第38話 浴衣と包帯、夜の観測者
白鳳館に逢坂黒羽が来た日の夜は、最初から妙だった。
妙というか、落ち着かないと言うべきか。
客として来ている以上、表向きは普通だ。
黒羽も玄関ではちゃんと頭を下げたし、案内にも従ったし、部屋へ通される時も余計なことは言わなかった。少なくとも、宿の空気を壊すような真似はしていない。
それが逆に不気味だった。
学園の保健室での初対面も、
昼休みの第四席乱入も、
全部かなり強引だったくせに、
白鳳館へ来た黒羽だけは妙に“客”として整っている。
その整い方が、この宿では余計に怖い。
「……何なんだよ、ほんとに」
夕食後、自分の部屋へ戻って小さくそう呟く。
今日の白鳳館は通常日寄りの運用だ。
勝負日ほど濃くはない。
でも、迎えの一口も、夜の流れも、白鳳館らしさはちゃんと残している。
その中で黒羽は、目立ちすぎず、でも妙に馴染んでいた。
白鳳館の一口目を食べて、あいつはこう言ったのだ。
「ここは、失われた記憶の匂いがします」
意味が分からない。
でも、ただの悪ふざけではなかった。
凛音も朱麗も完全に警戒していたが、黒羽のほうは本当に宿の空気を読んでいる感じだった。
それがまた腹立たしい。
腹立たしいし、厄介だし、かなり面倒だ。
「……風呂、行くか」
考えごとをしているとろくなことにならない。
こういう時は、湯に入って一回頭を空にしたほうがいい。
そう思って立ち上がったところで、襖の向こうから足音がした。
止まる。
嫌な予感しかしない。
「……誰だ」
俺が低く聞くと、静かな声が返ってきた。
「私です」
黒羽だった。
「帰れ」
「即答ですね」
「当たり前だろ」
「傷の具合を確認しに来ました」
「保健室の時のあれか?」
俺は眉をひそめる。
「もう平気だよ」
「それは見ないと分かりません」
黒羽は淡々と言う。
「あと、今日は別件もあります」
「その“別件”が嫌なんだよ」
だが黒羽は引かない。
「開けてください」
少しだけ間が空く。
「大声で中二病っぽいことを言われたくないなら」
「脅しかよ」
「交渉です」
最悪だ。
かなり最悪だ。
だが、廊下で騒がれるのも困る。
白鳳館は今、やっと安定して回り始めたところだ。客室前で“保健室の魔女”に大声で絡まれるのは避けたい。
俺は深く息を吐いてから、襖を少しだけ開けた。
そこで数秒、言葉が止まる。
黒羽は浴衣姿だった。
色は深い紺。
柄はほとんどない。
なのに、黒羽が着ると妙に似合う。
黒髪と白い首筋のコントラストが強くて、いつもの制服よりずっと静かなのに、逆に目を引く。
しかも。
浴衣の合わせが、ほんの少しだけ緩い。
乱れているというほどではない。
でも、目のやり場に困る程度には、危ない。
「……お前」
ようやく出た声が少し掠れる。
「何ですか」
「その格好で、夜に男の部屋の前へ来るな」
黒羽は一度だけ自分の浴衣を見下ろした。
「浴衣です」
「見れば分かる!」
「白鳳館の客としては、適切な服装です」
「話をすり替えるな」
俺は額を押さえたくなる。
「そういうことじゃないだろ」
「そういうこと、とは?」
「お前さあ……」
だめだ。
この会話、保健室の時と同じだ。
全部まっすぐ返してくるから、こっちだけが変な方向へ意識しているみたいになる。
黒羽はそんな俺を見て、ほんの少しだけ目を細めた。
「やはり」
彼女は静かに言う。
「あなた、こういう時はちゃんと人間らしく困るんですね」
「どういう感想だよ」
「少し安心しました」
黒羽は言う。
「もっと平気な顔をされると、逆に困るので」
「お前の“困る”の基準、ほんと分からんな」
「私にも全部は分かっていません」
それを言いながら、黒羽は当然のように一歩踏み込んできた。
「おい」
「傷、見せてください」
「だからもう平気だって」
「それは見てから判断します」
強い。
やっぱりこの子、静かなのに押しが強い。
俺は仕方なく右手を差し出した。
昼に擦った程度の傷だから、もうほとんど塞がっている。包帯も取ってあった。
黒羽はその手を取った。
細い指。
けれど躊躇がない。
保健室の時と同じだ。
しかも浴衣姿のままそれをやられると、余計に距離が近く感じる。
「……問題ありません」
黒羽はしばらく見てから言った。
「やはり治りも早いですね」
「そこまで言うような傷じゃなかっただろ」
