らかだ。それなのに、周囲へ意識を配る方を優先している。


 その時、墜ちた天哭翼の残骸の陰から、下級の裂爪犬型が一体だけ這い出した。半身を焼かれ、足を引きずっている。それでもまだ生きていて、斜面の上にいる避難列へ向かおうとしていた。


「危な――」


 ユリナが声を上げるより早く、白い人影が動いた。


 立ち上がるのではない。膝をついたまま、足元の小石を指先で弾いたのだ。


 石は音もなく飛び、裂爪犬の眼窩へ吸い込まれた。次の瞬間、頭部が内側から爆ぜる。使ったのは、ただの衝撃魔術。誰でも使える、ごく初歩の術。なのに当て方があまりに正確で、余分が一つもない。


 その直後、白い人影はさらに半歩だけ身体をずらした。

 それだけで、裂爪犬の死体から跳ねた血飛沫が、ユリナにかからない位置へ逸れる。


 庇う動きだった。

 意識したというより、身体が勝手にそうしたみたいな自然さで。


 喉の奥が熱くなる。

 そんな動きをする人間を、ユリナは一人しか知らない。


 理屈ではない。顔が違う。声も違う。髪も身体も、何もかもが知らない。なのに、目の前で起こる細かな選択だけが、どうしようもなく見覚えに刺さる。


 昔の訓練場で、横から飛んできた暴発寸前の訓練杖を弾いた時。

 故郷の村道で、崩れた荷車の破片からこちらをさりげなく庇った時。

 第三十八区画の平台で、死にかけながらも若い兵を突き飛ばした時。


 全部、同じだった。


 派手ではない。

 でも、いつも少しだけ横へ入る。

 自分の身体を先に差し込み、相手の被害を減らす。


 ユリナは一歩、さらに近づいた。


 白い人影がまた視線を逸らす。まともに顔を見ない。見られないというより、見ようとすると辛いのかもしれない。そう思わせるぎこちなさだった。


「あなた」


 呼びかける声が震える。


「……人の顔、うまく見えてないの?」


 ぴたりと、相手の動きが止まった。

 今度こそ確かな反応だった。沈黙は一秒もなかったはずなのに、ユリナには妙に長く感じられる。


 ユリナの唇が、勝手に名前の形を取る。

 怖かった。間違えていたらどうするのかと思う。期待して、違ったらどうするのかとも思う。それでももう、喉まで来てしまっていた。


「……リンドウ?」


 震える声だった。


 問いかけというより、祈りに近かったかもしれない。


 白い人影の肩が、ほんのわずかに落ちる。


 その一瞬で、ユリナには全部分かった。顔でも髪でも身体でもない。分かったというより、長く堰き止めていたものが一気に決壊したのだ。


 相手は少しだけ俯き、それから、昔より高くなったその声で言った。


「……ああ、久しぶりだな」


 その瞬間、ユリナの中で何かが完全に切れた。


「――っ」


 息が詰まる。視界が揺れる。次の言葉が出てこない。出てきたとしても、たぶん形にならない。安堵、怒り、悲しみ、嬉しさ、悔しさ、恨みたいほどの恋しさ。その全部が一度に喉へ押し寄せて、まともな言葉になる前に涙へ変わった。


「ばか……」


 ようやく出たのは、それだけだった。

 ユリナはそのまま膝をつき、変わり果てた彼を強く抱きしめた。


 抱きしめた瞬間、細い身体がひどく熱いことに気づく。熱を持ちすぎている。戦闘の反動だけじゃない。内側に抱えた魔力が、まともな人間の器に収まりきっていないような熱だ。それでも、腕の中にある感触は確かに生きている。


