第31話 切り抜きの向こうから、名前が届く
白鳳館でちゃんと勝てた日の翌朝ほど、現実は妙に冷たい顔をして戻ってくる。
せっかく少しくらい余韻に浸らせろよ、と思う。
でも、そういう都合のいい間をくれないのが現実というやつだった。
学園へ戻る電車の窓に映る自分の顔は、思っていたより悪くない。
疲れてはいる。
けれど、白鳳館での二度目の勝負がちゃんと形になった手応えがあるからか、ただ削られた顔ではなかった。
そこへ、隣に立つ凛音が静かに言う。
「今日は少し違いますね」
「何が」
「顔です」
凛音はいつも通りの調子で言う。
「前みたいな“全部まとめて面倒”じゃなくて、“次に行く前の顔”になっています」
「便利な分析だな」
「かなり」
「その使い方、ほんとに馴染んだな」
向かいに座る朱麗が、小さく息を吐く。
「でも、わかりますわ」
「少なくとも今日は、“白鳳館で勝てた分だけ学園が重い”顔ではありませんもの」
「お前それ、褒めてるのか」
「半分くらいは」
「お前も感染しきってるな……」
白鳳館は前へ進んだ。
その事実は、たしかに大きい。
でも、学園の切り抜き問題が消えたわけじゃない。
むしろ、外部見学で見えた“探している側”の影は、俺の中でずっと薄く残っていた。
問題は、そういう時に限って次が来ることだ。
◇
朝の教室は、以前よりずっと“いつも通り”に見えた。
森野は席でノートを広げているし、岸本は後ろで誰かと昨日のゲームの話をしている。窓際には春の光が入っていて、切り抜きだの外部探索者だのが入り込む余地なんてないようにも見える。
でも、それは見た目だけだ。
俺が席へ着いた瞬間、森野が振り返った。
「おはよ」
それから少し声を落とす。
「なんか来てる」
「何が」
「これ」
森野はスマホを軽く見せる。
「うちのクラスの連絡網じゃなくて、学年共有の質問箱みたいなやつ」
「“学園の柊木って、外部実習経験ある人?”って」
胃のあたりが少し冷える。
「……雑だな」
「雑だけど、嫌な雑さだよね」
森野は眉をひそめる。
「前みたいなノリの冷やかしじゃない感じ」
岸本も、後ろから机へ肘をついて言う。
「俺のところにも似たの来た」
「“実習動画のあいつ、どこかで見た動きなんだけど名前わかる?”って」
「名前わかる? か……」
俺は小さく繰り返す。
それは、かなり嫌だった。
直接的ではない。
でも、“もう顔も動きも認識され始めている”という匂いがある。
「先生には?」
「まだ」
岸本が答える。
「お前に先言ったほうがいいかと思って」
「ありがとよ」
「貸し二な」
「高いんだよ、お前の貸し」
そう返した時、教室の扉が開いた。
反射的にそちらを見る。
凛音だろう、と思った。
半分当たりで、半分外れだった。
入ってきたのは、情報部の腕章をつけた上級生だった。
そしてその一歩後ろに、凛音と朱麗がいる。
情報部の上級生は教室を見回し、まっすぐ俺の席へ来た。
「柊木」
低い声で言う。
「須賀先生から」
「今すぐじゃないが、一時間目のあと来てほしい」
「何かあったんですか」
「それは先生から聞いてくれ」
短くそう言って、上級生は去っていく。
教室の空気が、ほんの少しだけ変わった。
大きくざわつくほどじゃない。
でも、“何かは起きている”のは伝わる程度に。
「……嫌な呼ばれ方だな」
俺が呟くと、凛音がすぐ横まで来た。
「たぶん、あれです」
「あれ?」
「届いたんだと思います」
凛音は静かに言う。
「向こうから」
その言い方だけで、かなり嫌な予感が固まる。
朱麗も、今日は妙に無駄のない足取りで近づいてきた。
「一時間目が終わったら行きますわよ」
「お前らも来る前提なんだな」
「当然でしょう」
朱麗は即答する。
「ここで“では、ご武運を”と送り出す段階はもう過ぎていますもの」
その返し方が、妙に頼もしくて困る。
◇
一時間目は、たぶん人生で五本の指に入るくらい身が入らなかった。
黒板の字は写している。
ノートも取っている。
でも頭の半分は別のところにあった。
届いた。
向こうから。
その可能性は、前から見えていた。
見えていたのに、実際そうなったかもしれないと思うと、妙に身体の内側が冷えていく。
授業が終わる。
先生が出ていく。
同時に、凛音と朱麗が席の近くまで来る。
「行きます」
凛音が言う。
「はいはい」
俺は立ち上がった。
管理室ではなく、今日は実習棟奥の小会議室だった。
須賀先生と、先日も顔を見た情報部の上級生がいる。
そして机の上には、一枚のプリントアウトが置かれていた。
「来たか」
須賀先生が言う。
「何ですか」
俺が聞くと、先生はその紙を指で押さえた。
「問い合わせだ」
「学園に?」
「正確には、公開窓口へ届いた連絡をこちらで拾った」
