第39話 氷と薔薇と、黒の嫉妬
白鳳館の朝は、たいてい人を落ち着かせる。
湯気の残り香がある。
障子越しの光がやわらかい。
遠くで誰かが廊下を歩く足音も、学園のチャイムみたいに人を急かさない。
だから本来なら、昨夜みたいな話をした翌朝こそ、少しは頭が整理されるはずだった。
――逢坂黒羽に、「あなたも転生者でしょう」と言われた夜の翌朝。
整理なんて、できるわけがない。
「……最悪だな」
布団を上げながら小さく呟く。
黒羽は危ない。
かなり危ない。
中二病だとか保健室の魔女だとか、そういう表面だけではもう処理しきれないところまで来ている。
しかももっと厄介なのは、あいつが白鳳館の空気そのものへは妙に馴染んでしまっていることだった。
宿を茶化さない。
雑に踏みにじらない。
でも、俺にだけは異様に近い。
あれが一番困る。
「起きていますか」
襖の向こうから、聞き慣れた静かな声がした。
凛音だ。
「起きてる」
「入っても?」
「待て」
またその返しをしてしまってから、自分で少しだけ嫌になる。
何なんだよ、ほんとに。
昨夜のせいで、いろんなことへ変に意識が向きすぎている。
「……どうぞ」
襖が開く。
凛音は館内着姿だった。白鳳館の落ち着いた色味が、不思議なくらい似合う。髪も整っているが、目元だけ少し眠そうだ。たぶん昨夜、俺の部屋の前へ来たあとも色々考えていたのだろう。
「顔、ひどいです」
第一声がそれだった。
「お前さあ」
俺は苦笑する。
「毎回ほんとにそこから入るよな」
「だって、かなりひどいので」
「便利ワードまで乗せるな」
だが否定はできない。
昨夜のやり取りは、さすがに重かった。
黒羽の“ようやく見つけた”も、
“今度は絶対に見失いません”も、
正直かなり心臓に悪い。
しかも、それを浴衣姿で、白鳳館の夜に、客室前でやるなという話だ。
「……逢坂さんのこと、考えていましたね」
凛音が静かに言う。
「まあな」
「かなり」
「そこ、今日強めだな」
「必要なので」
必要なので、が最近万能すぎる。
そこで、襖の向こうからもう一人分の足音がした。
「お二人とも、起きていますわね?」
朱麗だった。
今日は少しだけ声が硬い。
たぶん機嫌が悪いわけではない。だが昨夜、黒羽が浴衣姿で俺の部屋の前に立っていた光景を思い出せば、穏やかではいられないのも分かる。
「どうぞ」
俺が言うと、朱麗が入ってくる。
やはりこちらも館内着姿だが、整い方が妙に“白鳳館側の人間”だった。似合うとかそういう以前に、空気へ合わせるのがうまい。
「おはようございますわ」
朱麗は一度俺を見る。
次に凛音を見る。
それから言った。
「……本日は、昨日より空気が重いですわね」
「第三章だからな」
「そういうメタみたいな逃げ方、やめてくださいまし」
「でもかなりそうです」
凛音が真顔で重ねる。
「お前はそこ乗るのかよ」
だが、そうやっていつもの調子を少しでも戻さないと、黒羽の名前を出した瞬間に空気が完全に止まりそうだった。
◇
朝食前、三人で白鳳館の中庭寄りの小さな休憩処へ入った。
客はまだ少ない。
朝の光が板間へ落ちて、庭の石へ細く反射している。
こういう時間の白鳳館は本当にいい宿だと思う。
だからこそ、そこへ黒羽みたいな異物を置かれると余計に困るのだが。
「で」
朱麗が湯呑みに触れながら言う。
「昨夜の件、少し整理しますわよ」
「朝からか」
「朝だからですわ」
朱麗はきっぱり言う。
「引きずったまま表へ出るほうが危険ですもの」
「それは、そうだな」
凛音が小さく頷く。
「逢坂さんは、かなり危ないです」
「距離の詰め方も」
「言葉の重さも」
「それから」
一拍置いて、俺を見る。
「あなたが否定しきれないところまで来ていることも」
