第17話 切り抜きの牙、学園へ戻る
白鳳館から学園へ戻る朝は、嫌になるほど穏やかだった。
空は高く、雲は薄い。風も強くない。校門へ続く道には、いつものように欠伸を噛み殺した学生たちが歩き、コンビニの前では見慣れた制服の集団がパンを咥えたまま笑っている。
世界の側は、何も起きていないみたいな顔をしていた。
こっちはこれから面倒の中心へ戻るというのに。
「……天気いいな」
思わずそう呟くと、隣を歩く凛音が、すぐに言った。
「現実逃避の第一声としては、かなり穏やかですね」
「現実逃避って決めつけるな」
「違うんですか」
「……半分くらいは」
そう返すと、凛音はほんの少しだけ目を細めた。
「便利な返しを覚えましたね」
「お前の“かなり”ほどじゃない」
「便利なので」
「認めるんだな」
白雪凛音は今日も、いつも通り静かな顔をしていた。
学園指定のブレザーに、整った黒髪。歩幅も姿勢も無駄がない。けれど、白鳳館で一緒に宿帳を読んでいた夜を知ってしまった今、その“いつも通り”が完全な無機質には見えなくなっている。
それが少し厄介だった。
少し前を歩いていた朱麗が、肩越しに振り返る。
「お二人とも、朝からずいぶん落ち着いていますのね」
「落ち着いてないだろ」
俺は言う。
「お前も寝不足のくせに」
「気のせいですわ」
「その言い方は、気のせいじゃない時のやつだな」
「失礼ですわね」
朱麗はふんと鼻を鳴らす。
「わたくしは多少の寝不足で崩れるほどやわではありません」
「目の下、少しだけ出ています」
凛音がさらっと刺した。
朱麗の足が一瞬だけ止まりかける。
「白雪さん」
「あなた、本当に人の顔を見ていますのね」
「必要なので」
「その言葉、万能にしすぎではありませんこと?」
「便利です」
「認めるんですのね……」
朝からこの二人はこうだ。
噛み合っているのか、ぶつかっているのか、今でもたまにわからない。
ただ一つだけ確かなのは、二人とも今の状況を“見ているだけ”で終わらせる気が一切ないということだった。
学園の正門が見えてくる。
その瞬間、胸の奥で何かがひやりと固くなった。
例の切り抜き。
外部探索者コミュニティ。
過去配信を洗っている連中。
そして、“学園の柊木”という、最悪の雑な呼ばれ方。
白鳳館の静かな灯りと、湯気の匂いがまだ少しだけ体に残っている。
そのまま、俺たちは学園へ戻った。
◇
正門をくぐった瞬間、空気の違いはすぐにわかった。
昨日より静かだ。
だが、それは平穏という意味ではない。
視線がある。
明らかに増えている。
ただし、昨日みたいな“面白いものを見つけた”という雑な熱ではなかった。もっと薄く、もっと長く刺さる感じだ。直接見てこない。なのに、通り過ぎる時に必ず一度こちらを確認していく。
「……増えてるな」
俺が小さく言うと、凛音が即座に頷いた。
「はい」
「でも、まだ“断定”の空気ではありません」
「それわかるのか」
「わかります」
凛音は前を見たまま答える。
「断定の空気はもっと雑です」
「今はまだ、“気になるから見ている”と“確認したいから見ている”が混ざっています」
「その違い、日常で要るか?」
「今は日常じゃありません」
それを言われると、返す言葉がない。
朱麗が、少しだけ顎を上げる。
「でしたら、まだ崩せますわね」
「怖い言い方するな」
「方法論ですもの」
朱麗はちらりと俺を見る。
「“危険な何かを隠している男子”で固まる前に、“妙に騒がしいが普通に学校生活を送っている男子”へ流せばよろしくてよ」
「その評価の字面が嫌なんだよ」
「ですが、前者よりはかなりマシですわ」
それはそうだ。
正門から昇降口へ向かう途中にも、何人かの視線がこちらへ流れてきた。だが不思議と、前みたいに“すぐ逃げたい”とは思わなかった。
たぶん、一人じゃないからだ。
それを認めるのは面倒なので、心の中でだけ小さく舌打ちしておく。
◇
教室へ入ると、やはり会話がほんの少しだけ薄くなった。
わかりやすい。
でも露骨ではない。
一番神経を削るやつだ。
「おはよ、柊木くん」
森野が、昨日より少しだけ小さな声で言った。
「おはよう」
「……やっぱ見られてるよね」
「見られてるな」
俺は鞄を机へ置く。
「かなり」
「自分で言った」
「便利だからな」
「その便利、ほんと広げないでほしいんだけど……」
