第13話 飛翔
屋敷を出る前に、リンドウは一度だけ書斎へ戻った。
東へ向かうと決めたのに、足がそちらを選んだのは、たぶんまだ現実に追いつききれていなかったからだ。三年眠っていたらしい、と屋敷の荒れ方で察してはいた。けれど察しただけでは、人はまだどこかで自分に都合のいい誤差を信じてしまう。
机の上には、朽ちた紙と砕けた灯石、それに緊急時用の古い通信用端末が転がっていた。半ば死んでいる。けれど魔力をほんの少し流すと、ひび割れた表示板が一瞬だけ息を吹き返した。
ノイズまじりの白い文字列が、現在日付を映す。
儀式を起動した夜から、三年と少し。
その数字を見た瞬間、胸の奥で何かが静かに沈んだ。
「……本当に、三年か」
言葉にすると、やけに軽い。
故郷を失ってからの三年は、ひどく長かった。軍にいた三年も、決して短くなかった。それなのに、今のこの三年は、眠りの底で丸ごと奪われた空白としてしか手元に残っていない。
ユリナはその間、どう生きた。
世界はその間に、どこまで削られた。
考えたところで、ここで立ち尽くしている時間はない。
端末はすぐにまた死んだ。表示板の白が消え、部屋は元の薄暗さへ戻る。リンドウはそれを机に伏せると、外套代わりに巻きつけた布を引き直した。新しい身体は、動くたびに今までと違う場所が揺れる。腰の位置も、胸の重さも、脚の運びも、何もかもが微妙にずれている。
慣れていない。だが嫌悪している暇もなかった。
東の空は、見ているだけで胃が重くなるほど禍々しい。そこにある大戦場の気配は、屋敷の中へ閉じこもっていても無視できなかった。
行く。
それだけを芯にして、リンドウは庭へ出た。
朝なのか昼なのか、空の色だけでは判別しづらい。東方に走る異常な裂け目が、陽の向きまで狂わせているせいだろう。風が吹く。原子眼が、その風をただの一陣としてではなく、温度差と水分量の層、浮遊する花粉と塵と魔力粒子の流れとして見せてくる。
うるさい。
世界が細かすぎる。
だが、もう少しだけ扱える。地下室で魔力漏出を抑えた時より、目に流れ込む情報の「重さ」を仕分けるのが早くなっていた。全部を見ようとしない。進行方向と、足場と、自分の回路。まずはそれだけに絞る。
「飛ぶ、か」
口にした瞬間、自分でも少し間が抜けて聞こえた。
昔の自分なら笑っただろう。魔道補助器もなしに飛ぶなんて、中央の一部特務か六賢人級の芸当だ。しかも今は置換魔術もない。あるのは莫大な魔力と、見えすぎる目と、それを細かく抑え込める感覚だけ。
けれど逆に言えば、それで足りる気がした。
地面を見る。石畳の粒子。草の根。空気の密度。自分の足裏から伝わる荷重。原子眼は、物質の形だけでなく、どこへ力を流せば何が起きるかまで、半ば答えに近い形で提示してくる。
なら、押せる。
足元の空気を圧縮し、魔力で一瞬だけ「踏める硬さ」へ寄せる。術式ではない。詠唱も環もない。純粋に、見えてしまう構造へ力を通すだけだ。
リンドウは軽く膝を沈めた。
次の瞬間、身体が空へ跳ね上がった。
「っ――!」
予想の三倍は飛んだ。
庭を越え、門扉を越え、屋敷の屋根すれすれまで一気に高度が上がる。慌てて魔力を逆噴射のように背後へ流し、どうにか勢いを殺す。殺しきれなかった分だけ、屋根の一部が爆ぜた。朽ちた瓦がばらばらと舞う。
着地――いや、着地ではない。空中で一瞬だけ止まったまま、リンドウは目を見開いた。
「……え」
足の下に地面がない。
それなのに落ちない。
落下しないのではなく、足裏の下へ薄い魔力の面が何枚も展開され、呼吸するみたいに自分を支えている。無意識にそうしたのだと、原子眼が遅れて教えてくる。空気中の粒子と自分の漏出魔力を噛み合わせ、連続する踏み板に変えたのだ。
笑うしかなかった。
強い、という感想より先に、もう笑うしかない無茶苦茶さだった。
「なんだよ、これ」
誰に言うでもない。
