第33話 黒い封筒と、知らない視線
第二章の終わり方は、きれいではなかった。
白鳳館は前へ進んだ。
学園の火種は消えないまま残った。
そして俺たちは、たぶんもう“見送り合うだけの距離”ではいられなくなっていた。
だから第三章の朝は、妙に中途半端だった。
何かが片づいた感じはある。
でも、肝心なものほど机の上へ出しっぱなしだ。
そういう時の朝は、やけに空が明るいくせに、頭の中だけ少し曇っている。
「……眠い」
教室へ入って席へ座るなりそう呟くと、前の席の森野がくるりと振り返った。
「珍しく素直だね」
「眠いものは眠いだろ」
「昨日遅かったの?」
「まあ、ちょっと」
本当はちょっとどころじゃない。
布団へ入ってからも、匿名問い合わせの文面と、白鳳館の勝負の日の余韻と、それから凛音と朱麗に“見送りません”と真正面から言われた時の空気が頭の中でぐるぐる回っていた。
ろくなものではない。
でも、全部を“なかったこと”にできるほど軽くもない。
岸本が後ろから机へ肘をついた。
「お前さ」
「最近の眠そうな顔、前とちょっと違うよな」
「何だよその観察」
「いや、前は“全部だるい”って顔だったじゃん」
岸本は言う。
「今は“だるいけど考えること多すぎる”って感じ」
「細かいな、お前ら」
「鍛えられたんだよ」
静かな声が横から落ちてくる。
凛音だった。
気づいたらいる。
もうほんとにこの現象へ慣れ始めてる自分が嫌だ。
「誰にだよ」
「私たちに」
凛音は平然としている。
その一歩後ろから、朱麗も教室へ入ってきた。
「ごきげんよう」
朱麗は軽く周囲を見回してから、俺の机のほうへ寄る。
「今日のあなた、少しだけ人間らしい顔をしていますわね」
「褒めてるのか、それ」
「半分くらいは」
「便利な返し定着しすぎだろ」
でも、こういうやり取りをしている時は少し楽だ。
匿名の問い合わせのことを忘れるわけじゃない。
でも、頭の中の輪郭が少しだけ人間の声で塗り替わる。
それが救いなのかどうかは、まだ分からないけど。
◇
一時間目が終わったあと、俺は自分の席へ戻ってきて、少しだけ違和感を覚えた。
机の上は変わっていない。
教科書も、ノートも、ペンケースも、朝置いたままだ。
でも、机の中に何か入っている気配がある。
紙だ。
この感覚は嫌だった。
机の中に見覚えのない紙が入っているなんて、それだけでろくな話じゃない。
「……どうしました?」
凛音が聞く。
「いや」
俺は声を落とす。
「なんかある」
「何がですの」
朱麗もすぐに寄ってくる。
俺は机の中へ手を入れた。
指先に触れたのは、ざらついた封筒だった。
黒い。
冗談みたいに黒い封筒だった。
長形でもなく、事務用の白でもなく、変に厚みもない。
なのに、その黒さだけで十分気持ちが悪い。
「……最悪だな」
思わずそう漏れる。
「見せてください」
凛音が手を差し出した。
俺は封筒を出して机の上へ置く。
差出人名なし。
宛名なし。
ただ、封がされているだけ。
朱麗の表情が、すっと硬くなった。
「学園内ですわね」
「たぶんな」
俺は言う。
「朝の時点ではなかった」
「一時間目の間に入れられたか、登校直後に気づかなかったか」
「どちらにしても」
凛音は封筒を見たまま言う。
「気持ち悪いです」
「かなりな」
俺は封を開いた。
中には、二つ折りの紙が一枚だけ入っていた。
広げる。
短い文章。
でも、その短さが余計に嫌だった。
あなたは脇役ではない。
次は見つける前に、こちらから会いに行く。
数秒、誰も何も言わなかった。
教室のざわめきは周りにちゃんとあるのに、そこだけ少し空気がずれた気がした。
「……は?」
最初に声を出したのは、意外にも朱麗だった。
ほんの少しだけ、ほんとうに少しだけ取り乱した声だった。
「何ですの、それ」
「こっちが聞きたいよ」
俺は紙を見たまま答える。
気持ち悪い。
かなり。
匿名問い合わせの時とは、嫌さの種類が違う。
あれは学校へ投げた文面だった。
今回は、完全に俺個人へ向けてきている。
しかも、“あなたは脇役ではない”だ。
その言い方は、偶然俺のことを知った人間のものじゃない。
