第18話 静かな火種と、白鳳館からの便り
学園という場所は、面倒ごとに対して妙に順応が早い。
昨日まで「例の切り抜きの柊木」として俺を見ていた連中が、今日は「最近なんか白雪さんと九条先輩の両方といるやつ」みたいな、別方向の雑な認識へ移り始めている。
ありがたいのかどうか、正直かなり微妙だ。
ただ一つ確かなのは、視線の温度が昨日より少しだけ下がったことだった。
「……散ってるな」
午前の授業が終わり、教室の窓から中庭をぼんやり見下ろしながら呟く。
「何がですか」
すぐ横から、静かな声。
凛音だった。
最近この“気づいたら横にいる”現象、だいぶ心臓に悪い。しかも本人にはまったく悪気がないのが、余計にたちが悪い。
「視線」
俺は黒板の方を見たまま答える。
「昨日より“確かめたい”感じが薄い」
「その代わり、“何なんだこいつ”の雑味が増えてる」
「よかったじゃないですか」
凛音はあっさり言う。
「危険な興味より、少し変な男子のほうが扱いやすいです」
「評価が地味にひどいんだよな」
「事実の範囲です」
「便利だな、その言い方」
そこで、教室後方から乾いた足音が近づいてくる。
規則正しい。無駄がない。本人の性格がそのまま歩いているみたいな音だ。
「お二人とも、ずいぶん仲良く窓の外を眺めていますのね」
朱麗だった。
今日もきっちりした制服姿で、昼前だというのに隙がない。いや、よく見ればほんの少しだけ疲れているのだろうが、この人は疲れていても疲れて見えない方向へ全力を出してくる。
「仲良くはない」
「そうですか」
朱麗は軽く眉を上げる。
「では、自然に隣へ立っているだけですのね」
「お前、その言い方最近ちょっと意地悪くない?」
「最近ではなく、元からですわ」
そこは否定しないのか。
凛音が、そこで少しだけ視線を落としてから言った。
「でも、今日は悪くないです」
「見られている感じが、昨日よりだいぶ軽いので」
「はいはい、俺もそう思うよ」
俺は立ち上がり、鞄からスマホを取り出した。
「で、先生から何か来てるかと思ったけど――」
画面を見た瞬間、指が止まる。
メッセージが来ていた。
先生からではない。
白鳳館のグループ連絡だ。
「……白鳳館だ」
「何かありましたの?」
朱麗の声色が、ほんの少しだけ変わる。
学園モードのままでも、白鳳館の話題にはすぐ温度が乗る。それがこの人らしい。
俺はメッセージを開いた。
志摩さんからだ。
昨夜の試食会へ来ていた常連夫婦から、正式な再訪予約が入ったらしい。しかも今回は娘夫婦と孫まで連れてきたいとのこと。加えて、別の一組からも「白鳳館、なんだか最近空気が変わったと聞いた」と問い合わせが来ているらしい。
そこまで読み切ったところで、口元が少しだけ緩んだ自覚があった。
「どうでした?」
凛音が聞く。
「……来た」
「何がですの」
「再訪」
俺は画面を見たまま言う。
「試食会の夫婦が、次は家族連れて来るって」
「あと別口でも問い合わせが一本」
沈黙。
次の瞬間、朱麗が静かに息を吐いた。
「そう」
声は短いのに、そこへいろんな感情が詰まっていた。
「……ちゃんと届いたんですのね」
その言い方が妙に胸へ来る。
白鳳館が変わり始めたこと。
あの試食会が、一度きりの綺麗事で終わらなかったこと。
それを、朱麗はたぶんずっと怖がっていたのだろう。
凛音も俺のスマホ画面を覗き込み、少しだけ目を細めた。
「いいですね」
「“次も行きたい”って、一番強い感想の一つです」
「うん」
俺は頷く。
「宿は、再訪したいと思われて初めて本当に立ったって言えるからな」
「今の顔」
凛音がぽつりと言った。
「かなりうれしそうです」
「お前、本当にそこ見るよな」
「見えてしまうので」
便利ワードだな、ほんと。
朱麗が、わずかに唇を引き結んでから言う。
「……よかったですわ」
「お前がそう言うと、重みが違うな」
「当たり前でしょう」
朱麗は少しだけ顎を上げる。
「白鳳館は、わたくしにとって軽い場所ではありませんもの」
「それに」
そこでほんの少しだけ声がやわらぐ。