「生きてた……」


 涙で声が歪む。


「生きて、たの……っ」


 責めたいことはいくらでもあった。どうして消えたのか。どうして三年も。どうして何も言わなかったのか。どうしてこんな姿になって。どうして今まで一人で。

 けれど、その全部は後回しでよかった。

 今はただ、生きてここにいることだけが重い。

 ユリナは抱く腕に力をこめた。離したらまた消える気がした。あの温室のあとみたいに、目を離した隙にどこかへ行ってしまう気がした。


 相手の身体が、ほんの一瞬だけ強張る。

 それから、ぎこちなく息を吐いた。


「リンドウ……」


 今度はちゃんと名前になった。

 呼ぶだけで涙が落ちる。情けないくらい、止まらない。


「ほんとに、リンドウなんだよね」


 問い返す必要もないのに、そう言ってしまう。確認しないと怖かったのだ。三年という空白は、それくらい人を臆病にする。

 白い髪の相手――リンドウは、少しだけ首を竦めたようだった。ユリナの肩へ額が触れそうになって、そこで止まる。


「そうだ」


 低く、静かな答えだった。

 それが余計に泣けた。


 ユリナは笑おうとして失敗した。嗚咽が混じる。


「顔、見えてないの?」

「見えてる。……見えすぎて、うまく人の顔として拾えない」

「なに、それ」

「説明はあとで、する」


 その返し方まで変わっていなくて、ユリナは本当に泣きそうになる。いや、もう泣いているのだが、それとは別の場所がまた崩れる。


 ようやく、リンドウの手が動いた。


 最初は迷うように、空を探るみたいに。次に、そっとユリナの背へ触れる。細い。けれど指先に力がある。さらに少し遅れて、もう片方の腕も上がる。遠慮がちで、ぎこちなくて、でもちゃんと抱き返してきた。


 その瞬間、ユリナはまた涙をこぼした。


 触れ方までリンドウだった。強引に締めつけるのではなく、相手の呼吸を潰さないぎりぎりで支える抱き方。昔から変わらない、不器用で優しい腕だ。


 ただ、身体の形だけが違う。


 抱きしめた相手の肩は狭く、背中の線も以前よりずっと薄い。胸元の柔らかさに、自分の身体の方が遅れて戸惑う。けれどその違和感より、抱き返されたことの安堵の方がずっと大きかった。


 しばらく、二人とも動かなかった。


 戦場の只中なのに、その一角だけ時間が外れたみたいだった。もちろん現実には、周囲ではまだ負傷者搬送の怒号が飛び、下級群の掃討が続き、遠くの空では別の異常が唸っている。それでも、ユリナにとっては今この腕の中にある体温の方が、世界のどんな音より確かだった。


 やがて、リンドウの呼吸が少しだけ乱れる。


 抱き返す力が一瞬弱くなり、また無理やり戻る。そのぎこちなさで、ユリナははっと我に返った。そうだ。再会に浸っている場合じゃない。彼は明らかに消耗している。顔色は白いどころか、半ば透けそうで、目元には痛みをこらえる色がある。


 ユリナは少しだけ身体を離した。離したくなかったが、彼の状態の方が先だ。


「ごめん。今、つらいよね」


 言うと、リンドウは少しだけ口元を歪めた。

 笑おうとしているのだと、分かる。以前の彼なら、そういう時はもっと苦い顔をした。今は違う。ひどく複雑なものを抱えたまま、それでも笑おうとしている。


「つらい、つらいが……」


 答えはやはり抑えめだ。


「でも、離れられる方がたぶん困る」


 ユリナは息を呑んだ。

 そういうことを、昔の彼はこんなに素直に言わなかった。三年で変わったのか、それとも姿が変わるほど壊れた後だからこそ、もう少しだけ本音に近いのか。どちらにしても、その一言だけで胸がいっぱいになる。


「……離れない」


 ユリナは小さく言った。


「絶対に、もう……離さない」


 今度はリンドウの方が少し黙る番だった。視線はやはり合いきらない。彼の銀の瞳はユリナの輪郭の少し脇を見ていて、人の顔を拾えないという言葉が本当なのだとそこでようやく実感する。