少なくとも、少し前の俺の立ち位置を知っていて、それをわざとひっくり返しに来ている。
「外、ですか」
凛音が聞く。
「……いや」
俺は紙を見たまま答える。
「たぶん、学園内の可能性もある」
「そうですわね」
朱麗もすぐ頷く。
「匿名問い合わせは学校側へ揺さぶりを入れる手でした」
「でもこれは、完全に個人へ向けた“接触”ですわ」
「向こうが一歩近づいてきた」
「しかも」
凛音は紙の文字を指でなぞる。
「この“脇役ではない”って書き方」
「切り抜きだけを見ている人の言葉じゃない気がします」
そこだ。
まさにそこだった。
切り抜きを見て“動きがおかしい”と感じた人間なら、
“君は何者だ”とか、
“経歴を知りたい”とか、
そういう書き方になる。
でもこれは違う。
脇役ではない。
それは、俺の中にある“自分の位置取り”そのものへ触れてきている言葉だった。
その瞬間、背筋へ冷たいものが走る。
「……気持ち悪すぎるな」
俺が呟くと、凛音が静かに頷いた。
「はい」
「かなり」
「そこで使うと重いんだよな、その言葉」
「今は重いです」
凛音は珍しく、冗談めかさずに言った。
◇
昼休み、俺たちはいつもの中庭ではなく、空き教室へ移動した。
窓は開いていて、風は入る。
でも人の目は少ない。
こういう話をするにはちょうどいい。
机を三つ寄せ、その上に黒い封筒と紙を置く。
改めて見ると、余計に嫌だった。
黒い封筒はそれだけで悪趣味だし、中の文面は簡潔すぎて逆に温度が高い。
「まず」
朱麗が腕を組む。
「可能性を分けますわ」
「外部の観測者側が、ついに個人接触へ切り替えた」
「もしくは、学園内にこちらを見ている誰かがいる」
「両方もありえる」
俺は言う。
「外からの流れを知ってるやつが、中で動いてる可能性もある」
「はい」
凛音は頷く。
「しかも、今回は“問い合わせ”ではなく“予告”です」
「次は見つける前に、こちらから会いに行く」
「つまり、今後さらに直接的な接触をしてくる気です」
「それ、普通に怖いんだけど」
「普通に怖いです」
凛音はあっさり言った。
「かなり」
「便利だけど今は腹立たないな」
それくらい、嫌だった。
朱麗が封筒を軽く持ち上げる。
「この紙質」
「学園で使うコピー用紙ではありませんわね」
「わかるのか」
「少なくとも、うちの配布物の紙ではありません」
朱麗は言う。
「封筒も同じです」
「わざわざこういうものを用意している」
「つまり、ただの思いつきの悪戯ではない」
「だろうな」
俺は椅子へもたれて天井を見る。
考えることが増えた。
かなり。
「……お前ら」
俺は言う。
「一つ確認したいんだけど」
「何ですか」
凛音。
「何ですの」
朱麗。
「昨日の“見送りません”って話、まだ有効だよな」
その質問に、二人とも一瞬だけ目を見開いた。
たぶん、もう少し別の言い方をされると思っていたのだろう。
「ええ」
朱麗が最初に答えた。
「当然ですわ」
「はい」
凛音も続く。
「むしろ、今のでさらに強くなりました」
「強くなるのかよ」
「だって」
凛音は紙を見る。
「向こうから会いに来るって言ってるんですよね」
「じゃあ、こちらも一人で歩かせる理由がありません」
「ええ」
朱麗も言う。
「ここまで来て“では各自注意しましょう”で済ませるつもりはありませんわ」
「今後は、学園内の動きも白鳳館の動きも、前より共有を増やします」
「白鳳館も?」
「当たり前でしょう」
朱麗は俺を見る。
「もし向こうが本当にあなたを追っているなら、学園だけで終わる保証はありませんもの」
その視点は、たしかに必要だった。
白鳳館は、今や俺にとって“別の場所”ではない。
学園と切り離された逃げ場でもない。
どちらも地続きで、どちらにも人がいる。
そして、それを相手が辿り始めたら面倒どころの話では済まない。
「……そっか」
俺は小さく言う。
「そこまで来てるのか」
「はい」
凛音が静かに答えた。
「少なくとも、私たちはそこまで見ておくべきです」
◇
話が少し途切れた時、ふと教室の外から女子の笑い声が聞こえた。
昼休みらしい、軽い声だ。
その軽さと、今ここで机の上に置かれている黒い封筒の重さが、妙に噛み合わなかった。
「……何だよ」
