第三章:穿つ酸と、滴る福音
どれほどの時間が経っただろうか。
暗闇のなかで、蓮はただひたすらに岩壁を削り続けていた。
網の目のように細かく入り組んだ岩の亀裂。その隙間へ強引に肉体の一端をねじ込み、大百足を溶かした「腐食性の酸」をじわり、じわりと浸み出させていく。
シュワ、シュワシュワ……。
石灰質の岩肌が酸と反応し、微細な気泡を上げて砂のように崩落していく。手応えはある。だが、それは文字通り、自らの命を削るような過酷な作業だった。
(熱い……いや、これは渇きか……?)
脳がないはずの頭のなかが、じりじりと灼けるように痛む。
酸を分泌するという行為は、体内の貴重な水分とエネルギーを限界まで絞り出すことと同義だった。岩を一ミリ溶かすたびに、蓮の体積は目に見えて縮んでいく。大百足の肉から得た有機成分が、水分を伴わない乾いた燃料として消費され、蓮のなかに酷い粘り気と重苦しさを残していく。
もし、この壁の向こうに水脈がなかったら。
もし、水に辿り着く前に自分の身体が完全に干からびてしまったら。
人間だった頃の記憶が、不意に脳裏をよぎる。深夜のオフィス、デスクに突っ伏したまま動けなくなったあの孤独な最期。誰にも気づかれず、ただ消えていく恐怖。
いま、この冷たい土の底で、自分はまた同じように誰にも知られず、ただの乾いた肉の塊になって終わるのだろうか。
(……いいや、焦るな。まだ、絞り出せるはずだ)
蓮は雑念を強引に振り払った。いまの自分には、絶望に浸るための手足も、涙を流すための目もない。あるのは、目の前の岩壁と、自らを動かす生存本能だけだ。
ずむ、と縮んだ身体に力を込め、残されたわずかなエネルギーを奥へと押し込む。
変質した腐食酸は、岩の割れ目を確実に、しかし遅々とした速度で侵食していった。崩れた岩の破片を自らの体表で巻き込み、後ろへと押し流す。視覚のない世界での、泥臭く、孤独な穴掘り作業が続く。
どれほどの水分とエネルギーを失ったか、もう計算すらできなかった。蓮の肉体は、大百足を喰らう前の半分ほどの大きさにまで縮み、表面の硬質化した外皮には、水分不足による細かいしわが寄り始めていた。限界だった。活動停止の境界線が、すぐそこまで迫っている。
そのとき——。
パキリ、と硬い音が、新しく得た振動知覚を通じて蓮の全神経に突き刺さった。
岩の強度が、劇的に変化したのだ。酸によって薄皮一枚残すところまで削られた岩壁が、向こう側の水圧に耐えかねて、ついに小さく爆ぜた。
直後。
冷徹な暗闇の世界に、激しい「奔流」が踊り出た。
岩の割れ目から吹き出した冷水は、酸によってすでに限界まで脆くなっていた岩壁を、内側からの凄まじい水圧で一気に押し流した。ガラガラと音を立てて岩盤が決壊し、網の目だった亀裂が、瞬く間に大きな「決壊口」へと姿を変える。
崩落した岩の破片が、激しい水流とともに蓮へと襲いかかった。だが、今の蓮には大百足の成分を吸収して得た「簡単には裂けない弾力」がある。骨のない流動体の肉体は、迫り来る岩の衝撃をぶよんと柔軟に受け流し、破片を自らの脇へと逃がしていった。
亀裂の奥にねじ込んでいた肉体の先端が弾き飛ばされ、蓮の本体は、自分がいた手前の通路へと押し戻される。そこへ、決壊口から溢れ出た大量の地底水が、縮みきった蓮の肉体を正面から包み込んだ。それは、ただの水ではない。長年、地底の岩盤を巡り、豊富なミネラルを蓄えた純粋な地底水だった。
(あ—っ!)
体表の化学センサーが、歓喜の悲鳴を上げる。
蓮は本能のままに、決壊口から溢れ出る水の中へと自らの身体を委ねた。
渇ききっていたスライムの肉体は、まるで砂漠に溢れた大雨のように、凄まじい勢いで水分を吸収し始めた。浸透圧によって、冷たい水が体表の細胞一つ一つに行き渡り、内側から細胞を潤していく。
皺の寄っていた外皮が、みるみるうちに張りと弾力を取り戻していく。それだけではない。大百足を消化して得たものの、水が足りずに未消化のまま体内に滞留していた濃縮有機成分が、水分と結びついたことで一気に全身へと巡り始めた。
通路の空間を埋め尽くすように、じわじわと身体が拡張していく。
失われた質量が回復し、以前よりもさらに一回り、ふた回り大きな、瑞々しくも強固な粘体へと再構築されていく。
(満たされる……生き返る……!)
極限の飢餓と渇きから解放された安堵感が、蓮の意識を深く包み込む。
水流のなかに身をゆだねながら、蓮は自分が「最悪の窮地」を自らの力で突破したことを確信していた。
しばらくして、水分を限界まで吸収し、本来の滑らかな輝きを取り戻した蓮は、水脈の周囲の環境へと意識を向けた。
新しく得た振動知覚が、水の跳ね返る音や、水流が削り取った周囲の空間の広がりを克明に伝えてくる。どうやらこの崩れ落ちた決壊口の向こうは、先ほどまでいた狭苦しい通路とは異なり、かなり広大な「地下空洞」へと繋がっているようだった。
環境の変化に伴い、体表の化学センサーが捉える空気の成分も変わり始める。
その潤った空間には、苔とは異なる、別の「生命の気配」が複数、静かに息づいていた。
水を得て、真の姿を取り戻した最弱のスライム。
蓮は、新しく開けた暗黒の空洞へ向けて、確実にその身を滑らせ、次なる一歩を踏み出した。