「あなたが、あそこを本気で見てくれたことも」
そこまで言ってから、朱麗は小さく咳払いをした。
「と、とにかく」
「今日の昼休みは、少し祝ってもよろしくて?」
「祝う?」
「ええ」
朱麗は俺のスマホをちらりと見てから言う。
「白鳳館の第一歩が、ちゃんと外へ届いたんですもの」
「それくらいは、しても罰は当たりませんわ」
その提案に、思ったより先に答えたのは俺だった。
「……それは、いいかもな」
言ってから、自分で少しだけ驚く。
前ならもっと、素っ気なく流していたと思う。
でも今は、それを流すほうが不自然だと感じてしまった。
凛音がその変化を見逃すわけもない。
「今日はかなり素直ですね」
「うるさい」
「でも、そういうほうがいいです」
凛音は静かに言った。
「白鳳館のことを聞いた時のあなた、すごく自然なので」
その“自然”という言い方が、少しだけくすぐったい。
◇
昼休み、中庭。
昨日より風があって、桜の花びらがよく落ちていた。
俺たちはいつものベンチへ向かう。
もう最近、この流れが妙に自然になってしまっているのが怖い。
「今日は購買じゃないんだな」
俺が言うと、朱麗が答える。
「昨日と同じだと芸がありませんもの」
「そこに芸を求めるな」
「でも今日は、少しだけ違う昼にしたいんです」
凛音が言った。
「違う昼?」
「はい」
凛音は手に持っていた小さな紙袋を差し出す。
「これ」
「何だよ」
「学園近くの和菓子屋です」
「朝、寄ってきました」
受け取って中を見ると、小さな桜餅が三つ並んでいた。
きれいだ。
派手ではないが、今日みたいな日にちょうどいい。
「お前、朝からこれ買いに行ったのか」
「白鳳館のお祝いなら、パンよりこっちかなと」
その言い方が、またやさしい。
「……かなり気が利くな」
「使い方、うまくなりましたね」
「便利なんだろ」
「はい」
認めるのかよ。
そこへ朱麗が、少し得意げに保冷バッグを置いた。
「わたくしも手ぶらではありませんわ」
「今度は何だ」
「白鳳館の厨房から、少しだけ」
朱麗がバッグを開ける。
「昨夜の残りを調整した、試作の一口版です」
「湯けむり御膳ほど重くなく、でも白鳳館の空気だけは持ってこられるようにしたものを」
「マジか」
思わず声が少し上ずる。
「そこまでやったのか」
「当然でしょう」
朱麗は言うが、その目の奥にはたしかにうれしさがあった。
「せっかく再訪希望が来たんですもの」
「こちらも少しは、形にして見返したくなるではありませんか」
見返すって言い方が、お前ほんとにそういうとこだな。
でも、その負けず嫌いは今の白鳳館には必要だ。
「……ありがとな」
自然に出た言葉だった。
朱麗が、わずかに目を見開く。
「な、何ですの急に」
「いや」
俺はバッグの中の小さな器を見ながら言う。
「こういう時、お前ほんとに抜かりないなって」
「そ、それは」
朱麗は言葉を探すみたいに少しだけ視線を泳がせた。
「白鳳館のことですもの」
「当然ですわ」
そこへ凛音が、さらりと重ねる。
「かなりうれしそうですね」
「白雪さん!?」
「いえ、事実確認を」
「その便利ワードをそんなふうに使わないでくださいまし!」
やっぱり、こういうやり取りをしている時のほうが、学園の重さが少しだけ遠のく。
三人でベンチに座り、白鳳館の一口試作と桜餅を並べる。
遠目には、たぶんよくわからないだろう。
でも近くで見たら相当妙な昼休みだと思う。
凛音が、小さな器を手に取る。
「これ、前より少し軽いですね」
「そう」
俺は頷く。
「再訪の客が増えるなら、“白鳳館の入口”をもっと日常寄りにも持てたほうがいい」
「湯けむり御膳が宿の芯なら、こっちは入り口の会話みたいなもんだ」
「入り口の会話」
凛音が小さく繰り返す。
「いいですね」
「そういう言葉、ほんと好きだな」
「見える形にしたいだけです」
朱麗も器を口へ運んでから言う。
「白鳳館は、宿としての格を落とさずに柔らかくなる必要がありますわ」
「ですから、この方向は悪くありません」
