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最弱スライム、洞窟の底から這い上がる  作者: 古屋桜


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第十二章:境界線の外

結晶樹の根元から滑り出し、下流へと流れ出す水の勢いに沿って、緩やかな下り傾斜をなぞるように進んでいく。

水源から少し外れた岩棚へと這い上がり、聖域の境界へと近づくにつれて、周囲を満たしていた濃密で清浄な空気の質が、徐々に変わっていくのを感じた。

(……ここが、境界線か)

明確な壁があるわけではない。しかし、ある地点を境に、これまで蓮の粘体を優しく包み込んでいた心地よい魔力の波が、突なる荒々しく、排他的な圧力となって押し寄せてきた。

通常の生物であれば、この境界を越えた瞬間に、外側からの奔流と内側の魔力循環が激突し、脳を焼かれるような激痛に見舞われるのだろう。

だが、拳大にまで体積を凝縮し、周囲の魔力濃度と完全に同調している蓮は、その壁を、水の中に溶け込むように滑らかにすり抜けた。

一歩、聖域の外へと踏み出す。

その途端、知覚を揺るがしたのは、地下世界特有の生々しく、暴力的な音と気配だった。

(静寂は、あの中だけだったわけだ。……いや、こいつは想像以上に狂っているな)

目に見える光景は、これまでの階層とは一線を画していた。

薄暗い岩肌の至る所に、不規則な形で結晶化した魔力の鉱石が群生している。それは火口付近で見られたような熱を帯びたものではなく、氷のように鋭く、青白く発光する魔力結晶だ。

だが、奇妙なのはその結晶の生え方だった。

ただ地面から生えているのではない。巨大な百足のような魔獣の死骸、あるいは岩の隙間に挟まったまま息絶えた獣の肉体そのものが結晶化し、そこから新たな鉱石が芽吹くようにして群生しているのだ。

(結晶樹の胞子を含んだ水が下流へ流れるなら、その大気中にも微細な結晶の種が漂っているはず。つまりこの階層の生物は、生きているだけで内側から結晶化していくリスクに晒されているのか)

その推測を裏付けるように、前方の岩陰からガサガサと不快な這行音が響いた。

蓮は周囲の青白い岩肌の色に完全に同調し、気配を無に近づけて観察に徹する。

現れたのは、体長二メートルはある巨大な多脚の甲殻類だった。岩の表面にへばりつき、結晶化した鉱石をその強靭な顎でバリバリと噛み砕いて貪り食っている。

だが、その魔獣の背中からは、すでに自身の肉体を突き破るようにして、いくつかの青白い結晶が突き出ていた。結晶は寄生植物のように魔獣の肉のエネルギーを吸い上げ、ゆっくりと成長している。

(喰えば喰うほど、内側からの結晶化が加速する。しかし、この高濃度環境で生き延びるためには、結晶から魔力を摂取し続けなければ細胞が維持できない……文字通りの、緩やかな自殺行為だな)

これが、この階層のルールなのだ。

結晶樹が作り出す圧倒的な魔力障壁の外にいる魔獣どもは、聖域に入れぬまま、周囲に溢れる高密度の魔力に蝕まれ、狂い、共食いと自己結晶化の無限ループの中に囚われている。

その時、貪り食う音に混じって、上空から鋭い羽音が響いた。

結晶を喰らっていた甲殻魔獣が、怯えたように身を縮める。

岩天井の闇から音もなく急降下してきたのは、蝙蝠に似た、だが翼膜がすべてガラスのように鋭い結晶で構成された飛行魔獣だった。

キィィィ、と鼓膜を震わせる超音波のような鳴き声と共に、飛行魔獣が甲殻魔獣の背の結晶へと襲いかかる。

狙いは肉ではない。標的の肉体から生え出た、最も純度の高い結晶化された部位だ。

甲殻魔獣も必死で抵抗し、太い脚で払い除けようとするが、飛行魔獣は執拗にその結合部を鋭い爪で引き剥がし、生きたまま結晶を強奪していく。もぎ取られた跡からは、血の代わりに凝固した青い液体が滴り落ち、それさえも瞬時に岩肌で結晶化していった。

(生存のための、奪い合い……。肉を喰らうより、すでに純化した他者の結晶を奪う方が効率がいいということか)

地獄絵図のような光景だったが、蓮の思考は極めて冷徹だった。

恐れる必要はない。隠密に徹している今の自分を、狂乱の中にいる彼らが視認することはできない。そして何より、今の蓮には、この弱肉強食のサイクルに入り込まずとも生き延びられる聖域という絶対的な安息地がある。

(あの二匹が争っている隙に、この階層の地形をさらに頭に叩き込んでおく。そして――)

蓮は、自身の粘体の一部をそっと動かした。

体積を極限まで凝縮した状態から、境界線の外側の魔力を感知し、その流れの癖を読む。

(いつでもあの中に逃げ込めて、外の結晶化した魔獣を都合よく狩れるポジション。そこをいくつかマークしておくべきだな)

捕食される側から、完全に観察する側へ。

過酷な階層の不条理な生態系を冷ややかに見下ろしながら、琥珀色のスライムは、誰にも気づかれることなく、より有利な狩り場を求めて闇の隙間を這い下っていった。

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