けれど、その戸惑いは次の一歩で高揚へ変わる。
足を踏み出す。空を踏む。体重が支えられる。もう一歩。今度は背後へ魔力を吐き出し、前方へ加速する。身体がするりと滑る。地面の上を走る感覚に近いのに、摩擦がない。風の層を突き抜け、郊外の屋敷群が一瞬で後ろへ流れていく。
速い。
速すぎる。
なのに、まだ余裕がある。
リンドウは空中で姿勢を変えた。ここでようやく、新しい身体の違和感がはっきり出る。腰の位置が前より高く感じる。胸が重心を微妙に狂わせる。長い白髪が風を食って、視界の端で暴れた。脚を開く角度も、肩で切る感覚も違う。
「……くそ、邪魔だな」
髪をまとめようと手をやりかけて、そんな余裕はないと悟る。
それでも、違和感は致命的ではなかった。
むしろ原子眼が、筋肉一本ごとの動きや関節の可動域を細かく見せるせいで、慣れていない身体を無理やり操作する真似ができる。女の身体だ、という実感は薄くない。胸も腰も太腿の内側の感覚も、以前とは別物だ。だが、その違いが戦闘不能につながるほどではない。調整できる。いや、強引に調整してしまえる。
空を蹴る。
今度はもう少しうまくできた。踏み板を点ではなく帯にし、背後へ流す魔力の向きも揃える。身体が矢みたいに東へ伸びる。屋根も畑も街道も、一息ごとに縮んで消える。
その速度感に、胃の底から熱がせり上がった。
速い。
前に進める。
戦場へ向かう足が、初めて満ち足りていると思える。
かつては一体の裂爪犬に手間取っていた。中級異獣の尾を前に死を覚悟した。届かない背中を見上げることしかできなかった。その全部が、今この瞬間だけは少し遠い。
強くなった。
なってしまった。
その事実が、恐ろしいほど甘い。
だが、甘さは長く続かなかった。
視界がまた膨れ始めたのだ。
高速で飛ぶほど、原子眼へ流れ込む情報量は増える。地上の家々が流れるだけならまだいい。だが今は空だ。雲粒の構造、気流のねじれ、上空を走る魔力脈、遠くの防衛線が展開している結界の残光、それら全部が速度に応じて一気に押し寄せてくる。
頭の奥が、じりじりと熱い。
「っ……!」
鼻の奥にぬるい感覚が走り、血が一筋垂れた。
脳が焼かれている。
比喩ではなく、本当に処理が追いつかない。見えすぎる。空一面が情報で埋まっていて、そこに東方の大戦場から漏れてくる膨大な魔力反応まで重なるのだから、静かにしていても発狂しそうだった。
リンドウは飛行しながら、必死に目の使い方を絞る。
全部を見るな。遠景の輪郭と、自分の進路と、東の裂け目。それ以外は捨てる。物質の極小構造まで下りない。魔力も、今は大きな流れだけ拾う。
その取捨選択が、ひどく難しい。
原子眼は忠実すぎる。こちらが見たくないものまで平等に見せてくる。石も空気も水分も光の散乱も、人の魔力も異獣の瘴気も、全部同じ重さで脳へ押しつけてくる。便利な目ではない。明らかに呪いの類だ。
それでも。
それでも、この目がなければ見えないものがある。
東方の黒い裂け目。その周囲に広がる戦場の全体像。地上を這う避難民の線。空間そのものが歪められている一角。地盤が狂い、認識が途切れ、空が喰われている三つの特級の座標。
そして、その中央にある炎雷の揺らぎ。
ユリナ。
遠すぎて肉眼では何も見えない距離なのに、その魔力だけは間違えようがない。常人の百倍を軽々超えてなお燃え続ける、赤銅色の熱を連想させる炎と、鋭く走る雷。三年経っても、その癖だけは一目で分かる。
いや、一目で分かってしまうからこそ、嫌なことまで見える。
削れている。
出力が落ちているのではない。命の方を燃やして、無理やり火力へ変えている。炎雷の形が、普通の励起ではなく、もっと内側を擦り切らせるやり方で膨らんでいる。
「おい……」
焦りが胸を掴む。
今のは何だ。自分の見間違いか。いや、原子眼がこういう類の見間違いをするとは思えない。むしろ逆だ。見えなくていいところまで見えてしまうのが、この目の厄介さだ。
