第35話 漆黒の観測者、《二人目》を見つける
逢坂黒羽という女子生徒が現れてから、学園の空気そのものが変わったわけではない。
黒い封筒の件も、匿名問い合わせの件も、表向きはまだ“学園生活の外側で起きている嫌なこと”のままだ。ホームルームは普通に始まるし、先生は板書をするし、森野は今日も「小テストやばい」と言っているし、岸本は「眠い」と堂々と欠伸をしている。
普通だ。
かなり普通だ。
なのに、俺の側だけ普通じゃない。
なぜなら。
「……何でいるんだよ」
二時間目終わりの廊下、窓際。
そこに黒羽がいたからである。
壁にもたれかかるでもなく、妙にまっすぐ立っている。黒髪は今日も長く、制服もきっちりしている。左腕の包帯は昨日と同じ位置だが、今日はその上から黒いヘアゴムみたいなものがひと巻きされていて、ますます“自分で演出してる感”が強かった。
「理由が必要ですか」
黒羽は静かな声で言う。
「必要だろ」
「あなたを観測するためです」
「最悪に正直だな……」
保健室の一件のあとだ。
初対面のふりをするでもなく、何でもない顔でこういうことを言ってくるの、本当にたちが悪い。
「観測って何だよ」
俺は低く言う。
「お前、昨日もそうだったけど、言葉の選び方がいちいち怖いんだよ」
「言葉は、正確に使うべきです」
黒羽はわずかに首を傾けた。
「見ているだけなら、ただの傍観です」
「私は、観測しています」
「違和感を拾い、ズレを測り、因果の揺れを辿るために」
「……中二病全開で言われると、どこまで本気かわからんな」
「全部本気です」
即答だった。
その即答が一番怖い。
「おい柊木」
後ろから岸本の声がした。
「お前、また変なやつに絡まれて……」
そこまで言いかけて、岸本が止まる。
黒羽を見て、ちょっとだけ引いた顔をした。
「……誰?」
「逢坂黒羽です」
本人が先に名乗る。
「保健室の魔女でも構いません」
「構わないのそっちだけだろ」
「でしょうね」
なぜか、ちょっと満足そうに返すな。
岸本は俺の耳元へ顔を寄せた。
「何だよこの子」
「静かなのに圧がやばいんだけど」
「俺が知りたい」
「知りたいなら教えましょうか」
黒羽が、聞こえていたのか静かに言った。
「やめろ」
俺は即答する。
「余計ややこしくなる」
「もう十分ややこしいです」
「そこは否定できない」
黒羽は、そこでほんの少しだけ口元を上げた。
「やはり」
「その返し方、いいですね」
「何がだよ」
「観測に値するということです」
ほんとに何なんだこいつは。
◇
問題は、黒羽が一回きりの出現で終わらなかったことだ。
三時間目の移動教室の途中、階段踊り場。
昼休み前、図書室前の廊下。
放課後前、実習棟へ向かう渡り廊下。
気づけばいる。
しかも、“偶然会いました”的な顔を一切しない。
最初から「待っていました」みたいな雰囲気で、妙に静かに立っている。
それがまた怖い。
「……お前」
昼休み前、図書室前で見つけた時に俺は言った。
「さすがに多くないか」
「何がですか」
「出現頻度」
「観測対象の行動を追うなら、これくらいは普通です」
「どこの普通だよ」
「私の普通です」
「最悪だな……」
そこへ、凛音が少し早足でやってくる。
「いました」
「何が」
「あなたです」
凛音は俺に言ってから、視線を黒羽へ向けた。
「それと、この人も」
声音は静かだが、完全に警戒している時の目だった。
黒羽はその視線を正面から受け止める。
「白雪凛音」
「観測補助者にして、氷の理解者」
「やめてください」
凛音は即答した。
「その呼び方も、勝手に役割をつけるのも」
「不本意でしたか」
「かなり」
「でも、本質からは遠くありません」
「遠いです」
「便利ワードの使い方が、思った以上に鋭いですね」
「そこ拾うなよ!」
だめだ。
会話の温度が変すぎる。
そこへ、少し遅れて朱麗も来る。
「白雪さん、柊木さん――」
