第19話 消されたはずの数秒を、誰が拾ったのか
嫌な予感というものは、だいたい静かな時に育つ。
昼休みの中庭で、白鳳館からの再訪予約に少しだけ救われて、ついでに桜餅と一口試作を囲みながら、またしても距離感のおかしい事故を起こした翌日。学園の空気は、表面上かなり落ち着いていた。
ざわつきは減った。
廊下でひそひそ声が止まる頻度も減った。
教室に入った時の“あ、来た”みたいな視線も、昨日よりは薄い。
だからこそ、逆に嫌だった。
騒がしいうちはまだいい。
雑で、軽くて、散りやすいからだ。
でも静かになると、残るやつだけが残る。
「……静かすぎるんだよな」
午前の授業と授業の間、窓際で腕を組みながらそう呟くと、すぐ隣から声がした。
「何がですか」
凛音だった。
最近ほんとうに、気づいたら横にいる。
それ自体にだいぶ慣れ始めている自分が少し嫌だ。
「空気」
俺は窓の外を見たまま言う。
「昨日より静かだろ」
「はい」
凛音も同じ方向を見る。
「でも、良い意味の静けさではないですね」
「わかるのか」
「わかります」
凛音は淡々と答える。
「昨日までの視線は“気になる”が多かったです」
「今日は、“確認したい”が混ざっています」
「その違い、日常でいる?」
「今は日常ではありません」
その言い方には、妙な重みがあった。
切り抜き問題は、もうただの学園の噂じゃない。
学園の外へ出て、外から戻ってきて、また別の形で校内へ染み込んでいる。
たぶん今は、そういう段階だ。
そこへ、教室後方から規則正しい足音が近づいてきた。
「お二人とも、またずいぶん密そうなお話ですわね」
朱麗だった。
いつも通り隙のない制服姿。
けれど今日は、その目が昨日より少しだけ真面目だった。白鳳館のことで機嫌が上向いているはずなのに、それとは別に緊張がある顔だ。
「何かあったか」
俺が聞くと、朱麗は少しだけ周囲を見た。
今は授業の合間で、教室のあちこちに人がいる。
聞こえる距離ではないが、安心して話せる距離でもない。
「昼休み」
朱麗は短く言った。
「できれば、人の少ない場所で」
「重い?」
俺が聞くと、凛音が答える。
「かなり」
「最近その便利ワードの使い方がうまくなってきてるの、地味に嫌だな」
「必要なので」
「認めるんだな」
そこでチャイムが鳴り、会話はいったん切れた。
だが、その短いやり取りだけで十分だった。
昼に良くない話が来る。
しかも、たぶんただの噂ではない。
◇
昼休み。
俺たちは中庭ではなく、本校舎の屋上へ上がった。
今日は点検か何かで扉の鍵が開いていて、誰もいない。風は少し強いが、そのぶん人の声も上がってこない。フェンスの向こうに見える街は穏やかで、こんな場所なら深刻な話なんて似合わないようにも思える。
でも、今の俺たちにはちょうどよかった。
「で」
扉が閉まるのを待ってから、俺は言う。
「何があった」
凛音がスマホを取り出した。
「昨日の夜、もう少し追っていました」
「例の切り抜きを最初に広げたアカウント群です」
画面には、いくつものアカウント名、投稿日時、短いコメント、引用の連なりが並んでいた。ぱっと見た感じは、ただの探索系まとめ垢や、配信切り抜き好きの雑多なアカウントに見える。
だが、凛音は指先でいくつかをなぞりながら言った。
「表向きは、全部ただの観察です」
「探索配信の感想、学生実習の雑感、動きの良かった場面の紹介」
「でも、見ている対象が偏っています」
「偏ってる?」
「“学生にしては上手い動き”だけを拾っていますわ」
朱麗が、横から静かに言った。
凛音は頷く。
「ええ」
「派手な魔法や、大きな事故、わかりやすい炎上場面はほとんど拾っていません」
「なのに、危険察知、足運び、味方の庇い方、視線誘導、そういう“わかる人だけわかる”部分だけは不自然なくらい残している」
