第一章:微小なる生存競争
耳を澄ませても、静寂が鼓膜の代わりに粘体を震わせるだけだった。視覚がない世界で、蓮にあるのはただ、肉体を伸縮させ、路上の有機物を溶かして取り込むという、極めて原始的な「摂食」の機能だけ。
世界は「触覚」と、かすかに伝わる「振動」、そして体表で感知する「臭気のようなものの濃度」だけで構成されていた。
感知できた情報による周囲の環境
地形:ゴツゴツとした岩肌。閉ざされた洞窟の一角。
湿度:非常に高い。近くに水滴が滴る音が響いている。
捕食対象:壁面にへばりつく、微かに発熱している苔。
生き延びるために、蓮は這った。
壁面に触れると、ざらりとした苔の感触が伝わる。体の一部をゆっくりと伸ばして苔を覆うと、内包する強い酸性の分泌液がじわじわとそれを溶かしていく。ピリピリとした微小なエネルギーが体内に流れ込み、僅かに肉体の体積が増す。
しかし、この世界はスライムにとっても決して優しくはなかった。
「チチチチチッ……!」
突如、濡れた岩肌を無数の硬い爪が引っ掻くような、カサカサとした不快な振動が伝ってきた。
俊足の獣などとは比べるべくもない、虫特有の小刻みな這行スピード。しかし、数センチ動くのにも骨が折れる今の蓮にとっては、それすらも回避不能な速度だった。
察知したときには、もう肉薄されていた。
「ぶちり」と、蓮の体表の右後方が肉ごと引き千切られるような感覚が走る。
激痛だった。脳がないはずなのに、神経そのものを直接炙られるような熱い痛みが全身を駆け抜ける。
蓮の全方位への知覚が乱れた。伝わってくるのは、親指ほどの太さ、長さは蓮の倍近くある大百足の生々しい輪郭だ。何十対もの鋭い節足が、蓮の粘り気のある肉体をガチガチと掴み、肉を引き裂いている。
(っ、離れろ……!)
逃げようと力を込めるが、泥のようにずむりと動くだけの肉体では、カサカサと位置を変える捕食者から距離を取ることなど不可能だった。大百足は蓮の鈍さをあざ笑うように、その長い体を蓮の球体に近い肉体へと巻き付け、さらに深く鋭い顎を突き立ててくる。
「じゅ、じゅう……」
蓮の傷口から、自身の命そのものである水分と消化液が混ざり合った液体が滴り落ちる。このまま肉を細切れにされれば、待っているのは文字通りの「霧散」だ。恐怖で意識が弾けそうになる。
(落ち着け、焦るな、肉を絞れ……!)
蓮は前進するのを諦めた。代わりに、傷口から入ってきた大百足の足、放置すれば致命傷になる頭部を逃がさないよう、自らの意思で肉体を「内側へ」と巻き込むように歪ませた。
痛みに拒絶反応を起こした肉体が、グググと凝縮していく。それは大百足の体を締め付ける緊縛の罠へと変わった。
大百足が異変を察知し、身をよじって引き抜こうとする。しかし、蓮の肉体はただの泥ではない。粘性と弾力を持ったゼリー状の塊だ。一度深く食い込んだ大百足の脚は、蓮が自ら肉を収縮させたことで、強力な接着剤に絡みつかれたように抜けなくなった。
動きを止めた大百足の頭部へ向かって、蓮は残りの肉体の質量をすべて傾けた。
上部から、のしかかるように、自重をかけて「どろり」と覆い被さる。
ギチギチギチギチ!
完全にスライムの体内に閉じ込められた大百足が、狂ったように暴れ始めた。蓮の体内を、内側から鋭い顎で肉を抉り、脚で引き裂こうとする。内臓を内側からカミソリで捏ね繰り回されるような、凄絶な痛みが蓮を襲う。意識が暗転しかける。
(溶けろ……溶けろォ!!)
蓮は体内のリミッターを外すように、苔を溶かしていた酸性の分泌液を、大百足が暴れる中心部へ向かって大量に、かつ高濃度で絞り出した。
じょわじょわじょわ、と蓮の体内で不気味な泡立ちと熱が発生する。
大百足の頑丈な外殻が、蓮の酸によってじわじわと侵食され、融解していく。大百足の動きが、一瞬、ビクンと大きく跳ね上がった。最大の苦悶。しかし蓮は緩めない。さらに肉を密着させ、圧迫し、酸を送り込み続ける。
やがて、体内で暴れる振動は、細かな痙攣へと変わっていった。
ギチギチという抵抗の音が消え、ただ「じゅぶじゅぶ」と、硬い殻が崩れ、肉がドロドロに融解していく生々しい音だけが、蓮の閉ざされた世界に響いていた。