そこを真正面から言うか。
「いや、否定しきれないっていうか」
俺は息を吐く。
「向こうの言い方がずるいんだよ」
「転生者かって真正面から言うくせに、証拠じゃなく“匂い”とか“感覚”とかで押してくるから」
「こっちが雑に否定すると、逆に変になる」
「はい」
凛音は頷く。
「だから危ないんです」
「ええ」
朱麗も続ける。
「しかも、あの方は自分の距離感が危険だと理解していて、それでもやめません」
「いちばん面倒な種類ですわ」
その評価には、かなり同意だった。
しかも黒羽は、ただ主人公へ近づくラブコメ要員みたいな動き方ではない。
知りたいから来る。
確認したいから踏み込む。
その過程で、感情も執着もそのまま出す。
だからブレーキがない。
「……今日、どうする」
俺が聞くと、凛音が先に答えた。
「まず、白鳳館の中で一人にならないことです」
「そこまでか」
「そこまでです」
凛音は言う。
「少なくとも、逢坂さんが“夜に二人きりで確認しに来る”まではやるので」
「言い方がもう嫌なんだよな……」
朱麗も腕を組んだ。
「白雪さんと同意見ですわ」
「それと」
少しだけ声が低くなる。
「逢坂さんが今日もあなたへ距離近く接するようなら、こちらももう少し明確に線を引きます」
「明確にって?」
「かなり、明確にです」
「便利ワードっぽく言うなよ」
だがその時点では、俺はまだ少し甘かったのだと思う。
まさか、その日の午前のうちに、三人の空気がここまで露骨にぶつかることになるとは思っていなかった。
◇
黒羽は、朝の食事処でも妙に自然だった。
白鳳館の朝食は、夜よりずっと客の素が出る。
寝起きの顔。
朝の空腹。
帰る前の気の抜け方。
そこへ宿の空気がどう寄り添うかで、宿の印象の最後の線が決まる。
そんな場所で、黒羽は普通に席へ着き、普通に食事をしていた。
だが、普通ではない部分が一つある。
視線だ。
他の客のように景色を見ているわけじゃない。
料理だけを見ているわけでもない。
ときどき、明らかに俺を見ている。
しかも、隠さない。
「……見すぎだろ」
すれ違いざまに俺が小声で言うと、黒羽はほんの少しだけ目を上げた。
「観測対象なので」
「それを食事処で言うな」
「ですが」
黒羽は静かに言う。
「朝のあなたは、夜より隠し方が甘いです」
「何の話だよ」
「本音です」
重い。
朝から重い。
その会話を、少し離れた位置から凛音が見ていた。
そして、そのさらに向こうで朱麗も見ていた。
嫌な予感がする。
かなりする。
案の定、朝食後の片づけが一段落したところで、黒羽が庭側の廊下に現れた。
そこへ俺が通る。
すると、当然みたいな顔で並んでくる。
「何でついてくる」
「あなたが今、少しだけ一人になったので」
「そこを拾うなよ」
「拾います」
黒羽は言う。
「拾わないと、また逃げるので」
「逃げてない」
「では、昨夜の答えの続きを話しますか」
「それを今、廊下で!?」
「静かな場所です」
いや、そういう問題じゃない。
だが、そのタイミングで向こう側から足音が来た。
凛音だ。
その少し後ろに朱麗もいる。
二人とも、俺と黒羽が並んで歩いているのを見た瞬間、ほんの少しだけ空気が変わった。
「……逢坂さん」
凛音が言う。
声は静かだが、かなり冷えている。
「また一緒なんですね」
「はい」
黒羽はあっさり答える。
「必要だったので」
「便利ワードまで使うのやめてください」
そこに朱麗も加わる。
「逢坂さん」
朱麗は丁寧に言う。
「白鳳館の廊下を“観測の続き”に使われるのは、かなり困りますわ」
「ですが、柊木さんも拒絶はしていません」
黒羽がそう返した瞬間、空気が止まる。
やめろ。
その言い方はやめろ。
「いや、それは」