朱麗は黒羽を見て、ぴたりと止まる。
「……また、あなたですの」
「また会いましたね」
黒羽は静かに言った。
「薔薇の正位置を守る方」
「何ですのその言い方」
朱麗の眉が寄る。
「わたくしのことを何だと思っていますの」
「薔薇です」
「答えになっていませんわ!」
いや、でも妙にそれっぽいのが腹立つな。
朱麗は一歩前へ出る。
言葉遣いは丁寧だが、完全に牽制の顔だった。
「逢坂さん」
「先に申し上げておきますけれど」
「あなたの距離の詰め方は、かなり不自然ですわ」
「不自然、ですか」
「ええ」
朱麗は言う。
「柊木さんへ向ける視線も、言葉も、偶然の接触としては不自然すぎます」
「何を知っていて、何を見ているのか、そろそろ明確にしていただけませんこと?」
黒羽は、その問いに対して少しだけ目を細めた。
「明確には、まだできません」
「まだ?」
凛音が反応する。
「はい」
黒羽は頷く。
「確信が足りないので」
「でも」
そこで視線が俺へ来る。
「あなたは、かなりこちら側です」
「その“こちら側”ってのを雑に使うなって」
「雑ではありません」
黒羽は静かに言う。
「あなたは、自分を脇役の席へ置きたがる」
「でも、そういう人間ほど一番危ない場所で先に動いてしまう」
「それを何度もやっている」
「それはもう、“普通の学生”の癖ではありません」
その言い方は、かなり嫌だった。
嫌というより、核心に近すぎる。
凛音と朱麗の視線が一瞬だけこちらへ来る。
でも二人は何も言わない。
ここで俺へ確認を取らないのは、たぶん彼女たちなりの信頼なのだろう。
それが救いでもあり、余計に逃げ道をなくす。
「……言い方が重いんだよ、お前は」
「本質に近い話は、軽くすると壊れます」
黒羽はほんとうに真面目な顔でそう言った。
やっぱりこの子、中二病というより、世界を中二病の言語で本気に処理しているタイプだ。
◇
昼休みは、当然のように中庭へ移動した。
そして、当然のように問題が発生する。
「座ります」
黒羽が言った。
「何でだよ」
「今の会話の続きです」
「続かなくていい」
「ですが、途中で切ると観測精度が落ちます」
「知るか」
俺がそう返した時点で、黒羽はもうベンチの端へ座っていた。
しかも、俺のすぐ隣に。
近い。
いや、別に肩が触れているわけではない。
でも距離感としては近い。
こいつ、そういう“ギリギリの近さ”をまったくためらわないのが困る。
凛音がその向かいに座る。
表情は変わらない。
でも静かに冷えている。
朱麗も反対側へ腰を下ろしたが、こっちはこっちで明らかに機嫌がよくない。
「第四席ですわね」
朱麗が言った。
「何が」
俺が聞く。
「昼休みの定位置です」
朱麗は黒羽を見る。
「そこへ、勝手に第四席を作らないでくださいまし」
「空いていたので」
黒羽は平然としている。
「論点が違いますわ」
「そうでしょうか」
黒羽はわずかに首を傾げた。
「今のあなたたちは、“三人でいること”をすでに前提化している」
「それはかなり危うい固定です」
「なら、観測者が一人入る余地はあります」
「ありません」
凛音が即答した。
「かなり、ありません」
「そこを強く言うの新鮮だな」
「必要なので」
便利ワードが、今日は完全に武器になっている。
黒羽は、そんな二人の空気をまるで気にせず、俺へ向き直った。
「白鳳館は順調ですか」
「は?」
俺は素で聞き返した。
「何でその名前を知ってる」
「知っていて不思議ですか」
「かなり不思議だろ!」
黒羽は少しだけ目を細める。
「あなたの行動線を追っていれば、見えてきます」
「学園と、学園の外で続いているもう一つの場所」
「そこが今のあなたの“帰る先”の一つなのでしょう?」
背筋が冷える。
これはまずい。
切り抜きや匿名問い合わせの件とは別に、こいつ自身が俺の動きを追って白鳳館まで辿っている。
どこまで知ってる?
どこから見てた?