「“悪くない”じゃなくて、かなり良かったんじゃないか?」
俺が言うと、朱麗が一拍遅れてこちらを見る。
「……また、その言い方」
「嫌か?」
「嫌ではありませんわ」
朱麗は視線をそらした。
「ただ、その」
「あなた、時々そうやって自然に褒めるから、困るんですの」
その一言に、凛音が静かに反応する。
「わかります」
「お前もかよ」
「はい」
凛音はあっさり頷く。
「かなり」
「便利すぎるだろ、その言葉」
そんなふうに話していた時だった。
風が強く吹いた。
桜の花びらが一斉に舞い、同時にベンチ脇へ置いていた朱麗の保冷バッグが少しだけ倒れかける。
「あ」
朱麗が手を伸ばす。
俺も反射的に動く。
だが同時に、隣にいた凛音も同じ方向へ身体を寄せた。
結果として。
俺の腕が、凛音の肩の前を横切り、
反対側では朱麗の手首を掴む形になり、
しかもベンチの幅の問題で、凛音の髪が俺の頬へ触れた。
一瞬で、距離が全部おかしくなった。
「……っ」
凛音が息を止める気配。
朱麗の手首は、思ったよりずっと細い。
髪が触れた頬が、妙に熱い。
時間にしたら一秒もない。
でも十分すぎるほど長かった。
「わ、悪い」
とっさに手を離す。
凛音は少しだけ視線を伏せたまま、耳だけ赤い。
朱麗も、いつもの顔を作ろうとしているのが逆にわかりやすい。
「……保冷バッグ、無事ですわね」
朱麗が、明らかに話題をずらしながら言う。
「そ、そうだな」
「はい」
凛音も小さく答える。
「無事です」
沈黙。
風だけがやけに通る。
「お前ら」
俺は額を押さえたくなる。
「最近こういう事故、多くない?」
「事故、ですか」
凛音が静かに聞き返す。
「事故だろ」
「そうですわね」
朱麗は言う。
「事故、なのでしょうね」
そこでわずかに間が空く。
「かなり」
「そこで使うなって!」
でも、そのツッコミでようやく空気がほどけた。
凛音が小さく息を吐いて、少しだけ頬を冷ますように顔をそらす。
朱麗も、保冷バッグを抱え直しながら平静を取り戻そうとしている。
そしてたぶん、俺の顔もだいぶひどいことになっている。
桜餅を一つ口へ放り込み、無理やり思考を糖分で押し流そうとした。
だが余計に“今の”が鮮明になるだけだった。
だめだ。
白鳳館の試食会より、学園の昼休みのほうが心拍数に悪いことがあるの、どう考えてもおかしいだろ。
◇
午後の授業が終わるころには、白鳳館からの便りの余韻と、例の一瞬の事故の記憶と、切り抜き問題の不穏さが、頭の中で妙に混ざっていた。
整理できない。
でも、全部が同じ場所にある。
放課後、昇降口へ向かう途中で凛音が言った。
「白鳳館、次の再訪日程が決まったらしいです」
「もう?」
「はい」
「志摩さんから」
凛音はスマホを軽く見せる。
「来週末です」
「早いな」
俺は小さく息を吐く。
「いいことなんだけど」
「不安ですか」
「少しな」
正直に答える。
「動き出したってことは、次からは“試し”じゃなくなる」
「白鳳館がほんとに変わるなら、これからは続ける強さが要る」
「ええ」
凛音は頷く。
「でも、前みたいに全部を一人で背負う顔ではありません」
「そう見える?」
「はい」
凛音は静かに言った。
「少なくとも今は、ちゃんと一緒に考える前提の顔です」
その評価に、少しだけ立ち止まりそうになる。
前なら、そう見られるのが怖かった。
今も少し怖い。
でも、それだけじゃない。
朱麗が、少し前からこちらを振り返った。
「何をしていますの」
「帰りますわよ」
「お前、完全に待つ前提なんだな」
「当たり前でしょう」
朱麗は言う。
「白鳳館も、学園も、まだ途中ですもの」
「今ここで勝手に一人だけ締めないでくださいまし」
その台詞は、何だか妙にしっくり来た。
白鳳館も、学園も、まだ途中。
つまり俺たちも、たぶんまだ途中なのだ。
「……はいはい」
そう返して歩き出すと、凛音がほんの少しだけ笑う気配を見せた。
今日も面倒だった。
かなり。
でも前より嫌な面倒じゃない。
そのことを、俺はもう、完全には否定できなくなっていた。