俺が言いかける。
「拒絶しきれないのと、許しているのは違いますわ」
朱麗が先に言った。
しかも、かなりきっぱり。
黒羽はその返しを聞いて、少しだけ目を細める。
「そうですか」
「ええ」
朱麗は一歩前へ出る。
「こちらは、そういう違いを雑に扱われるのが嫌いですの」
それは、白鳳館の話にも聞こえるし、今の距離感の話にも聞こえた。
凛音も静かに続ける。
「逢坂さん」
「あなたが何を知っているのかは、まだ全部分かりません」
「でも、柊木さんに近づく時の温度が、かなり危ないです」
「危ない、ですか」
「はい」
凛音は言う。
「自分で止まる気がない感じがするので」
黒羽はそこで、ほんの少しだけ笑った。
「ええ」
彼女は言う。
「ないですね」
「認めるのかよ!」
思わず俺が突っ込む。
でも、その場で一番嫌そうな顔をしたのは朱麗だった。
「そこを、そうやって即答されるのがいちばん厄介ですわね……」
◇
問題は、そのあとだった。
白鳳館の裏手に小さな石段がある。
庭を回り込んで離れへ抜ける導線の一つで、宿の人間は普通に使うが、客はあまり通らない。
そこを歩いていた時だ。
黒羽が前を向いたまま、ぽつりと言った。
「嫉妬、していますね」
「は?」
俺が素で聞き返すより早く、凛音と朱麗の足が止まった。
「氷の方も」
黒羽は続ける。
「薔薇の方も」
「逢坂さん」
凛音の声が低い。
「それ以上言わないでください」
「なぜですか」
黒羽は本当に不思議そうに首を傾げる。
「事実でしょう?」
「あなたたちは、私が柊木さんへ近づくと、かなり露骨に空気が変わる」
「空気の観測はお上手でも、配慮は壊滅的ですのね」
朱麗の返しも、かなり低い。
「配慮はしています」
黒羽は言う。
「だから、言葉でしか言っていません」
「十分駄目なんだよ!」
俺が言うと、黒羽は俺を見る。
「でも」
彼女は静かに言った。
「あなたも、嫌ではないでしょう?」
それは、危険な問いだった。
嫌ではない。
――何が?
凛音と朱麗の空気が変わることが?
それとも、自分へ向けられている感情が、もう誤魔化しようのないところまで来ていることが?
どっちにしても、ここで答えられるわけがない。
「……質問が雑すぎる」
俺は息を吐いてそう返した。
「でも、否定しない」
「お前なあ」
だが、その返しを聞いた凛音がほんの少しだけ目を伏せた。
朱麗も、わずかに唇を引き結ぶ。
しまった、と思う。
今のは、たぶん黒羽への返事じゃなくて、二人のほうへ残る。
「……違います」
凛音が静かに言った。
かなり小さい声だったが、はっきりしていた。
「何が」
黒羽が聞く。
「嫌じゃないとか、そういう雑な話ではないです」
凛音はまっすぐ黒羽を見る。
「ただ」
一拍置く。
「あなたが、急に“自分だけ分かっている”みたいな顔で中へ入ってくるのが、かなり嫌です」
その言い方は、普段の凛音よりずっと感情が見えていた。
朱麗も続ける。
「ええ」
「わたくしも同意ですわ」
「白雪さんと違って、わたくしはもう少しはっきり言いますけれど」
そこで黒羽を見る。
「あなた、かなり邪魔ですのよ」
「朱麗!」
思わず名前で呼ぶ。
自分でも少し驚く。
だが朱麗は視線を逸らさない。
「だって事実でしょう?」
彼女は言う。
「こちらは、白鳳館も、学園も、柊木さんも、全部ひっくるめてようやく形を作ってきたんですの」
「そこへ突然現れて、“見つけた”“二人目だ”“失いたくない”って」
「そんなふうに一気に踏み込まれたら、面白いわけありませんわ」
それは、かなり本音だった。
そしてたぶん、凛音も同じだ。
黒羽は二人の言葉を、静かに受け止めていた。
怒りもしない。
引きもしない。
ただ、少しだけ目を細める。
「……なるほど」