「……お前」
俺は低く言う。
「ほんとに何なんだよ」
「逢坂黒羽です」
黒羽は静かに答えた。
「ようやく見つけた観測対象に、再会した側の人間です」
「再会?」
朱麗が反応する。
「ええ」
黒羽は頷く。
「少なくとも私には、そういう感覚です」
「意味がわかりませんわ」
「今はまだ、それで構いません」
その“今はまだ”が、また嫌だった。
◇
昼休みの空気は、完全にいつもと違っていた。
森野と岸本は少し離れた位置からこちらを見ている。
たぶん“何か新しいのが混ざった”くらいの認識だろうが、それで十分目立つ。
「……お前」
俺は小声で黒羽へ言う。
「少しは周り見ろよ」
「見ています」
「いやそういう意味じゃなくて」
「今この場で、あなたが一番落ち着かないのは」
黒羽は本当に静かに言った。
「私の発言内容ではなく、私が“馴染まないもの”としてこの空間にいるからですよね」
「それは」
「図星ですか」
「……だいぶな」
「でしょうね」
会話の主導権を取れない。
凛音や朱麗とも違う。
この子は相手の反応を見ているようでいて、最初から“そこへ触る”つもりで言葉を置いてくる。
危ない。
かなり危ない。
「逢坂さん」
凛音が口を開いた。
「一つだけ確認します」
「どうぞ」
「あなたは、柊木さんを何だと思っていますか」
その問いは、静かだった。
でもかなり深い。
黒羽は、少しだけ考えるように目を伏せてから答えた。
「まだ確定していません」
「でも」
そこで視線が俺へ向く。
「“一人目ではない”とは思っています」
「何だよ、それ」
「この世界で、違和感を持って動いているのが、私だけではないということです」
その一言で、空気がまた少しずれる。
凛音がわずかに目を細める。
朱麗は明らかに警戒を強めた。
俺は――。
完全には、否定できなかった。
それが一番最悪だった。
「……お前」
俺は息を吐く。
「そういうのを昼休みに持ち込むなよ」
「昼休みだからです」
黒羽は言った。
「重くなりすぎないので」
「お前もその理屈使うのかよ」
「便利です」
だめだ。
本当にろくな方向へ増えていない。
◇
昼休みが終わる頃、黒羽は立ち上がった。
「では、今日はここまでにします」
「何だよその言い方」
「観測には区切りが必要です」
黒羽は俺を見る。
「ですが、次はもう少し核心へ触れます」
「触れるな」
「それは、こちらでは決められません」
黒羽は静かに言う。
「あなたも、いずれ認めざるを得なくなるので」
そう言って、彼女は本当に静かに去っていった。
残されたのは、嫌な沈黙だった。
「……重いですわね」
朱麗が最初に言った。
「かなり」
凛音も続く。
「便利ワードが全然軽くならないな今日は」
俺が言うと、凛音が少しだけこちらを見る。
「柊木さん」
「何だ」
「この人」
凛音は言った。
「危ないです」
「ただの変な人じゃない」
「“知っている側”です」
「わかってるよ」
わかっている。
だからこそ厄介なのだ。
朱麗も腕を組みながら言う。
「ええ」
「しかも、こちらが何を隠したいかに近い位置から見てきていますわね」
「それが本当に腹立たしいですの」
「腹立たしいって」
俺は少し苦笑する。
「そこなんだな、お前」
「当然でしょう」
朱麗はきっぱり言う。
「危険ですし、距離はおかしいし、しかも分かっているふうの言い方をする」
「かなり嫌ですわ」
「はい」
凛音も頷く。
「かなり嫌です」
そこは本当に揃うんだな、お前ら。
でも、その揃い方が少しだけありがたいのも事実だった。
黒羽は危ない。
嫌なことを言う。
距離も近い。
しかも、俺の中の“脇役でいたい”みたいなところを平気で踏んでくる。
でも同時に――。
たぶんこいつは、物語の外から来たノイズじゃない。
こっち側へ食い込んでくる新しい火種だ。
「……第三章だなあ」
思わず呟くと、朱麗が呆れたように言う。
「またそういう言い方を」
「でも」
凛音は少しだけ目を細めた。
「かなり、そうです」
「お前ももう完全にそっち側だな」
「必要なので」
その返しに、俺は小さく息を吐く。
黒い封筒の次に現れたのは、保健室の魔女だった。
しかも、どうやらそれだけでは終わらない。
第三章は、やっぱり静かに済ませる気がないらしい。




