第32話 見送らない二人
匿名の問い合わせが届いた翌日、朝の空気は妙に乾いていた。
晴れている。
風も弱い。
学園へ向かう道にはいつも通りの学生がいて、コンビニの前では制服姿の集団がパンを片手に笑っている。
なのに、こちらの側だけ妙に現実味が濃い。
匿名の文面。
“安全管理上の観点”という建前。
でも実際には、学校の側へ“柊木って何なんだ”をじわじわ積もらせるための、嫌に手慣れた一手。
あれが一通だけで終わるとは思えなかった。
だから朝から、頭のどこかがずっと動いている。
次に来るなら何か。
学園の中か外か。
直接か、また周囲へ揺さぶりを入れる形か。
どこを見れば、その前触れを拾えるか。
そこまで考えながら歩いていたせいで、不意に横から飛んできた声に少しだけ肩が跳ねた。
「また、遠い顔です」
凛音だった。
「遠い顔って何だよ」
「一人で先に行こうとする時の顔です」
「便利な分類だな」
「便利です」
凛音はいつも通り淡々としている。
「かなり」
「そこに重みを乗せるなよ」
少し前を歩いていた朱麗が、肩越しにこちらを見る。
「朝から釘を刺されて当然ですわね」
「昨夜の“わかった”は、たぶん半分くらいしか本気ではありませんでしたもの」
「お前ら、ほんとにそこだけは見逃さないな」
「見逃す理由がありませんわ」
朱麗は言う。
「今回は、もう“様子を見ましょう”で見送る段階を過ぎていますもの」
その言い方は、昨日の続きだった。
見送りません。
却下です。
わたくしたちはもう関係者ですもの。
あの狭い通路で、凛音に袖を引かれ、朱麗に手首を押さえられた感覚が一瞬だけ蘇る。
冗談じゃない。
でも、あれが冗談じゃなかったこともちゃんとわかっている。
「……わかってるよ」
俺が小さく言うと、凛音が少しだけ目を細めた。
「昨日よりは、本当にそう思ってる顔です」
「お前の顔判定、どんどん精度上がってない?」
「見ているので」
「便利ワード禁止」
「困ります」
でも、そういうやり取りがあるだけで、頭の中のざらつきが少しだけほどけるのも事実だった。
◇
学園の空気は、以前より表面上は静かだった。
切り抜きの件そのものを、露骨に話題にする生徒は減っている。
その代わり、視線は残っている。
ただし形が変わった。
“面白いものを見る”ではなく、
“最近ちょっと妙だが普通に生活しているやつを見る”感じ。
そこに、匿名の問い合わせの一件が加わったことで、教師側にも薄い緊張が走り始めているのがわかる。
厄介だ。
でも、まだ崩れてはいない。
教室へ入ると、森野がすぐにこちらを見た。
「おはよ」
「おはよう」
「……何か進んだ?」
質問が直球になってきたな。
「進んだっていうか」
俺は席へ鞄を置く。
「嫌な感じが、少しだけ形になった」
「それ全然良くないやつじゃん」
「そうだよ」
岸本も後ろから身を乗り出してくる。
「先生のほう、何て?」
「表向きは流す」
俺は答える。
「でも、同じのが続くと面倒になる」
「だろうな」
岸本は眉をひそめる。
「匿名ってのが嫌だわ」
「真正面から来るならまだ話が早いのに」
「それができるなら、たぶん最初からこうなってない」
そう返した時、教室後方の扉が開く。
凛音と朱麗だ。
もはやクラスの空気も、そこまで大きくは揺れない。
前なら“何でこの二人が”だったのに、今は“ああ、来たな”のほうが強い。
それが助かる。
でも、やっぱり逃げ道は減る。
「おはようございます」
凛音が言う。
「ごきげんよう」
朱麗も続く。
「最近さ」
森野が小さく言った。
「ほんとに三人セットで自然になってきたよね」
「それ言われるの何回目だ」
「でも事実だし」
岸本が肩をすくめる。
「前より空気が安定してる」
「変だけど」
「最後の一言いらないだろ」
凛音が、俺の机の横へ来て静かに言った。