 けれど、合わない視線の奥で、確かに安心した気配があった。

 そこで初めて、ユリナは彼の姿をもう少しちゃんと見る余裕を持った。


 純白の長い髪。中性的で整いすぎた顔立ち。薄い外套布の下に隠しきれない女性の身体。以前のリンドウの面影は、目元や喋り方や、息の整え方みたいな細部にしかない。正面から見れば、別人だとしか言いようがない。


 それなのに、もう分かってしまった。

 この人がリンドウだと。


 見た目の奥に残った戦い方の癖、言葉の返し方、庇う時の一歩、そして今この抱き方。それが全部、どんな顔よりよく答えをくれた。


 エミルが少し離れたところで困ったように咳払いした。視線は逸らしてくれている。ありがたいが、現実が戻ってきたのも確かだ。


「少佐、報告です」


 声は気まずそうだったが、内容は容赦なかった。


「北東線の避難、ほぼ完了。残敵掃討は防衛軍残存と合流して進めています。あと、西と南は……六賢人到着で持ち直しつつあります」


 そこで彼は、ようやく白髪の救援者の方をちらりと見た。


「それと、この方をどう扱うか、指揮所が」

「私が連れていく」


 ユリナは即答した。


 エミルは一瞬だけ目を丸くし、それから苦笑に近いものを口元へ浮かべた。何か悟ったのだろう。問い返しはしなかった。


「了解です」


 医療テントへ向かう途中も、ユリナはリンドウの腕を放さなかった。放したくなかったし、放すと彼の足元が少し危うく見えたからでもある。


 歩きながら、リンドウは何度か軽く首を振った。戦場のあらゆるものが見えすぎるのだろう。視線は人の顔を避け、代わりに地面や布地の端や、遠くの光を拾っている。ときどき眉間に深い皺が寄る。そのたびにユリナは、今すぐ戦後でも何でもなく、この目の方をどうにかしなければいけないと思った。


 医療テントは修羅場だった。負傷兵、避難民、防衛軍、砲兵、みんなまとめて押し込まれている。その中へユリナが白髪の救援者を連れて入った途端、視線が一斉に集まる。


 無理もない。ついさっき特級異獣を落とした張本人が、こんな姿でふらついているのだ。


「通して」


 ユリナは短く言い、奥の仕切り区画を空けさせた。軍医が一目見て顔色を変える。


「この人は」

「説明はあと。先に視界と魔力の方を見て」


 軍医は文句を言わなかった。ユリナの声音が、今は逆らっていい時じゃないと伝えていたのだろう。

 寝台へ座らせた途端、リンドウはこめかみを押さえて息をついた。


「……悪い。少し、静かにしてくれ」


 軍医が思わず声を落とす。


「頭痛ですか」

「頭痛、というか」


 リンドウは言葉を選ぶように一拍置いた。


「世界が見えすぎている」


 軍医は意味を測りかねた顔をしたが、ユリナにはなんとなく分かった。人の顔を顔として拾えないのに、布の織り目や血の匂いの粒立ちの方が先に来る。そういう目なのだろう。

 そこで、テントの入口から別の声がした。


「視覚過負荷なら、仮の抑制具があるかもしれない」


 振り向くと、東部戦線へ後着していた六賢人(ろくけんじん)の一人、観測系大魔術師エセルが立っていた。年齢の読めない灰髪の女で、常に薄い手袋と黒い布筒を持ち歩いていることで有名だ。遠視・千里視・魔力観測系の術者が過負荷を起こした時、彼女の工房製の補助具が使われることは多い。


 エセルはリンドウを一目見て、ほんのわずかに目を細めた。


「妙な目をしてるわね。説明は後でいい。まずは生き残る方が先か」


 手元の布筒から、黒と白の糸が織り込まれた眼帯を取り出す。片目用に見えるが、ただの遮光布ではない。内側に細かな術式糸が走り、視覚情報を段階的に減衰させる構造が見えた。