朱麗が聞く。
「いや」
俺は苦笑する。
「周りは普通なんだなって思っただけ」
「普通ですわよ」
朱麗は言う。
「こちらが勝手に面倒を増やしているだけです」
「いや、勝手に増やしたわけじゃないだろ」
「半分くらいはそうです」
「そこだけ便利ワードの言い換えみたいにするな」
凛音が、小さく紙を指で押さえた。
「でも」
彼女は言う。
「これが来たから、逆によかったこともあります」
「何が」
「向こうが、こちらを“まだ脇役だと思っているわけではない”って分かったことです」
「それ、良いことか?」
「少なくとも」
凛音は少しだけ視線を和らげた。
「あなたが一人で“脇役のままで押し切る”のは、もう無理だって、外側も言ってきたわけですよね」
その言い方は、ひどく凛音らしかった。
痛いところを静かに刺してくる。
朱麗も頷く。
「ええ」
「ですから、そろそろ本気で前提を変えるべきですわ」
「あなたが“隠れて何とかする”のではなく」
「私たちも含めて、どう守るか、どう受け流すか、どう反撃するかを考える段階です」
反撃。
その言葉が少し引っかかった。
「反撃まで行くのか」
「必要なら」
朱麗は言う。
「ただ守るだけでは、相手の手数が増える一方ですもの」
「それは……」
俺は少し考える。
「たしかにそうかもしれない」
匿名問い合わせに対しては流した。
でも、その次に黒い封筒が来た。
受け身だけでは、たぶん向こうは止まらない。
だったら、どこかで“こちらも見ている”を返さないといけないのかもしれない。
そこまで考えたところで、凛音がぴたりと言った。
「一人で考え込むの、やめてください」
「まだ考えただけだろ」
「その“考えただけ”のあと、勝手に一歩出るので」
「……信用ないな」
「そこは、かなりありません」
「言い切るのかよ」
でも、返しながら少し笑ってしまう。
こういうやり取りがあると、黒い封筒の嫌さがほんの少しだけ薄れる。
全部が薄れるわけじゃない。
でも、“自分一人で受け止める”感じは確実に減る。
◇
放課後、須賀先生へ黒い封筒の件を共有した。
先生は文面を見て、かなり長く黙ったあとで言った。
「……悪趣味だな」
「でしょうね」
「しかも上手い」
須賀先生は紙を机へ戻す。
「正体を暴くでもなく、ただ“お前は脇役ではない”とだけ言ってくる」
「本人の中へ直接ノイズを入れる書き方だ」
「ええ」
朱麗が頷く。
「だから余計に嫌ですわ」
「学校としては、机へ物を入れられた時点で無視はできん」
先生は言う。
「ただし、騒ぎ立てすぎるのも違う」
「当面は情報部経由で校内動線を見直す」
「お前は」
先生は俺を見る。
「一人で何とかしようとするな」
「またそれですか」
「今日の件で、まだ言われ足りないなら相当だぞ」
それはそうかもしれない。
「……わかってますよ」
「昨日より本気か?」
「かなり」
そう答えると、先生の口元が少しだけ動いた。
笑いを堪えたな、今。
「感染って怖いな」
先生がぼそっと言う。
「でしょう?」
凛音が真顔で返す。
だめだ、ちょっと面白い。
◇
帰り道。
夕方の空が少しだけ赤い。
黒い封筒のせいで、今日は一日中どこか落ち着かなかった。
でも、それでも昨日までとは少し違う。
「……何ですか」
凛音が聞く。
「いや」
俺は空を見たまま言う。
「第三章って感じだな、と思って」
「またそういう言い方を」
朱麗が呆れたように言う。
「でも、かなりそうです」
凛音が真顔で言った。
「お前、そこは乗るのかよ」
「事実なので」
「便利ワードと事実で全部押し切るな」
でも、二人とも少しだけやわらかい顔をしていた。
たぶん俺も同じだ。
黒い封筒は嫌だ。
知らない視線も最悪だ。
でも、それを前にしても完全には一人になっていない。
それだけで、少しだけ違う。
「……次、どうなるんだろうな」
俺が呟くと、朱麗が言う。
「少なくとも、静かには済みませんわね」
「はい」
凛音も頷く。
「でも、見つけられる前に、こちらも見ます」
その返しが、妙に頼もしかった。
黒い封筒の向こうにいる何かは、まだ姿を見せない。
でも、もう近い。
第三章は、たぶんここから本当に始まる。




