第34話 保健室の魔女は、包帯を巻いて笑う
黒い封筒が机に入っていた翌日、俺は朝から嫌な予感がしていた。
こういう予感は、だいたい外れるときはきれいに外れる。
でも本当に困るのは、当たるときのほうがやけに静かだということだ。
つまり、今日みたいな日だ。
空は晴れていた。
風も強くない。
学園はいつも通りで、むしろ昨日の黒い封筒なんて俺の机の中だけで起きた局所災害みたいなものだった。
森野は朝から小テストの範囲がどうこう騒いでいたし、岸本は「今日の実習だるいな」と露骨に顔へ出していた。そういう普通の空気の中にいると、黒い封筒のほうが一瞬だけ悪い夢みたいに思えてくる。
だが、そういう時に限って現実は追撃してくる。
「柊木くん」
一時間目と二時間目の間の休み時間、森野が振り返って言った。
「何だよ」
「今日の実習、第二補助区画だって」
「へえ」
「へえ、じゃないよ」
森野は眉を寄せる。
「第二補助区画って、床滑りやすいんだよね」
「しかも今日は公開用の撮影班も少し入るって」
「またか……」
そこへ岸本も後ろから乗っかってきた。
「最近ほんとに“ちょっとした公開”多くない?」
「学園側も切り抜き意識してんのか、それとも逆に気にしてないふりしてんのか分かんねえ」
「どっちでも嫌だな」
俺がそう返したタイミングで、教室の扉が開く。
凛音と朱麗だ。
最近はもう、この流れに対してクラスの空気もそこまで揺れない。
“何でいるの”ではなく、“ああ、来たな”だ。
馴染みすぎていて怖い。
「おはようございます」
凛音が言う。
「ごきげんよう」
朱麗も続く。
「本日の実習、少しだけ気をつけたほうがよろしくてよ」
「お前らもそれ言うのか」
「床です」
凛音が短く言う。
「第二補助区画、昨日の清掃あと少し水気が残りやすかったので」
「知ってるのかよ」
「見ました」
「お前ほんとに何でも見てるな」
「必要なので」
「便利ワード禁止」
「困ります」
そこへ朱麗が、少しだけ低い声で言った。
「それと」
「今日、公開用の記録班が少し入ります」
「大きなものではありませんけれど、“見られる日”ではありますわね」
その一言で、空気が少しだけ変わる。
黒い封筒。
匿名の問い合わせ。
外から見てくる連中。
そして“見られる日”。
嫌な符号の揃い方だった。
「……気をつけるよ」
そう答えた時点では、たぶんまだ甘かった。
◇
第二補助区画は、学園ダンジョン実習棟の中でも少し癖がある。
広くはない。
でも狭すぎない。
通路の角度が半端で、視線が抜けるところと死角になるところが混ざっている。
床材は安全仕様のはずなのに、湿気が残るとほんの少しだけ滑りやすい。
つまり、“ちょっとしたミス”が起こりやすい場所だった。
「今日は基本確認と補助動作です」
担当教員が言う。
「派手なことはやりません」
「記録班も入りますが、気にしすぎるな」
気にするなと言われて気にしないでいられるなら苦労はない。
俺は周囲の配置をざっと見る。
生徒。
教員。
記録班のカメラ位置。
補助器材の置き場。
逃げ道。
そこへ凛音が、あくまで自然な距離で隣に立った。
「見られていますか」
「見てるよ」
「誰に」
「今はまだ全員」
俺は小さく言う。
「でも“嫌な見方”はまだない」
「少なくとも、この区画の中には」
朱麗は少し離れた位置で全体を見ていた。
今日も学園内ではあくまで“自然にそこにいる上級生寄りの先輩”をやっている。だが、その視線の通し方だけは完全に監視側だ。
「……何ですの」
少しして、朱麗がこちらへ寄ってきた。
「いや、お前今日だいぶ気張ってるなって」
「当たり前でしょう」
朱麗は低く言う。
「黒い封筒の翌日に“見られる日”ですのよ」
「こちらが自然にしていないと、余計なものまで動きますわ」
「それはそうか」
実習は最初のうち、何事もなく進んだ。
補助動作の確認。
ペアでの連携。
視線移動。
簡単な器材の持ち替え。
地味だ。