 リンドウもそれを見て、少しだけ顔を上げる。


「片目で足りるのか」

「あなたの目が両目とも同質なら、片側から認識を鈍らせれば全体へフィードバックがかかるはず。たぶん、だけど」

「十分だ」


 眼帯を受け取り、彼はためらうことなく装着する。


 ユリナは黙って見守った。

 リンドウが眼帯を左目へ当て、後頭部で紐を結ぶ。術式糸が淡く光り、一拍遅れて視界調律の魔力が流れた。


 その瞬間、彼の肩が明らかに落ちた。

 息の吐き方まで変わる。今まで全身へ入っていた無意識の力が、少しだけ抜けたのだと分かった。


「どう?」


 ユリナが訊く。

 リンドウはまばたきをして、テントの中を見回した。さっきまでのように視線が滑らない。まだ完全ではないが、人の顔の高さへちゃんと焦点が来る。


「……だいぶ楽になった」


 その一言に、ユリナは胸の奥が熱くなった。


「人の顔、分かる?」

「前よりは」


 そこまで言ってから、リンドウはようやくユリナを正面から見た。

 見る、という行為そのものが久しぶりだったみたいに、ゆっくりと。


 眼帯に隠れていない右目は、やはり淡い銀だった。その目に真正面から見られて、ユリナの方が少しだけ言葉を失う。三年ぶりなのに、さっき抱きついた時よりも緊張するのだから、自分でも妙だと思う。


「……お前、ちゃんと泣くんだな」


 リンドウが言った。

 ユリナは思わず鼻をすすった。涙はもう拭いたつもりだったのに、まだ頬が熱い。


「泣くよ。三年も行方不明だった幼馴染が、急に空から降ってきたら」

「空から降ったのは、ちょっと違う」

「じゃあ何。白い閃光?」


「……それも違う気がする」


 噛み合いそうで噛み合わないやりとりが、懐かしさを呼ぶ。エセルや軍医たちが気を利かせて少し離れたのも、ありがたかった。


 ユリナは寝台の横へ椅子を引き寄せて座った。今度こそ、目を逸らさずにリンドウを見る。白い髪も、女の身体も、眼帯も、全部がまだ現実味の薄い異物だ。けれどその奥にいるのが彼だと分かった以上、避けてばかりもいられない。


「聞きたいこと、いっぱいある」


 そう言うと、リンドウは少しだけ肩を落とした。


「ああ」

「怒ってもいる」

「……ああ」

「でも」


 ユリナは一度だけ息を整えた。


「今は、生きて戻ってきたことが先」


 リンドウは答えなかった。代わりに視線が少しだけ下がる。そういう時、昔の彼は言葉を選んでいた。今も同じだ。


「……戻るつもりだった。消えたわけじゃない」


 やがて、低く言った。


「お前の願いを踏みにじったのも、消えた三年も、言い訳できるとは思ってない。しかも、戻ってきた姿がこれだ」


 自嘲のように、自分の髪をひと房つまむ。


「前の俺じゃない」


 その言い方に、胸が痛んだ。


 ユリナは即座に否定しなかった。そこで「そんなことない」と言い切るのは違うと分かるからだ。実際、彼は変わっている。失った三年も、置いていかれた自分も、今この眼帯の奥にある呪いみたいな目も、全部なかったことにはできない。


 だから、受けた上で返す。


「前のままじゃないのは、見れば分かる」


 ユリナは静かに言った。


「三年も空いてるし、身体も、目も、たぶん想像よりずっと大変なんだと思う」


 そこで少しだけ身を乗り出す。


「でも、いなくなった人が別人になって帰ってきた、とは思ってない。少なくとも私は」


 リンドウの睫毛が、かすかに揺れた。


「今日、私を庇った時も、避難列を先に見たことも、石の弾き方も、言葉の返し方も、全部リンドウだった」

「……癖が残りすぎてたか」


 苦い冗談みたいに言う。


「残っててよかった」


 ユリナはそう返し、少しだけ笑った。涙のあとの笑いだから、たぶん綺麗ではなかったと思う。それでも、今はそうするしかなかった。


「見た目がどう変わっても、そこを見失うほど私は馬鹿じゃないよ」


 リンドウはそこで、やっと正面からユリナを見た。眼帯のない右目だけで。それでも十分だった。


 その目の奥にある感情は、ひどく複雑だった。安堵、後ろめたさ、戸惑い、疲労、そして少しだけ救われたような色。どれか一つに名前をつけるのは難しい。ただ、彼自身が今も自分の居場所を決めかねているのだとは分かった。


