第二章:捕食の代償と水脈の兆し
大百足を完全に消化し終えるまでに、丸一日以上の時間を要した。
強固なキチン質を内側から溶かしきる行為は、蓮にとって気の遠くなるようなエネルギーの消費だった。だが、すべてを吸収したとき、彼の肉体には明確な変化が訪れていた。
まず、酸の性質が変化した。単なる消化液から、有機物を急速に分解する「腐食性」の強い成分へと変質している。さらに、大百足の成分を取り込んだことで粘体の表面が僅かに硬質化し、簡単には裂けない弾力を得た。
何より大きかったのは、周囲の「空気の微細な震え」を鮮明に感知できるようになったことだ。大百足の神経系を模倣したのか、音そのものは聞こえずとも、空間の広がりや岩肌の凹凸が、かすかに振動の輪郭となって頭の中に描き出されていた。
(生き延びた。だが……身体が、軽いというか、縮んでいる?)
自らの内側に意識を向けた蓮は、すぐに冷徹な現実に突き当たった。
激闘の代償はあまりにも重かった。大百足の強固な殻を分解するため、蓮は体内の酸を極限まで絞り出した。化学反応のために大量の水分が消費され、さらに大百足の肉体に含まれていた水分も、酸と混ざり合って中和され、不純物として体外へ排泄されてしまっていた。
人間で言うなら、塩辛い干物を喉の渇きに耐えながら貪り食ったような状態。大百足から得られたのは、外皮を強化するための濃縮された有機成分だけで、純粋な水分はむしろ徹底的に奪われていた。現在の蓮は、渇きによって限界まで縮んだゴム毬のように、内側から酷い緊迫感に苛まれていた。
新しく硬質化した外皮は、身を守る盾になる反面、肉体を伸縮させる際に強い「抵抗」を生み出す。ただでさえ鈍い動きが、水分不足と相まってさらに重くなっていた。
(水だ。水分を補給しないと、次の敵に出会う前に干からびて動けなくなる)
都合よく目の前に泉が現れるはずもない。蓮は新しく得た振動知覚を限界まで研ぎ澄ませた。周囲の岩盤から伝わってくる、無数の不規則な微振動。その中から、最も安定的で、かつ規則正しいリズムを持つ波動を探す。
……チ、……チ、……チ。
左前方、およそ十メートルほどの方向から、かすかに水分が弾けるような震えを感知した。水脈がある。
十メートルという距離は、数センチ進むのにも酷いエネルギーを消費するいまの蓮にとっては、世界の果てほどに遠い。だが、引き返す選択肢など最初からなかった。
蓮は再び静かに、しかし確実にその身を滑らせ、暗闇の奥へと進み始めた。
ずむり。ずむり。
粘体を強引に引き絞るようにして前進する。硬くなった体表が岩の突起に擦れ、鈍い摩擦の感触がダイレクトに伝わってくる。ほんの数十センチ進むだけで、体内の貴重な水分がさらに目減りしていくのが判った。焦燥感が蓮の思考を支配していく。
進み続けること数時間。
前方の空気の湿度が、肌を刺すように跳ね上がった。体表の化学センサーが、求めていた純粋な水分の匂いを捉える。
(近い。だが……遮られているのか?)
行く手を阻んだのは、一つの大きな岩の亀裂だった。
振動の主はこの割れ目の奥にある。しかし、その亀裂は網の目のように細かく、複雑に入り組んでいた。大百足のような細長い虫なら容易に行き来できても、球体に近い塊である蓮の体積では、肉体をどれほど引き延ばしても途中で引っかかり、奥まで進入することは不可能な構造だった。
(引き返す体力は残ってない。ここでやるしかない)
蓮は入り組んだ割れ目の隙間に、自らの肉体の最前部を押し当てた。
そして、大百足を溶かしたあの腐食性の酸を、岩の隙間に向けてじわりと注入し始めた。石灰質の岩肌が、鋭い気泡を上げながら僅かずつ崩落していく。
肉体を削るようなエネルギーの消費。喉を焼くような渇き。
都合よく岩が崩れてくれるわけではない。蓮は自身の命を削りながら、暗闇の中でただひたすらに岩を溶かし、文字通り「自らの道」を抉り開けようとしていた。