だが、こういう地味な場面ほど“分かる人間”には分かる。
切り抜きにされるのも、案外こういうところだったりする。
だから今日は、本当に“普通に”やるつもりだった。
そう。
本当にそのつもりだったのだ。
◇
小さな事故は、実習終了のほんの少し前に起きた。
器材の運搬用ケースを、別クラスの一年が持ち直そうとして手を滑らせたのだ。
ケース自体は大きくない。
だが角が硬い。
落ち方によっては足を挟むし、近くにいた生徒へぶつかる。
しかも、その一年のすぐ近くには、床の水気がまだ少し残っていた。
「っ」
誰かが小さく息を呑む。
教員が動くより半拍早く、身体が前へ出た。
ケースの軌道を見る。
足場を見る。
滑る位置を見る。
一歩目で重心を入れ、
二歩目で角へ手を差し込み、
三歩目で一年の肩を押し戻す。
そこで、やっと自分の右手に鋭い痛みが走った。
「……っ」
ケースの金具が手の甲を掠めたのだ。
大きくはない。
でも切れた。
血が一筋、手の甲を伝う。
「す、すみません!」
一年が真っ青になる。
「前見ろ」
俺は短く言った。
「次から持ち替える前に止まれ」
「は、はい!」
それで済むはずだった。
実際、実習の流れ自体はそこで止まらなかった。
教員も一年を落ち着かせ、器材も無事だった。
問題は小さい。
なのに、その小ささのわりに、周囲の視線が一瞬だけ濃くなったのが分かった。
やってしまった、と思う。
地味だ。
かなり地味な動きだ。
でもだからこそ、“見ている側”には拾いやすい。
「柊木さん」
凛音がすぐ近くに来る。
「手」
「浅い」
俺は短く言う。
「大丈夫」
「大丈夫でも、保健室です」
「そこまでじゃ」
「行ってください」
珍しく強かった。
朱麗もすぐ後ろから来る。
「ええ」
「今日は変なところで意地を張らないでくださいまし」
「血が見えている時点で、放置の選択肢はありません」
「……はいはい」
正直、傷そのものは大したことない。
でも、この二人がここまで言うなら従ったほうが早い。
何より、今の状態でごねるほうが目立つ。
俺は教員へ一言断って、保健室へ向かった。
◇
保健室は、昼の学園の中では少しだけ時間の流れが違う場所だ。
消毒液の匂い。
薄いカーテン。
白い棚。
置き薬と記録簿。
外の喧騒が、扉一枚で少し遠くなる。
だからなのか、保健室には時々“学園の中にある別の部屋”みたいな人間がいる。
その日、そこにいたのがまさにそうだった。
「失礼します」
俺が扉を開ける。
中にいたのは、いつもの保健の先生ではなかった。
黒髪の女子生徒。
長い。
かなり長い。
色は真っ黒というより、光が当たるとわずかに青みを帯びる。
色白で、線が細い。
目の下に、少しだけ隈がある。
だが不健康というより、“夜に起きていそう”な感じだ。
制服はきちんと着ている。
だが、整い方が普通じゃない。
ネクタイの位置も、袖口の折り目も、まるで儀式の装束みたいに隙がない。
そして何より。
左腕に、包帯が巻かれていた。
「……保健の先生は?」
俺が聞くと、その女子生徒はゆっくり顔を上げた。
目が合う。
その瞬間、妙な違和感が走る。
初対面のはずなのに、向こうは“ようやく会えた”みたいな目をしたのだ。
「職員会議で少し外しています」
彼女は、静かで、妙に滑らかな声で言った。
「代わりに、私が簡易処置を任されています」
一拍置く。
「やはり来ましたか。“境界を越えた者”」
「……は?」
何だそれ。
俺が固まっていると、彼女は立ち上がる。
長身ではない。
でも、立ち姿に妙な芯がある。
「右手」
彼女は言った。
「金具で切りましたね」
「浅いですが、運が悪ければもっと深く裂けていました」
そして、少しだけ口元を上げる。
「あなたはいつも、そうやって“まだ浅い”側へずらすんですね」
気持ち悪い。
いや、正確には、気味が悪い。
「……誰だお前」
「失礼」
彼女はほんの少しだけ首を傾けた。
「自己紹介がまだでした」
「逢坂黒羽」