なら、本当にそうなのだ。
ユリナは東で、命を削って戦っている。
リンドウは無意識に加速していた。
空気の層が悲鳴を上げる。足場にしている魔力の面が後方へ弾け、街道沿いの林が衝撃波で揺れる。普通の人間なら内臓から千切れている速度だ。なのに今の身体は、ただ強い圧としてそれを受け止めている。皮膚の表面に薄く魔力膜が沿い、風圧と摩擦熱を散らしていた。
人間の枠には、もう戻れない。
その認識が、不意に胸へ落ちる。
空を踏んで飛ぶ。
脳が焼けるほど世界を見抜く。
身体の内側に海みたいな魔力を抱え、それを細工物のように制御する。
どこをどう見ても、以前の自分の延長にはない。
それでも嫌悪は、思ったほど強くなかった。
違和感はある。女の身体であることも、声も、髪も、鏡に映る知らない顔も、まだ一つも馴染まない。原子眼は呪いじみているし、置換魔術を失った喪失も消えていない。けれど、それら全部を差し引いても、今の自分が東へ届くなら、それでいいと思ってしまう。
そこに少しだけ、自分でぞっとした。
怪物になることへ、もう半ば納得している。
異獣に届くためなら。
その思考の形そのものが、もう以前の人間らしさから外れているのかもしれない。
地上を見下ろす。
街道には全軍非常招集の痕跡がいくつもあった。軍用列車が東へ走り、補給車列が無理やり脇道を開き、避難民を乗せた荷車が逆向きに流れている。ところどころの町は、すでに半分も人がいない。防壁沿いに新しい砲座が増え、古い農地は簡易宿営地へ変わっていた。
三年。
その時間は、自分だけじゃなく世界の方も確実に変えたのだと、今さらながら思い知る。
北の空には、はるか遠くに巨大な結界の光が幾重にも重なっていた。六賢人の誰かが張っている広域術式だろう。そんなものが常時見える時点で、戦況が楽なわけがない。人類全体に余裕がなくなっているのが、原子眼越しだと嫌でも分かる。
東の裂け目が、さらに大きくなる。
いや、距離が縮んだのだ。いつの間にか、空の歪みが肉眼でも不快なほどはっきり見える位置まで来ていた。
その頃には、原子眼の苦痛より高揚の方が少し勝ち始めていた。
痛い。うるさい。見えすぎる。けれど、それでも飛べる。戦える。届く。
その実感は、熱だった。
昔の自分は、足りなさばかり噛み締めていた。今は違う。強すぎる情報と魔力の扱いに苦しみながらも、それを乗りこなそうとしている自分がいる。前へ出れば出るほど、身体の方も調整を覚えていく。空気の層へ足を置く角度、魔力の噴射量、重心の逃がし方。全部が高速で最適化されていく。
戦うための器だ。
その認識に、ぞくりとした歓喜が混じる。
たとえ代償だらけでも、この力は本物だ。
そして本物である以上、使わない理由がない。
「……待ってろ」
東の空へ向けて、自然とそう零れた。
誰に対してか、もう曖昧じゃない。
その直後、原子眼が戦場中心の像を一段深く拾った。
炎雷の揺らぎが、ひどく近い位置まで落ちている。高所からではない。地表近く。しかも、空間歪曲の塊がまっすぐその一点へ収束している。槍のように折り畳まれた特級の輪郭。その周囲を覆う黒混じりの霧。背後には細い避難列。
死地だ。
ユリナが、そこに立っている。
しかももう、一撃受ければ終わる距離まで詰められている。
「――ッ!」
思考より先に身体が動いた。
リンドウは全身の魔力制御を一段階解いた。皮膚の内側へ抑え込んでいた圧が、推進のためだけに後方へ解放される。空気が裂ける。視界の端で地上が一本の線に潰れる。
速いなんてものじゃない。
もはや飛行というより、魔力そのものを爆発的に噴いて空を引きちぎっている感覚だった。
原子眼が悲鳴を上げる。脳の奥が焼ける。けれど今はそれすらどうでもいい。痛みより焦りが勝つ。東の中心で、炎雷の揺らぎがさらに細る。
間に合え。
それ以外、何も考えられなかった。