俺は凛音からスマホを受け取り、画面を見た。
気分が悪くなるくらい、その通りだった。
普通の視聴者なら流すような数秒。
でも現場を知っている人間なら、そこで何が起きていたかがわかる切り取り方。
灰牙犬の牙を外した角度。
通路幅に対して無駄がない足の切り返し。
倒れた岸本の位置へ入るまでの一拍のなさ。
まるで、派手さではなく“癖”を探しているみたいな切り抜き方だった。
「……これ、ただの面白半分じゃないな」
思わずそう漏れる。
「はい」
凛音は即答した。
「少なくとも、“すごい学生を見つけた”というテンションではありません」
「“こういうやつが本当に学生に紛れているのか”って見方ですわね」
朱麗の言い方が、妙に正確だった。
俺は画面から目を離せなかった。
嫌な既視感がある。
こういう見方をする連中を、俺は少し知っている。
ただの観客じゃない。
場数を踏んだ人間が、同じ種類の匂いを嗅ぎ分ける時の見方だ。
「……気分悪いな」
「そうでしょうね」
朱麗は腕を組む。
「しかもさらに嫌なことに、このアカウントの一部、外部探索者の小さな情報交換板とも繋がっていますの」
「小さな、って」
「表立って企業や配信で活動している連中ではなくて」
凛音が引き取る。
「もっと現場寄りです」
「非公開ではないけど、普通の学生がわざわざ覗きに行くような場所ではない」
「そこで、“学生の顔をした経験者”みたいな話題が時々出ています」
胸の奥が、ひやりと冷える。
ただの噂ならまだいい。
野次馬ならまだましだ。
でも、“探している”なら話が違う。
「……偶然じゃないな」
俺が言うと、凛音が少しだけ目を細めた。
「やっぱり、そう思いますか」
「思う」
俺はスマホを返す。
「切り抜き方が、“こいつ誰だ”じゃなくて、“こういう動きのやつを見落とすな”なんだよ」
言い終わってから、自分で少しだけ眉をひそめた。
今の言い方は、あまりにも内側の人間の言い方だ。
ただの高校生が自然に出していい結論じゃない。
凛音は、その違和感を見逃さなかった。
「前にも」
彼女は、風へ溶けるような静かな声で言った。
「こういう目で見られたこと、ありますよね」
風が吹いた。
フェンスに絡んだ古い注意テープがばたつく。
その音が、妙に大きく聞こえた。
すぐには答えられない。
答えたくない、のほうが近い。
でも、ここで黙ったままでも、たぶん何も軽くならない。
「……ある」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど低かった。
凛音も、朱麗も、何も挟まない。
それが逆につらい。
「全部は言えない」
俺はフェンスに片手をついて、街を見た。
「でも、こういう見方をするやつらは少し知ってる」
「“学生にしては上手い”じゃなくて、“場数を踏んだ人間の動きが混ざってる”って嗅ぎ取る側だ」
「どうして知っているんですの」
朱麗が静かに聞く。
「……昔、近いところにいたからだよ」
嘘ではない。
でも、本当の全部でもない。
言ったあとで、自分でもひどく曖昧だと思った。
だが凛音は、その曖昧さごと受け止めるみたいに小さく頷いた。
「わかりました」
「今は、それで十分です」
その返しが、やさしいのに逃げ道にもなっていて、少しだけありがたかった。
だが、そのタイミングで風が急に強く吹いた。
屋上特有の、巻き込むような風だ。
凛音のスカートが大きく煽られかける。
考えるより先に身体が動いていた。
一歩、前に出る。
凛音と風の間へ滑り込み、フェンス側から彼女を隠すように立つ。
「っ」
凛音が小さく息をのんだ。
「この位置、風通りすぎだろ」
俺はなるべく何でもない声で言った。
「……そうですね」
返事は遅かった。
凛音の髪が風で流れて、俺の肩に少し触れる。
近い。
近いけど、今はそこを意識しないほうがいい。
