第十三章:静かなる漁夫
闇の隙間に身を潜め、蓮は境界線の外側の地形と魔力の流れを冷徹に見定め続けていた。
あの飛行魔獣と甲殻魔獣の死闘は、すでに決着がついていた。
背中の純度の高い結晶をもぎ取られ、致命傷を負った甲殻魔獣は、その場に力なく頽れ、もはや動かない。飛行魔獣は、奪い取った結晶を貪り食うと、それ以上の追撃をすることなく、満ち足りたように再び天井の闇へと飛び去っていった。
(肉には目もくれず、結晶だけを求めて去ったか。肉体そのものを維持する魔力さえあれば、もはや生身の肉は彼らにとって主食ではないということだな)
後に残されたのは、結晶化が半ばまで進み、完全に沈黙した甲殻魔獣の巨大な亡骸だ。
その傷口から滴り落ちる青い体液は、大気中に晒されてすぐに固まり、奇妙なガラス細工のような塊へと変貌していく。
蓮は、周囲の魔力の揺らぎを慎重に探った。
捕食者が去った直後。そして、新たな略奪者がこの死臭と結晶の気配を嗅ぎつけてやってくるまでの、極めて短い空白の時間。
(いまが、一番安全な収穫期だ)
琥珀色の粘体を細く引き伸ばし、岩肌の死角から滑り出る。
音がまったくしない。気配を完璧に同調させた蓮は、音もなく、まるで影そのものが這うようにして甲殻魔獣の亡骸へと近づいていった。
亡骸の前にたどり着き、まずはその硬質な甲殻をじっくりと観察する。
この甲殻魔獣の肉は、大気中や結晶から取り込まれた高濃度の魔力に蝕まれ、組織の大部分がすでに半結晶化を起こしている。生身 of 肉と、青白い鉱石が混ざり合った、歪な物質だ。
(……これを、俺の粘性細胞に取り込んだらどうなる?)
これまでの蓮であれば、未知の魔力を含む未知の生物を取り込むことには慎重だった。毒性や、属性因子の衝突による自己崩壊のリスクがあったからだ。
だが、今の蓮には結晶樹の聖域がある。
もし取り込んだ魔力が体内で暴走を始めても、あの絶対的な調律の場に戻り、魔力水に浸かって肉体を休眠させれば、過負荷をすべて中和し、自身の細胞へと馴染ませることができる。
(リスクを最小限に抑えられる担保がある。なら、試さない手はない)
蓮は亡骸の傷口、露出した半結晶化の筋肉組織に向けて、自身の粘体から細い触手を伸ばした。
そっと触れる。
かつて火口で岩鎌蟷螂を取り込んだときのような、激しい拒絶反応は起こらない。ただ、強固に結びついた緻密な魔力の構造が、触手を通じて核へと伝ってくる。
(極めて硬く、物質を固定化しようとする魔力……。悪くないな)
蓮は触手を太く広げ、甲殻魔獣の体液と、その奥に残る硬質な筋肉組織をじわじわと溶解し、吸い上げていった。
スライム特有の消化液が、半結晶化した生身の肉の繊維を音もなく分解していく。
取り込むにつれて、琥珀色の肉体の内側で、変化が始まった。
取り込んだばかりの強固な結晶の因子が、蓮の琥珀色の粘性組織の中で融合を始める。
(やはり、体内で結晶の因子が、全体に馴染んだ熱の循環と干渉し合うな……。だが、想定の範囲内だ)
すでに粘体全体へと溶け込んでいる爆発的な熱の力。そこへ、肉体を強固に固定化しようとする結晶の力が侵入したことで、一時的に体が強ばりかける。
だが、蓮は流動体としての柔軟な制御でその干渉をいなし、新たな結晶の因子を特定の外殻部分へと押し流し、局所的に定着させていく。全身が固まるのを防ぎつつ、必要な部位だけを硬質化させるためだ。
(熱による爆発的な推進力と、物理攻撃を防ぐ強固な結晶の盾。この二つの特性を使い分けられるようになれば、戦術の幅はさらに広がる)
静かに、しかし確実に、強壮な甲殻魔獣の因子を己の肉体の底へと沈めていく。
ふと、背後の闇の奥から、複数の乾いた足音が響いた。この結晶の臭いを嗅ぎつけた、別の捕食者たちの気配だ。
蓮は亡骸の約半分、最も結晶化が進んで吸い上げやすい部位を貪り尽くすと、それ以上の欲は張らず、即座に身を引いた。
周囲の影へと溶け込むように姿を消し、再び境界線の向こう、あの絶対的な安息地である結晶樹の聖域へと向かって、静かに這い上っていく。
手に入れた新たな糧を、完全に己の力へ調律するために。