「……嬉しい、とは思ってる」


 ぽつりと、リンドウが言った。


「今さらそんなこと言う資格があるかは別として」

「資格とかで言わなくていい」


 ユリナは少し強く言った。すぐに語尾をやわらげる。


「そこは、もういいから。嬉しいなら、嬉しいで」


 リンドウはわずかに息を吐いた。目元が少しだけ緩む。


「抱きしめられて、嬉しかった」


 その言葉が、今度はユリナの方の呼吸を止めた。


 真正面から言われるとは思っていなかった。昔の彼は、そういうことを飲み込む側だったからだ。白い髪の奥の顔が、少しだけ困ったように笑っている。自分でも言い慣れていないのだろう。


「……ずるい」


 思わずそう言うと、リンドウが首を傾げた。


「何が」

「そういうの、ちゃんと言うとこ」

「お前が泣くからだろ」


 ユリナは鼻をすすり、笑ってしまう。泣いた顔のまま笑うのはあまり格好いいものじゃないが、今さらだ。


 しばらくして、テントの外から戦後整理の報告が入った。地母殻は六賢人と西方残存部隊で押し戻しに成功。幽虚膜も南で封じ込めが進み、第二の穴周辺は一時的ながら戦線安定。勝った、と言っていい範囲ではない。それでも東部が今日この場で崩壊する未来だけは避けられた。


 その報告に安堵しながらも、ユリナは隣の寝台を見る。


 勝利の立役者は、眼帯をしたまま静かに座っている。白髪の異様さも、女の身体も、怪物じみた力も、全部消えてはいない。それでも眼帯一つで、彼は少しだけ「人間の世界」に戻ってきたように見えた。


「それ、痛くない?」


 黒と白の糸で織られた眼帯を指さす。


「少し圧はある。でも、目を開けっぱなしで焼かれるよりましだ」

「ずっと着けることになるかもしれないって、エセル様が」

「だろうな」


 そこで彼は一度だけ、手のひらを見た。


「今のままだと、見えすぎる。人の顔も、景色も、全部、距離が近すぎる」


 言葉は平坦なのに、そこに滲む疲れが深い。


 ユリナはそっと言った。


「じゃあ、眼帯があった方がいい」

「そうだな」

「人間の世界に、少し戻れるなら」


 リンドウは、その言葉で少しだけ目を細めた。


「少し、か」

「全部はすぐ戻らなくていい」


 ユリナは椅子から立ち上がると、今度はゆっくり、彼の前へ立った。


「失った三年も、代償も、なかったことにはできない。私もそれはしない」


 そこで、彼の白い前髪へそっと触れる。本人の許可もなくそんなことをするのは、少し前ならためらっただろう。だが今は、この距離をもう一度結び直したかった。


「でも、ここから先を一緒に作ることはできる」


 リンドウは何も言わなかった。けれど視線は逸らなかった。眼帯のない右目が、きちんとユリナを見ている。


 そのことだけで十分だった。


「次は、消える前に言って」


 ユリナは半分本気で、半分は苦く笑いながら言う。


「どこ行くとか、何するつもりとか、無理なら無理って。ちゃんと聞くから」


 リンドウは少しだけ言葉を探して、それから小さくうなずいた。


「分かった」

「ほんとに?」

「今のは、だいぶ本気で言った」

「そっか」


 その返事に、ユリナはようやく肩の力を抜いた。完全に元通りになったわけではない。そんなことはあり得ない。三年は戻らないし、彼の身体も目も、もう以前のままではない。

 それでも、完全に離れたまま終わる未来ではなくなった。


 テントの外では夜が深くなり始めていた。第二の穴はまだ東の空を裂いたままだ。残る二体の特級も、今日だけで終わる相手ではない。戦争そのものも、きっとこれからさらにひどくなる。