「何がですか」
凛音が聞く。
「ようやく、輪郭が見えました」
黒羽は言う。
「氷は、黙って寄り添うことで席を守っている」
「薔薇は、言葉で線を引くことで場所を守っている」
「そして私は」
ほんの少しだけ笑う。
「どちらでもない」
「自覚あるんだな……」
俺が呆れると、黒羽は頷いた。
「ええ」
「だからこそ、ここからです」
「何がだよ」
「競合です」
「言い方!」
三人同時に突っ込んだ。
そこだけ綺麗に揃うなよ、と自分で思った。
でも、それで少しだけ空気が崩れたのも事実だった。
◇
その日の午後、白鳳館の空気は表面上いつも通りだった。
客の前では誰も乱れない。
そこはさすがだ。
だが内部の温度は明らかに違う。
凛音は静かだが、黒羽の位置を常に見ている。
朱麗は、黒羽が俺へ近づくたびに一言多い。
黒羽は黒羽で、二人の視線を避けないどころか、むしろ楽しそうに正面から受けている。
そして俺だけが、かなり疲れていた。
「……だめだろ、これ」
帳場の裏手で小さく呟くと、早坂さんが怪訝そうにこちらを見た。
「何がだ」
「いや、何でもない」
「その顔で何でもないは無理があるぞ」
早坂さんは腕を組む。
「宿の流れは悪くねえ」
「だが、お前の周りだけ空気が妙だな」
「そんな分かりやすいですか」
「かなりな」
お前まで使うのかよ。
だが、第三者から見ても分かる程度には、もう空気が変わっているのだろう。
白鳳館の運用は崩れていない。
でも、その運用の上に乗っている“俺たちの感情”が、かなり危うい。
「……恋愛感情で宿が回らなくなるって、こういうことか」
小さくそう漏らすと、早坂さんが一瞬だけ固まった。
「は?」
「いや、忘れてください」
「忘れられるか」
早坂さんは低く言う。
「何だお前、そんなややこしいことになってんのか」
「かなり」
「そうか……」
早坂さんは少しだけ遠い目になった。
「それはまあ、厨房より厄介かもしれねえな」
「ですよね……」
笑えない。
本当に笑えない。
◇
夜、ようやく少しだけ一人になれたと思って廊下を歩いていると、前から凛音が来た。
少し遅れて、反対側から朱麗も来る。
そしてその向こうには、黒羽の影まで見える。
最悪だ。
また全員揃った。
「……お前ら」
俺は思わず言う。
「示し合わせてるのか?」
「していません」
凛音。
「不本意ですが、していませんわ」
朱麗。
「必要な流れだっただけです」
黒羽。
「全員言い方が嫌なんだよ……」
だが、ここで逃げてもしょうがない。
もうそういう段階じゃない。
「一つだけ」
俺は深く息を吐いて言った。
「白鳳館でだけは、空気を壊すな」
「誰がどう思っててもいい」
「でも、宿の時間をそれで濁すのは駄目だ」
しばらく、誰も何も言わなかった。
最初に頷いたのは、凛音だった。
「……はい」
次に、朱麗。
「ええ」
少しだけ目を伏せる。
「そこは、同意ですわ」
最後に、黒羽。
「分かりました」
彼女は静かに言う。
「それは、かなり大事ですね」
「便利ワードみたいに使うなよ」
「でも、本当にそうです」
その返しは珍しく、少しだけやわらかかった。
たぶん黒羽なりに、白鳳館だけは軽く扱うつもりがないのだろう。
そこがまた厄介で、でも少しだけ救いでもある。
「……じゃあ」
俺は言う。
「今日はそれで終わりだ」
「もう寝ろ」
「はい」
「ええ」
「分かりました」
三人の返事が揃う。
そこだけ、また妙に綺麗だった。
白鳳館の中で、
凛音と朱麗と黒羽が、
それぞれ違う感情を抱えたまま、
それでも“宿を壊さない”で頷く。
それは少し前の俺からすると、かなりおかしな景色だった。
でも今は、そのおかしさごと、物語の一部になり始めている気がした。