先生は低く言う。
「送り主は匿名」
「だが内容が、例の切り抜きを見た人間にしか書けない」
俺は紙を受け取った。
短い文面だった。
——先日の学園公開映像に映っていた柊木という生徒について、外部実習経験の有無を確認したい。
——学生の動きとしては少し違和感がある。
——安全管理上の観点から、経歴確認が必要ではないか。
文面は丁寧だ。
だが、嫌な匂いがする。
心配しているふりをしている。
でも実際には、“こいつを見ろ”と差し出している。
「……最悪だな」
思わずそう漏れる。
「ええ」
朱麗が低く言う。
「かなり、ですわね」
「その使い方が今日はいちばん正しいな」
凛音が、俺の手元の紙へ視線を落としたまま言う。
「これ、ただの冷やかしじゃありません」
「“外部実習経験”という言葉の選び方が、かなり嫌です」
「どういう意味だ」
「表では安全管理を気にするふりをしている」
凛音は言う。
「でも実際には、“学生の動きじゃない”という違和感を、学校側自身へ意識させようとしている」
「つまり、本人ではなく周囲を揺らしにきています」
たしかに、そうだ。
俺個人へ直接来ていない。
学校へ投げている。
それが余計にたちが悪い。
先生も腕を組んだまま言う。
「匿名の問い合わせ自体は珍しくない」
「だが、この文面は嫌らしい」
「証拠はない。断定もしていない。だが、“見てるやつは見てる”という圧だけは残す作りだ」
「しかも」
情報部の上級生が補足する。
「送信元は辿りきれないようにしてある」
「雑な野次馬より、明らかに手慣れてる」
俺は紙を机へ戻した。
完全に、向こうから一歩来た。
しかも、直接殴るんじゃなく、周りへ空気を入れてくる形で。
「……来たか」
小さく呟くと、凛音がすぐ反応する。
「知っている種類ですか」
「前にも似たのはいた」
俺は低く答える。
「いきなり踏み込まない。まず周りへ違和感を渡して、そこから本人の居場所を削るやつだ」
「そういう言い方を、今あっさりするのね」
朱麗が言った。
「今さら誤魔化しても意味ないだろ」
俺は息を吐く。
「少なくとも、向こうは“探し方”を知ってる」
そこで少しだけ沈黙が落ちた。
たぶん先生も、凛音も、朱麗も、今の言い方に色々引っかかったはずだ。
でも誰もそこを深掘りしない。
今はそっちじゃないと分かっているからだろう。
「学校としては」
須賀先生が言う。
「問い合わせには当たり障りなく返す」
「個別生徒の経歴確認には答えない、で終わりだ」
「だが問題はその先だ」
「同じ手口が続くと、周辺へ少しずつ“柊木は何なんだ”が溜まる」
「ええ」
朱麗が頷く。
「だから、ここで放置はできませんわね」
「何か追えますか」
俺が聞くと、凛音が少し考えてから答えた。
「文面の癖は拾えます」
「あと、“安全管理”って言いながら本当に危機感を出したい人の文章じゃない」
「これは、内部を揺らすための文面です」
「なるほど」
「つまり」
朱麗が言う。
「相手は学校を本気で心配しているのではなく、“こちらが誰かに確認を始める空気”を作りたい」
「そういうことだな」
言いながら、頭の中ではもう別の計算が回っていた。
これが一回だけならいい。
でも、たぶん一回で終わらない。
同じような匿名の接触が続けば、教師でも事務でも“柊木って何なんだ”が積もる。
だったら、向こうが次を打つ前に何かしらの当たりを取りたい。
そこまで考えたところで、凛音がぴたりと言った。
「一人で先に動くのは禁止です」
「まだ何も言ってない」
「顔です」
「便利だな、お前ほんとに」
「かなり」
だめだ、ここだけは絶対に見逃さないな。
◇
管理室を出たあと、俺たちは人気のない資料倉庫脇の通路へ回った。
ここなら人は来ない。
だが狭い。
その“狭い”ことに気づいたのは、三人とも足を止めてからだった。
「……もっと広い場所なかったのか」
俺が言うと、朱麗が即座に返す。
「文句を言う前に、誰か来ない場所を優先しただけですわ」
「それはそうなんだけど」
狭い通路に三人。
距離が近い。
しかも今は内容が内容だ。
心拍数が上がるべき理由が一つで済まない。
「どうしますの」
朱麗が聞く。
「この件」
俺は壁に肩を預けて少し考えた。
「……確認したい」
「だから、それを一人でやるのは禁止です」
凛音が重ねる。
「いや、まだ行くとは言ってないだろ」
「でも、そう考えました」
凛音は真っすぐに言う。
「相手が次に何を打つか、その前に動きたくなっていますよね」
「……お前ほんとに」
「見ています」
そこで朱麗が少しだけ前へ出た。
「わたくしも同意ですわ」
「今のあなたは、“危険だからこそ自分が先に出るべき”という顔をしています」
「つまり、行く気です」
図星すぎて、少し腹が立つ。