「昼休み、少し話せますか」
「話すだけならな」
「そこに条件をつける時点で怪しいですわね」
朱麗が刺す。
「お前らが過敏なんだよ」
「そうでしょうか」
凛音は首を傾げる。
「今の、かなり“先に動きたい”の顔でしたけど」
「お前ほんとに……」
否定しきれないのが腹立たしい。
◇
昼休み。
場所は中庭ではなく、実習棟裏の小さなベンチだった。
人は少ない。
でも完全な死角ではない。
昨日の“狭い通路で密談”よりは、だいぶ健全だ。
「で」
俺はベンチへ腰を下ろす。
「何だ」
「確認です」
凛音が即答した。
「何の」
「あなたが、どこまで一人で動くつもりなのか」
「直球だな」
「昨日、止めたので」
凛音は言う。
「その続きです」
朱麗も腕を組んだまま続ける。
「ええ」
「昨夜は、とりあえず“単独行動は禁止”で止めました」
「ですが、こちらとしては、そこで終わらせるつもりはありませんの」
「終わらせるつもりがないって」
「今後、向こうがまた何か打ってきた時」
朱麗はまっすぐに言う。
「あなたが“自分が前へ出たほうが早い”で動く可能性が高いからです」
「……信用ないな、俺」
「その点については、かなりありません」
凛音が静かに言った。
「傷つくな」
「でも事実です」
「便利ワードと事実で殴るなよ……」
だが、そこまで言われても完全には反論できない。
俺は小さく息を吐いた。
「たしかに、昨日の時点では」
正直に言う。
「一人で当たりを取りに行くことは考えた」
「匿名文面の出どころとか、次の接触がどこから来るかとか」
「先に見つけられるなら、そのほうが早いと思った」
凛音も朱麗も、黙って聞いている。
「でも」
そこで少し言葉を選ぶ。
「昨日止められて、少し考えた」
「向こうは俺本人だけを見てるわけじゃない」
「学校へ文面を投げて、周囲を揺らしてくる」
「そこへ俺が一人で先走ると、逆に向こうの思う形になる可能性がある」
「はい」
凛音が頷く。
「そこまで考えられるなら、大丈夫です」
「まだ全部大丈夫とは言っていませんわ」
朱麗はすぐに重ねる。
「ですが、昨夜よりは進歩ですわね」
「お前らの合格ライン、地味に厳しくない?」
「当然でしょう」
朱麗は言う。
「今回の件、白鳳館とは違います」
「失敗しても“改善しましょう”では済まないかもしれない」
その言葉は、きつい。
でも、間違ってはいない。
学園の切り抜き問題は、いまのところまだ直接的な被害にはなっていない。
でも、だからこそ危ない。
じわじわ輪郭を削られるものは、気づいた時には立ち位置ごと変わっていることがある。
「だから」
凛音が言う。
「今後は、私たちも一緒に見ます」
「見送りません」
「ただ止めるだけでもなくて、ちゃんと一緒に対処します」
その言い方が静かなのに強い。
朱麗も続けた。
「ええ」
「白鳳館の時と同じですわ」
「あなた一人の勘や判断に頼るのではなく、こちらも情報と動きで支えます」
「そうしないと、たぶん今回は足りませんもの」
「……それ、白鳳館の話みたいだな」
思わずそう漏らすと、朱麗が少しだけ目を細めた。
「同じですわよ」
「何を残して、何を見て、どこで勝つかを決めるのですから」
たしかにそうだった。
白鳳館では、
全部を毎日頑張るのではなく、
残す場所を決めて、
勝負の日を見極めて、
みんなで支える形にした。
学園の件も、本質は同じかもしれない。
一人で全部を背負わない。
どこを見て、どこで止めて、どこで動くかを決める。
そして、それを共有する。
「……わかった」
今度は昨日より、少しだけはっきり言えた。
凛音がすぐに反応する。
「今のは、かなり本気でしたね」
「お前、その判定機能どこにあるんだよ」
「顔と声です」
「高性能すぎるだろ……」
すると、朱麗がわずかに息を吐いた。
「ようやくですわね」