「傷の話だけではありません」
「は?」
黒羽は、俺の手を放さないまま少しだけ顔を上げた。
「あなたは、ズレています」
静かな声だった。
だが、保健室よりずっと近い温度だった。
「何が」
「普通の学生なら」
黒羽は言う。
「危険を避ける時に、もっと自分を守ります」
「でもあなたは違う」
「先に他人をずらして、そのあと自分の傷で済ませる」
「それを、迷いなくやりすぎる」
その言葉は、かなり嫌だった。
嫌だし、でも正確でもある。
「……ただの癖だろ」
「ええ」
黒羽は頷く。
「だから厄介なんです」
「癖は、前の積み重ねの証拠なので」
前の積み重ね。
その言い方に、心臓が少しだけ強く跳ねる。
「お前」
俺は低く言う。
「何が言いたい」
「確信が欲しいんです」
黒羽は、ほんの少しだけ声を落とした。
「あなたも、転生者でしょう」
部屋の空気が止まった気がした。
廊下の向こうの気配。
庭の虫の声。
遠くの湯の音。
そういう外側の音だけが、逆に鮮明に聞こえる。
「……何だって?」
やっとそれだけ返す。
黒羽は俺の手を離した。
だが目は逸らさない。
「正確には、“ただの一度きりの人生ではない側”です」
彼女は言う。
「転生でも、やり直しでも、世界線の再試行でも、呼び方は何でも構いません」
「でもあなたは、“一度目”だけでできた動きをしていない」
「……証拠もないのに、よくそんなこと言えるな」
「証拠はまだ足りません」
黒羽は正直に答えた。
「でも、匂いがあります」
「匂いで全部済ませるなよ」
「私にとっては大事な感覚です」
黒羽は言った。
「失敗した世界を一度でも知った人間は、“いま”の扱い方が少しだけ違う」
「あなたには、それがあります」
失敗した世界。
その言葉に、今度は別の意味で息が詰まる。
「……お前も、なのか」
自分でも驚くくらい、声は低かった。
否定ではなく、問いが先に出た。
それだけで、たぶん何かを与えてしまっている。
黒羽は、ほんの少しだけ笑った。
うれしそうでもなく、勝ち誇った感じでもなく、ただ“やっとそこまで来た”みたいな笑みだった。
「ええ」
彼女は静かに言う。
「私は、一度失敗した世界を知っています」
部屋の空気がさらに冷える。
中二病。
保健室の魔女。
観測者。
ヤバい女子。
その全部の向こう側から、本物が少しだけ顔を出す感じだった。
「全部は、まだ話しません」
黒羽は続ける。
「話しても、あなたは今の段階では信じきれないでしょうから」
「でも」
そこで彼女の目が、ほんの少しだけ強くなる。
「ようやく見つけました」
「見つけたって何だよ」
「二人目、です」
黒羽は言う。
「私以外にも、“こちら側”がいた」
「それだけで、かなり意味があります」
「勝手に二人目認定するな」
「では、違いますか」
「……」
返せない。
否定も、肯定も、うまくできない。
俺は転生者だ。
いや、“やり直し脇役”という言い方のほうが近いのかもしれない。
でも、それをこの場で簡単に認めるわけにはいかない。
認めた瞬間に、いろんなものが変わる気がした。
「黙った、ということは」
黒羽が言いかける。
「そこから先は言うな」
俺はきっぱり遮った。
「今の時点で、お前にそれ以上の答えはやれない」
黒羽は少しだけ黙った。
だが、失望した顔はしない。
「いいんです」
彼女は言う。
「否定しない時点で、私には十分です」
「勝手に納得するな」
「でも」
黒羽はほんの少しだけ視線を和らげた。
「今度は、絶対に見失いません」
その一言が、かなり重かった。
いや、重いなんてもんじゃない。
真っ直ぐすぎる執着だ。
「お前」
俺は本気で顔をしかめる。
「それ、かなり危ないって自覚あるか?」
「あります」
黒羽は即答した。
「でも、失いたくないものを見つけた時、人は少し危なくなるものです」
「それを本人が言うのが一番怖いんだよ!」
だめだ。
この子、本当に静かにヤバい。
保健室の魔女とか中二病とか、そういう表層で笑って済ませていい段階を越えてきている。
◇
その時だった。
廊下の向こうから、足音が近づいてくる。
二人分。
しかも聞き慣れている。
「……っ」
黒羽も気づいたらしい。
だが引かない。
むしろその場にそのまま立っている。
襖が勢いよく開いた。
「柊木さん!」