「じゃあどうする」
俺は逆に聞く。
「何もしないで、次の匿名文面待つのか」
「そうは言っていません」
朱麗の声は低かった。
「ですが、“あなたが一人で相手の線を追う”のは却下です」
「ええ」
凛音も頷く。
「それは前と同じです」
「前って何だよ」
「一人で抱えて、一人で見に行って、一人で何とかしようとする流れです」
その指摘が、妙に刺さる。
たしかにそうだ。
切り抜きの時も、外部見学の時も、結局俺は一人で先に当たりをつけようとしていた。
止められたから動かなかっただけで。
「……でも」
俺は言う。
「今回ばかりは、俺が出たほうが早い可能性もある」
「それ、危ない発想ですわ」
朱麗が即座に返す。
「何が」
「“自分が危険を引き受ければ済む”と思ってるところがです」
朱麗はまっすぐ俺を見る。
「今回の匿名文面、相手はあなた本人より、周囲を揺らしてくる手を使っています」
「つまり、あなたが一人で出ても、そこで終わる保証がない」
「……」
「はい」
凛音も静かに続ける。
「だからこそ、一人で見に行く意味が薄いです」
「あなたが危険に寄った分だけ、向こうが得をする可能性すらあります」
返せない。
返せないのが、腹立たしいくらいに正しい。
俺が黙ったままいると、ふいに袖が引かれた。
見ると、凛音だった。
強くではない。
でも、はっきりと止める意思のある力だった。
「今度は、見ているだけじゃありません」
その言い方は静かなのに、妙に強かった。
さらに反対側から、手首へ軽く触れる感覚が来る。
朱麗だ。
「ええ」
朱麗も言う。
「却下ですわ」
「今度は見送りません」
狭い通路の中で、右から袖を引かれ、左で手首を押さえられている。
絵面だけ見ればだいぶひどい。
でも空気は、冗談ではまったくなかった。
「お前ら」
俺は少しだけ声を落とす。
「今それ、かなり反則だろ」
「反則でも構いません」
凛音は言う。
「止める必要があるので」
「ええ」
朱麗も続く。
「わたくしたちは、もう“関係者”ですもの」
その一言で、息が詰まる。
関係者。
白鳳館でも、
学園でも、
切り抜きの件でも、
たぶんそれ以外でも。
その言葉は、今の俺たちの立ち位置をかなり正確に言っていた。
「……わかったよ」
ようやくそう言うと、二人とも少しだけ力を抜いた。
「本当ですか」
凛音が聞く。
「たぶんな」
「そこで濁すな」
朱麗が即座に刺す。
「いや、完全に納得してるわけじゃないからな」
「納得の有無ではありませんわ」
朱麗は言う。
「単独行動は禁止です」
「かなり、ですね」
凛音も重ねる。
「便利ワードみたいに言うなよ……」
でも、そのやり取りで少しだけ空気が戻る。
たぶん本当に、今回は一人で動くべきじゃないのだろう。
それは頭では分かっていた。
分かっていたのに、身体のほうが先に“俺が出たほうが早い”と判断してしまう。
そこが、たぶんいちばん厄介だった。
◇
昼休みに教室へ戻ると、森野と岸本がほぼ同時にこちらを見た。
「何かあった?」
森野が聞く。
「顔がいつもより真面目」
岸本が続ける。
「お前ら最近ほんとにその辺見るな」
「鍛えられたからね」
森野は苦笑した。
「で?」
少し迷ったが、全部を隠すほうが今は逆に不自然だった。
「匿名の問い合わせが学校に来た」
短くそう言うと、二人の顔から笑いが消えた。
「……あの切り抜き絡み?」
岸本が聞く。
「たぶん」
「うわ、嫌だなそれ」
「かなり嫌だよ」
俺が答えると、森野が静かに言った。
「でもさ」
「今、前より一人で抱えてる感じしない」
「何だよそれ」
「いや」
森野は視線を少し横へやる。
そこには凛音と朱麗がいる。
「ちゃんと、止めてくれる人いるじゃん」
その言葉に、少しだけ何も返せなくなる。
いる。
たしかにいる。
しかも、ただ隣に立つだけじゃなく、必要な時は“却下”って言って止めてくるくらいに。
「……面倒だけどな」
俺が言うと、岸本が笑った。
「でも前よりマシなんだろ?」
「……たぶんな」
「出た、“たぶん”」
森野が言う。
「でも最近、その“たぶん”のあと、ちゃんと残るよね」
その一言は、地味に深かった。
残る。
逃げ切らない。
ごまかしきらない。
たしかに最近の俺は、そういう場面が増えている。
「……何ですか」
凛音が聞く。
「何でもない」
「その“何でもない”も、何でもない時の顔じゃないですわ」
朱麗まで言う。
「お前らほんとに容赦ないな」
「必要なので」
「便利だな」
その返しをしながら、俺は少しだけ思う。
匿名の文面は嫌だ。
探られている感じも最悪だ。
これからもっと面倒になる気しかしない。
でも、その面倒のど真ん中に、自分一人だけが立っているわけじゃないことは、もう認めるしかなかった。