「漆黒の観測者とお呼びくださって構いません」
「呼ぶわけないだろ」
「でしょうね」
逢坂黒羽は、なぜか少し満足そうに言った。
「ですが、あなたならそう返すと思っていました」
だめだ。
完全に変人だ。
でも同時に、ただのネタっぽい変人ではない。
言葉が妙に“前から見ていた”感じを含んでいる。
「手を出してください」
黒羽は当たり前みたいに言う。
「いや、先生戻るまで待つ」
「それでは遅いです」
彼女は淡々と消毒液と包帯を取り出した。
「血は待ってくれません」
「それとも、“私には触れさせたくない理由”でも?」
「言い方が悪いんだよ」
「よく言われます」
お前、絶対よく言われてるだろうな。
仕方なく、俺は右手を差し出した。
黒羽はそれを受け取る。
細い指だ。
だが躊躇がない。
傷を見た瞬間の視線が、妙に冷静だった。
「やっぱり」
彼女が小さく言う。
「何が」
「反応が早すぎます」
消毒綿を取りながら黒羽は言った。
「普通の学生なら、あの軌道に身体が先に出ません」
「しかも、利き手を傷つける角度で止めている」
「無意識で最優先を選んだ証拠です」
「……ただ近かっただけだろ」
「その言い訳、かなり苦しいですね」
「お前まで便利ワード使うのかよ」
「便利ですから」
だめだ。
なんでこういうやつまで出てくるんだ。
黒羽は消毒液を染みこませた綿を傷へ当てた。
「っ」
思ったより染みる。
「痛いですか」
「普通に」
「でも、叫ばない」
黒羽は目を伏せたまま言う。
「痛みの処理にも慣れているんですね」
「お前さ」
俺は眉をひそめる。
「手当てのついでに人の内側を読むのやめろ」
「無理です」
彼女は即答した。
「血の匂いは、隠していたものを少しだけ表へ出します」
「とても観測しやすい」
「意味がわからない」
「そうでしょうね」
黒羽は静かに笑った。
「でも、そのうち分かります」
距離が近い。
包帯を巻くためとはいえ、普通に近い。
しかも黒羽はそこを気にした様子がない。
顔を寄せるでもなく、引くでもなく、ただ当然の距離として俺の手を取っている。
それが余計に調子を狂わせた。
「……近い」
思わずそう漏らすと、黒羽の指が一瞬だけ止まった。
「嫌ですか」
「嫌っていうか」
俺は言葉を選ぶ。
「普通、もう少し離れるだろ」
「手当て中です」
黒羽は当たり前みたいに言う。
「血が出ている相手へ距離を取る理由がありません」
そこで少しだけ目を上げた。
「それとも、私だからですか」
「そういう言い方するな」
「やはり、そうなんですね」
「いや違うって!」
くそ。
会話の主導権が全然取れない。
しかも相手が真面目な顔で中二病みたいな言葉を言うせいで、どこまでが冗談でどこからが本気か読みづらい。
包帯が手の甲へ巻かれていく。
手つきは驚くほど丁寧だった。
「……慣れてるな」
俺が言うと、黒羽はわずかに目を細めた。
「包帯ですか」
「それも」
俺は左腕の包帯を見る。
「お前のそれも」
黒羽は自分の包帯へ視線を落とし、それから静かに言った。
「古傷です」
「たまに疼くので」
「中二病っぽい言い方だな」
「っぽい、ではなく」
黒羽は真顔で言った。
「中二病です」
「認めるんだな……」
「ええ」
彼女は包帯を結び終えた。
「世界を正しく観測するためには、凡庸な言葉では足りませんから」
「その理屈、たぶん一生わからないと思う」
「でも」
黒羽は、包帯を巻いた俺の手を一度だけ見てから言う。
「あなたは、少しだけこちら側です」
その一言で、空気が変わる。
冗談じゃない。
今のは、明らかに違う。
「……何の話だ」
「まだ、いいです」
黒羽はあっさり引いた。
「今は、その傷が塞がれば十分です」
「でも」
彼女はほんの少しだけ口元を上げる。
「ようやく会えました」
「会ったことないだろ」
「ええ」
黒羽は頷く。
「直接は、初めてです」
その“直接は”が、最悪だった。
やっぱりこいつ、前から見ていたのか。