凛音だった。
そのすぐ後ろに朱麗もいる。
そして二人とも、目の前の光景を見て止まる。
夜。
客室。
浴衣姿の黒羽。
部屋の中に立っている俺。
距離、近め。
これは、どう見ても言い訳しづらい。
「……何をしているんですか」
凛音の声は静かだった。
でもかなり冷えていた。
「誤解だ」
俺が即答すると、朱麗が低く言う。
「誤解されるような状況を先に作らないでくださいまし」
「正論すぎる……」
黒羽はそんな二人を見て、妙に落ち着いた顔をしていた。
「傷の確認です」
「夜に浴衣で男の部屋へ来てすることではありませんわ」
朱麗がぴしゃりと言う。
「ですが、必要でした」
「便利ワードみたいに言わないでくださいまし!」
黒羽は一瞬だけ首を傾げる。
「便利でしたので」
「増えるな、その系統!」
凛音が、部屋の中へ一歩入る。
目は俺ではなく黒羽に向いていた。
「逢坂さん」
「さっきの昼休みより、かなり危険度が上がっています」
「そうでしょうか」
「そうです」
凛音は即答する。
「この距離と時間帯で、しかも浴衣で来るのは」
「かなり、です」
「そこを強く言うの初めて見たな」
俺が思わず言うと、凛音が一瞬だけこちらを見た。
「今は本気です」
「それは伝わる」
朱麗も、腕を組んだまま黒羽へ言う。
「逢坂さん」
「あなたが何を知っていて、何を確認したいのかは分かりません」
「でも、白鳳館の夜をそういうふうに使われるのは困りますわ」
黒羽は数秒黙ったあと、静かに言った。
「……それは、そうですね」
意外だった。
もっと食い下がるかと思ったのに。
「今日はここまでにします」
黒羽は俺を見る。
「でも、確認は十分進みました」
「進ませるなって言ってるんだよ」
「それは難しいです」
黒羽は少しだけ口元を上げる。
「だって、見つけたので」
「その言い方やめろ」
だが黒羽はもう引く気らしい。
ほんとうに静かに一礼すると、そのまま襖の外へ出ていった。
去り際まで、妙に空気を残していくやつだった。
◇
黒羽がいなくなったあと、部屋の中には重い沈黙が落ちた。
まずい。
かなりまずい。
「……で」
朱麗が言う。
「何を確認されたんですの」
「いや、その」
俺は言葉を探す。
「傷の具合と」
「と?」
凛音が静かに促す。
「……俺が普通じゃないかどうか、みたいな」
「みたいな、で済ませないでください」
凛音の声音は、珍しくほんの少しだけ強かった。
たしかにそうだ。
ここで曖昧にすると、余計に拗れる。
「転生者かって聞かれた」
そう言った瞬間、部屋の空気がまた止まる。
朱麗の目がわずかに見開く。
凛音は数秒、完全に何も言わなかった。
「……なるほど」
最初に口を開いたのは朱麗だった。
声は低いが、驚きより整理が先に来ている。
「それで、あなたは?」
「否定しきれなかった」
正直に言うしかない。
凛音が、少しだけ目を伏せた。
「そうですか」
「でも、認めてもない」
俺はすぐに続ける。
「ただ、向こうが勝手に納得した感じだ」
「それでも十分まずいですわね」
朱麗は言う。
「かなり、です」
「今日はその使い方が重すぎる」
だが本当にその通りだった。
黒羽は、ただの変な女子じゃない。
しかも、こっちと同じ“やり直し”の匂いを持っているかもしれない。
さらに、そのうえで俺に執着し始めている。
ろくなことにならない要素しかない。
「……今度こそ」
凛音が静かに言った。
「一人で会わないでください」
「会うつもりはなかったんだけどな」
「でも、会いました」
凛音は言う。
「かなり」
「はい」
そこだけは素直に認めるしかない。
朱麗も、少しだけ疲れた顔で息を吐く。
「第三章」
彼女はぽつりと言った。
「火力が強すぎませんこと?」
「それはちょっと思った」
「かなり」
凛音が言う。
「便利ワードが追いついてないな、もう……」
それでも。
こうして二人が来てくれたことに、少しだけ救われてもいる。
黒羽の言葉は重かった。
でも、それを一人で受け止めきらずに済んだのは大きい。
「……とりあえず」
俺は深く息を吐く。
「今日はもう寝る」
「これ以上考えると、明日たぶん本気で死ぬ」
「賛成ですわ」
「私もです」
返事が揃う。
ほんとうに、この二人はそういうところだけ綺麗に合う。
でも今は、それがありがたかった。




