第四章:群れる悪意と、未知の熱源
新しく開けた「地下空洞」は、これまでの冷たく狭苦しい一本道とは何もかもが違っていた。
頭上はるか高くへと闇が広がる、巨大なドーム状の空間。その開けた足元には、決壊口から流れ出た水が作った巨大な地底湖が広がっており、水面からは絶え間なくひんやりとした霧が立ち上っている。だが、何よりも蓮の知覚を揺さぶったのは、この空間に満ちている「生命の濃厚な気配」だった。
(……動いている。それも、一つや二つじゃない)
新しく得た振動知覚が、周囲の岩肌や水面をかすめる微細な震えを克明に捉える。
カサカサ、と硬い脚が岩を削る音。ピチャリ、と水面が不自然に跳ねる不規則なリズム。大百足のような捕食者が、この潤った広大な空間には無数に潜んでいることを本能が理解した。
だが、今の蓮は「最悪の窮地」を脱したばかりの、全快状態のスライムだ。潤いと弾力を取り戻し、一回り大きく張りのある肉体となった蓮は、以前のような乾いた焦燥感に支配されてはいない。
(まずは状況を——)
蓮が静かに移動を開始しようとした、その瞬間だった。
チ、チ、チ、チチチチ!
周囲の闇から、突如として無数の不規則な振動が蓮を目がけて収束してきた。
大百足のような巨大な波動ではない。もっと小さく、しかし圧倒的な「数」の暴力。
新しく得た化学センサーが、強烈な酸敗臭と、微量の毒素の匂いを検知する。闇の奥から這い出してきたのは、人間の拳ほどもある、巨大な地底の「肉食蟻」の群れだった。一匹一匹は弱いが、百を超える軍勢が、新しく現れた瑞々しい粘体を貪り食おうと、一斉に牙を剥いて殺到してきたのだ。
カチ、カチカチ!
容赦のない鋭い顎が、蓮の体表を噛みちぎろうと一斉に突き刺さる。
(くっ……!)
だが、今の蓮の体表は、ただの柔らかいゼリーではない。大百足のキチン質を模倣し、内側からの水分で極限まで張りを高めた「強固な外皮」だ。肉食蟻の細い牙は、蓮の粘体に深く突き刺さる前に、強靭なゴムに弾かれるようにして次々と滑り落ちていく。
(噛みきれない? ——なら、今度はこっちの番だ!)
蓮は逃げなかった。むしろ、群がる蟻たちの上から自らの重みを利用してのしかかるように、あえてその身を低く、広く押し潰した。
バシャリ、と重い粘体が蟻の群れを強引に圧し包む。捉えられた蟻たちは、逃げ場を失って蓮の身体の下で激しくもがき、細い脚をバタつかせた。だが、骨のない流動体の肉体は彼らの全方位を隙間なく密閉し、その圧倒的な自重で動きを封じ込めていく。
じわり、と全身の体表から滲み出させたのは、あの岩盤をも決壊させた「腐食性の酸」だ。
シュウウウウウ!
物理的な窒息と圧倒的な圧力に苦しむ蟻たちに、容赦のない化学反応が追い打ちをかける。蓮の身体に触れていた数十匹の蟻が、一瞬にして激しい気泡を上げ、その強固な外殻を外側からじわじわとドロドロに溶かされ始めた。有機物が急速に分解される不快な悪臭が空洞に立ち込める。
チ、チチ、チチチ!
仲間が悲鳴を上げる間もなく溶けていく様を見て、肉食蟻の群れに明確な「恐慌」が走った。捕食者としての立場は、一瞬にして逆転したのだ。
蓮は攻撃の手を緩めない。溶けた蟻の成分を、体表の細胞から貪欲に吸収していく。大百足のときのような「殻を噛み砕くための強固な成分」ではない。肉食蟻の肉体から得られたのは、彼らが体内で合成していた「未知の毒素(蟻酸)」の成分と、効率的な集団行動を司るシンプルな神経物質の残滓だった。
生存本能が命じるままにそれらを取り込み、驚異的な速度で自らの肉体へと適応させていく。自らの酸の性質をさらに凶悪な「毒素混じりの腐食酸」へとアップデートしていく。
数分後。
あれほど執拗だった蟻の群れは、半数以上が蓮の粘体のなかへと消え、生き残った個体は蜘蛛の子を散らすように闇の奥へと逃げ去っていった。
(ふぅ……生き延びた、のか。いや、圧倒できたな)
かつて最弱だったスライムは、地底の生態系において、確実に「脅威」へと進化しつつあった。
肉食蟻の残骸を完全に同化させ、さらに一回り強固になった肉体を休ませるため、蓮は地底湖のほとりにある岩の窪みへと身を潜めた。
ようやく訪れた、静寂。
水分も、栄養も満ち足りた今、蓮のなかで、人間だった頃の理性がゆっくりと首をもたげてきた。
(……落ち着いて、考えよう)
薄暗い水の底で、蓮はこれまでに起きた現実を静かに振り返り始める。
ブラック企業での孤独な過労死。目覚めたときの、視覚も聴覚もない、冷たい土のなかの感覚。自分が「スライム」という骨も肉もない異形の存在に生まれ変わってしまったという冷徹な事実。
最初は絶望する余裕すらなかった。迫り来る大百足の恐怖。全身を灼くような乾き。自らの命を削るような岩盤の削岩作業。ただ「生きたい」という本能だけで、ここまで泥臭く、必死に這いつくばってきた。
だが、振り返ってみれば、自分の身体には奇妙な「法則」がある。
喰らったものの性質を、自分の肉体に「模倣・定着」できること(大百足の硬質化、音を捉える振動知覚)。
自らの分泌物(酸)を、経験によって「変質・強化」できること(ただの消化液から、腐食酸、精度を高めた毒素酸へ)。
(これは……ゲームで言うところの『吸収』や『進化』のようなものか?)
もしそうだとしたら、この過酷な地下世界は、絶望の墓場であると同時に、自分がどこまでも強くなれる「実験場」なのかもしれない。人間だった頃、誰の役にも立てずにすり潰されて死んだ自分が、いま、この世界の底で、自らの力だけで確かに生きている。その事実に、奇妙な高揚感すら覚えていた。
よし、と蓮が次なる探索へ思考を切り替えようとした、その時。
——ゴォウ……。
先ほどまでは、無数の蟻たちの足音という「雑音」にかき消されていたのだろうか。あるいは、今この瞬間に、その眠りから目覚めて拍動を強めたのか。
新しく得た振動知覚が、静まり返った地底湖の「さらに奥」から伝わってくる、奇妙な波動を捉えた。
それは、生物の足音ではない。
もっと巨大で、定期的で、速度を持った……圧倒的に「熱い」波動。
冷たい地底の世界にあって、そこだけがまるで生き物の心臓のように、ドク、ドクと未知の熱源を脈打たせていた。
(熱……? この先に、何があるんだ?)
水を得て、牙を得たスライム。
蓮は、闇の奥で拍動を続ける未知の熱源へ向けて、その瑞々しい身体を再び滑らせ始めた。