その時、保健室の扉が勢いよく開いた。
「柊木さん!」
凛音だった。
そのすぐ後ろに朱麗もいる。
二人とも、俺と黒羽の距離を見て一瞬だけ止まる。
そりゃそうだろう。
手当て中だから仕方ないとはいえ、初対面の黒髪女子が、俺の手を取ったまま至近距離にいるのだ。
「……何してるんですか」
凛音の声が、珍しく少しだけ低い。
「手当てだけど」
「それは見れば分かります」
「じゃあ何で聞いたんだよ」
朱麗が一歩前へ出る。
その目は、完全に警戒の色だった。
「あなた、誰ですの」
黒羽はゆっくり凛音と朱麗を見る。
その視線は驚くほど冷静で、しかも少しだけ愉しそうだった。
「逢坂黒羽」
彼女は静かに名乗る。
「保健室の魔女です」
「まともな名乗り方をしてくださいまし」
「逢坂黒羽です」
黒羽は言い直した。
「でも、保健室の魔女のほうが本質に近いです」
「近くないだろ」
俺が思わず突っ込むと、黒羽はなぜか少しだけ満足そうにした。
「……その反応、やはりいいですね」
「何がだよ」
凛音が俺の包帯へ視線を落とす。
「傷は」
「浅い」
俺は答える。
「包帯巻いてもらっただけ」
「そうですか」
その返事は短かったが、明らかに完全には安心していない。
朱麗も同じだった。
「逢坂さん」
朱麗は丁寧な口調のまま言う。
「処置ありがとうございました」
「もう大丈夫ですので、あとはこちらで」
牽制だな、完全に。
だが黒羽は意外にも素直に手を離した。
「ええ」
「私はもう満足しましたので」
「満足って何だよ」
「包帯が綺麗に巻けたので」
絶対それだけじゃないだろ。
でも、それ以上は言わなかった。
黒羽は机の上の器具を静かに片づけ、それから保健室の窓際へ戻っていく。まるで、さっきまでの距離感が特別でも何でもなかったみたいに。
それが逆に不気味だった。
「……行きますわよ」
朱麗が低く言う。
「おう」
凛音も何も言わず頷く。
保健室を出る直前、ふと振り返ると、黒羽がこちらを見ていた。
目が合う。
彼女は、ほんの少しだけ笑った。
それは人懐こい笑みではない。
見つけたものへ印をつける側の笑みだった。
◇
廊下へ出ると、凛音がすぐに言った。
「危ないです」
「何が」
「全部です」
凛音はきっぱり言う。
「距離も、言い方も、見方も」
「かなり危ないです」
「同意ですわ」
朱麗も腕を組む。
「何ですの、あの人」
「初対面の距離感ではありませんでしたわよ」
「初対面だよ」
俺は言う。
「たぶん」
「“たぶん”なのが、もう嫌です」
凛音が珍しく少し強い口調で言う。
そこまで言われると、たしかにそうだと思う。
黒羽は明らかに、初めて会った反応ではなかった。
しかも、最後の“直接は初めて”だ。
あれをどう解釈しても、前から見ていたとしか思えない。
「……面倒が増えたな」
俺が言うと、朱麗がすぐに返す。
「かなり、ですわね」
「でも」
凛音は少しだけ目を細めた。
「たぶん、これが第三章の新しい火種です」
「お前までそういうこと言うのか」
「だって事実です」
凛音は言う。
「黒い封筒の次に来たのが、あの人なら」
「たぶん、偶然ではありません」
偶然ではない。
その言葉は、嫌なくらいしっくり来た。
逢坂黒羽。
保健室の魔女。
中二病全開の変人。
でも、たぶんそれだけじゃない。
彼女は、何かを知っている。
少なくとも、“普通の学園生活の外側”の匂いを少し持っている。
だから面倒だ。
かなり。
でも、無視できない。
「……とりあえず」
俺は息を吐く。
「次に会ったら、もう少しまともに話を聞く」
「一人で、は却下です」
凛音が即答する。
「ええ」
朱麗も重ねる。
「そこは忘れないでくださいまし」
「はいはい」
「はい、が軽いです」
「かなり軽いですわね」
「お前らほんとにさあ……」
でも、その返しに少しだけ笑ってしまう。
黒い封筒の次に現れたのは、保健室の魔女だった。
第三章はどうやら、最初から静かに済ませてくれる気がないらしい。