 問題は何一つ片づいていない。

 なのに不思議と、絶望だけではなかった。

 ユリナが椅子へ戻ろうとすると、リンドウがふと手を伸ばした。


「……ユリナ」


 呼び止める声に振り返る。

 彼は少しだけ視線を迷わせて、それから静かに言った。


「さっきの続きで、もう一回」

「さっきの?」

「抱きしめるの」


 その言い方があまりに真面目で、ユリナは一瞬だけ目を丸くした。

 次の瞬間、泣き笑いみたいな顔になる。ほんとうに、この人は変わったのか変わっていないのか分からない。


「……うん」


 ユリナはもう一度、今度は少しやさしく彼を抱きしめた。

 さっきみたいに失う恐怖からではなく、たしかに戻ってきた体温を確かめるために。リンドウも今度は最初から腕を回してくる。少しぎこちなく、それでも前よりずっと自然に。

 彼の胸へ頬を寄せると、鼓動が聞こえた。以前の彼より少し早い。たぶん、体質も循環ももう全部違うのだろう。それでも、生きている音だ。

 リンドウはユリナの背を抱きながら、わずかに目を伏せた。


 三年。

 ユリナの願いを踏みにじったこと。

 自分がもう元の自分ではないこと。

 白い髪も、女の身体も、眼帯なしではまともに人の顔も見られない目も、全部抱えたままでここにいること。


 それらは消えない。

 消えないまま、この腕の中に温かさだけがある。

 嬉しい、と思った。


 そんな資格はないかもしれないと、まだ心のどこかは言う。けれど嬉しいものは嬉しかった。抱きしめられることが。名前を呼ばれることが。帰る場所の輪郭が、完全には失われていなかったことが。


 リンドウは、複雑な感情を胸いっぱいに抱えたまま、ほんの少しだけ笑った。

 その笑顔は、昔よりずっと柔らかくて、少しだけ泣きそうでもあった。

 そして、ちゃんとユリナを抱きしめ返した。


 その夜、東部戦線の臨時医療区画で、白髪の救援者へ正式な抑制眼帯がもう一本用意された。予備だとエセルは言い、今後さらに調整が必要になるとも付け加えた。世界を極小単位で暴いてしまう目は、簡単に飼いならせる代物ではない。


 けれど、眼帯を付けたリンドウが初めて医療テントの外へ出た時、夜風の中の景色は少しだけ優しかった。


 空は裂けたままだ。

 戦争も終わっていない。

 失われた三年も戻らない。


 それでも、隣にはユリナが立っている。


 彼女は赤銅色の髪を夜風に揺らしながら、裂けた東の空を見上げた。


「次も大変だね」

「そうだな」

「でも、今度は一人で消えないで」


 リンドウはその言葉を一度受け止め、少しだけ考えてから答える。


「全部は約束しきれない」

「うん。それでもいい。あなたがいてくれれば、それで」


 ユリナはそう言って、肩が触れるくらいの距離へ立った。

 近い。けれどもう、以前のように届かない背中ではなかった。失われたものがなくなったわけではない。代償も、違和感も、戦争も、全部そのまま残っている。

 それでも、完全には離れずに次へ進める気がした。




 夜の東部戦線に、細い風が吹く。裂けた空の向こうでは、まだ災厄が息をしている。人類はこれからも削られ続けるだろうし、二人が向き合わなければならないものも多い。

 けれど今は、白い髪の青年だった少女と、赤銅色の髪の英雄が、同じ風の中に立っている。

 それだけで、世界は少しだけ、人間のものに戻った気がした。



 六賢人のエセルはそんな二人の様子を見て、静かに退室した。




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