――と思ったが、相手がどうかは別問題らしい。
「柊木さん」
「何だ」
「そういうの、ずるいです」
「何が」
「守るのが、自然すぎるところです」
凛音は少しだけ視線を逸らした。
「調子が狂います」
「……知らん」
「知ってください」
「無茶言うな」
そのやり取りを、少し離れた位置から見ていた朱麗が、妙に静かな顔をしていた。
「九条?」
呼ぶと、朱麗は一拍遅れてこちらを見る。
「何ですの」
「お前今、だいぶ嫌そうな顔してたぞ」
「していませんわ」
「いや、してた」
「……少しだけです」
「認めるんだな」
朱麗はふんと鼻を鳴らした。
「だって、こちらは真面目な話をしていたというのに」
「白雪さんだけ、妙に“守られた側”みたいな空気になっていますもの」
「なってないだろ」
「なっています」
朱麗はきっぱり言う。
「かなり」
「そこで使うなって」
でも、その少しだけ刺のある言い方が、逆に空気を日常へ引き戻してくれる。
ありがたいような、ありがたくないような。
「話を戻しますわ」
朱麗は腕を組み直した。
「問題は、この“探している側”がどこまでこちらへ近づくかです」
「学園の中へ来る可能性もある」
俺は言う。
「正面から“柊木を見に来た”なんて言わないだろうけど、進路講話でも合同実習でも、何でも口実にはなる」
「ええ」
凛音が頷く。
「だから今は、“来るなら来るで見抜く”前提でいたほうがいいです」
「……それ、今の俺と同じこと考えてないか」
「たぶん同じです」
凛音は言った。
「でも、そこが危ないとも思っています」
「どういう意味だよ」
「あなた、今“来るなら先に見つければいい”って顔をしました」
凛音はまっすぐ俺を見る。
「つまり、もう一人で対応するつもりだった」
図星すぎて、少し腹が立った。
「まだ決めてない」
「顔です」
今度は朱麗が言う。
「そういう時のあなたは、妙に静かになりますわ」
「一人で片づけに行く前の顔です」
「お前ら最近ほんと、そこだけ息が合うな」
「不本意ですわ」
「でも必要なので」
「便利だな、ほんとに……」
結局、結論はその場では出なかった。
今わかったのは三つだけだ。
誰かが探していること。
しかも、ただの野次馬ではないこと。
そして俺には、その手つきに少し覚えがあること。
それだけで十分、厄介だった。
◇
放課後、教室へ戻ると森野が心配そうに聞いてきた。
「ねえ、大丈夫?」
「何が」
「何がって……」
森野は困ったように言う。
「昼休み、なんかすごい真面目な顔で屋上行ってたし」
「屋上に行くだけでそんな顔に見えるのか」
「見えるよ」
岸本が横から言う。
「ていうか最近のお前、ちょっと前より“考えてる顔”多い」
「前は何だったんだよ」
「無関心を装ってる顔」
「ひどいな」
でも、その評価はそんなに外れていない気がした。
俺は苦笑しながら椅子へ腰を下ろす。
「まあ、ちょっと面倒ごとが増えただけだ」
「だけ、で済ませる感じじゃないだろ」
「済ませたいんだよ」
岸本と森野が顔を見合わせる。
その時、教室後方の扉が開いた。
「柊木さん」
凛音だった。
だが今日は、その一歩後ろに朱麗だけではなく、見慣れない上級生の男子が立っていた。情報部の腕章をつけている。
「須賀先生からです」
凛音が言う。
「情報部経由で、少し協力が出ることになりました」
「早いな」
「必要なので」
「そこで締めるなよ」
だが、その瞬間、教室の空気はまた少し変わった。
情報部。
先生経由。
協力。
つまり、切り抜きの件は“気のせい”で済ませない方向へ、学園側も明確に舵を切り始めたということだ。
森野が小さく息をのむ。
岸本も笑いを引っ込める。
俺はゆっくり立ち上がった。
「……わかった」
「行く」
ただの脇役でいたい。
その気持ちはまだある。
でももう、そう言っているだけでは済まない段階に入っていた。