「何が」
「あなたが、“止められて不満”ではなく、“一緒にやる前提”で返したことです」
朱麗は少しだけ視線をやわらげる。
「それだけで、こちらはかなり違いますのよ」
その言い方が、妙にまっすぐで困る。
「……お前ら」
俺は少しだけ苦笑する。
「そこまで本気で来られると、逆に逃げにくいんだけど」
「逃がしません」
凛音が即答した。
「ええ」
朱麗も重ねる。
「今度は見送りませんもの」
昨日と同じ言葉なのに、今日は少しだけあたたかく聞こえた。
◇
その日の放課後、俺たちは須賀先生へ話を通した。
単独では動かないこと。
もし同種の匿名問い合わせが来たら、文面の癖と送信タイミングを蓄積すること。
外部見学や講話が入る日は、できるだけ視線の動きを複数人で拾うこと。
先生は最後まで腕を組んだままだったが、話が終わる頃には少しだけ表情を緩めた。
「ようやく、お前が“自分一人だけで見に行く”以外の話をするようになったな」
「ひどい言い方だな」
「事実だろ」
須賀先生は言う。
「だが、悪くない」
「白雪と九条も、そのまま頼む」
「はい」
「ええ」
返事が揃う。
先生が少しだけ目を細めた。
「そこはもう本当に息が合ってるな」
「不本意ですわ」
「でも必要なので」
「……お前ら、ほんとにその二段構え便利だな」
それで会議は終わった。
大きく何かが解決したわけじゃない。
匿名の相手が消えたわけでもない。
次の一手が見えたわけでもない。
でも少なくとも、ひとつだけ変わったことがある。
俺が、“今回は一人で見に行くべきだ”から少しだけ降りたこと。
そして、二人が“見ているだけ”ではなく“並んで対処する側”へ完全に立ったこと。
それは、小さいようでいてかなり大きかった。
◇
帰り道。
夕方の光が少しやわらかくなった道を、三人で並んで歩く。
「……終わりましたね」
凛音が言う。
「終わってはないだろ」
「区切り、です」
凛音は静かに言い直した。
「少なくとも、第二章の最後としては」
「お前、そこでメタみたいなこと言うなよ」
「でも、かなりそんな感じです」
朱麗が小さく笑った。
「たしかに」
「白鳳館が前へ進み、学園の火種は次へ持ち越し」
「ちょうど章の終わりみたいですわね」
「お前まで乗るのか」
「便利ですもの」
「感染しきってるな……」
でも、その軽口のおかげで少しだけ肩の力が抜ける。
切り抜き問題は、まだ消えていない。
むしろここから先、本格化するかもしれない。
白鳳館は進んだが、そちらはそちらで運用を回し続けなければならない。
やることは多い。
かなり多い。
それでも今は、前より少しだけ視界がある。
「……何ですか」
凛音が聞く。
「いや」
俺は少しだけ空を見上げる。
「面倒だけど、前よりマシだなと思って」
「かなり?」
「かなり」
「便利ですね」
「お前のせいだよ」
朱麗がそのやり取りを聞いて、ほんの少しだけやわらかい声で言った。
「でも、それでいいんですのよ」
「全部を好きになる必要はありません」
「面倒でも、前よりマシなら十分前ですもの」
その言葉は、今日の締めとしてかなりきれいだった。
前よりマシ。
面倒だけど進んでいる。
それで十分前。
白鳳館にも、学園にも、たぶん俺たちにも当てはまる。
「……じゃあ」
俺は言う。
「次は、その前をちゃんと掴むか」
「はい」
凛音が頷く。
「ええ」
朱麗も頷く。
その返事の揃い方に、もう前ほど抵抗を覚えなかった。
たぶん第二章は、ここで終わる。
白鳳館は前へ出た。
学園の火種は、次章で本気になる。
そして俺たちは、見送り合う距離を少しだけ越えた。
それが良いことなのかどうかは、まだ断言できない。
でも少なくとも――。
「……もう、完全に脇役のままではいられないか」
小さく呟いたその言葉は、前みたいな嫌悪だけではできていなかった。