森野が苦笑したところで、岸本が後ろの席から身を乗り出した。
「なあ、例のやつ、また動いてるっぽいぞ」
「お前も聞いたのか」
「直では見てない」
岸本は声を落とす。
「でも他クラスのやつが、“切り抜きの柊木ってお前のクラスのやつ?”とか言ってた」
「うわ、だる」
「だろ」
岸本は肩をすくめる。
「だから“知らねえけど本人に聞け”って返しといた」
「ありがとよ」
「貸し一な」
「命助けた件と混ぜるな」
「そう考えると安いだろ?」
「重いんだよ」
そのやり取りに森野が小さく笑う。
教室の空気が、ほんの少しだけ日常へ寄る。
気を遣われすぎるより、こうして雑に話されるほうがずっと助かる。
「……何だよ、その顔」
岸本が言う。
「別に」
「出た、その“別に”」
森野が呆れたように言った。
「最近ぜんぜん別にじゃないよね」
「お前ら、観察眼上がってない?」
「たぶん移った」
岸本が言う。
「白雪さんのやつ」
「人のせいにするな」
その時、教室の後方の扉が開く音がした。
いやな予感というより、もはや確信に近い。
「おはようございます」
静かな声。
凛音。
そして、その一拍後。
「皆さん、ごきげんよう」
朱麗。
またか、と言いたくなったが、周囲の反応が昨日までと少し違うのに気づく。
純粋な驚きより、“ああ、最近こういう感じか”のほうが勝っている。
それもどうなんだとは思うけど、悪くはない。
「お前ら、もう普通に来るんだな」
俺が小声で言うと、朱麗が涼しい顔で答えた。
「何か問題でも?」
「問題しかないように見える」
「ですが、昨日より空気は軽いですわ」
朱麗は教室を見回してから言う。
「“危険な噂の中心”という感じはかなり薄れていますもの」
「その代わり、“最近昼休みが濃いやつ”って感じになりつつあるが」
「そちらのほうが平和です」
凛音が言う。
「少なくとも今は」
それは本当にそうだ。
ただ、その“別の目立ち方”を自分がどこまで受け入れているのかは、まだよくわからない。
朱麗が俺の机へ一歩近づき、少しだけ声を落とした。
「昼休み、購買へ行きますわよ」
「は?」
「今日はあなたが先に動いてくださいまし」
「昨日のように、こちらが合わせます」
「またやるのか」
「同じ手ではありません」
朱麗は少しだけ得意げに言う。
「今日は、“追いかけたように見せない自然な合流”ですわ」
「言語化されると余計怖いな」
凛音が静かに付け足す。
「でも、今日はたぶんそのほうがいいです」
「視線の散らし方としては」
「お前ら、ほんとに昼休みを何だと思ってるんだよ」
「使えるもの」
凛音。
「動かせる空気」
朱麗。
「……やっぱ息合ってるだろ」
「不本意ですわ」
「でも必要なので」
便利な会話だな、ほんとに。
◇
授業中も、視線の気配は完全には消えなかった。
前なら、それだけでかなり疲れていたと思う。
でも今日は違った。
昼に何をするかが見えているだけで、妙に落ち着ける。
自分でも少し意外だった。
昼休みのチャイムが鳴る。
俺は先生が出て行くのを待って、いつもより少しだけ早く立ち上がった。
「柊木?」
森野が目を丸くする。
「購買行ってくる」
「ひとりで?」
「購買はひとりで行く場所だろ」
そう言って教室を出る。
廊下の空気が少しだけざわついた。
たぶん、昨日見ていた連中の一部が今日もこちらを追っているのだろう。
購買前は相変わらず混んでいた。
パンの棚、弁当の列、飲み物の前に群がる生徒たち。これだけ人がいれば、逆に紛れやすい。
「……悪くないな」
「そうですね」
横から返事が来て、思わず肩が跳ねる。
凛音だった。
「お前ほんとに気配」
「消してません」
凛音はいつも通りの顔で言う。
「ただ、自然に並んだだけです」
「自然にって」
列を一歩進みながら俺は言う。
「ついてきたのか」
「ええ」
凛音も同じだけ進む。
「今日は、あなたが先に動いたので」
「それに合わせました」
言い方が完全に作戦なんだよな。
そこで、少し離れた飲み物棚の前がざわついた。
「ああ、やっぱり」
凛音がぼそっと言う。
朱麗だった。
今日は昨日みたいに一直線にこっちへ来ない。
まず和菓子コーナーを見て、次に飲み物を手に取り、最後に本当に偶然みたいな顔でこちらへ流れてくる。
「お二人とも」
朱麗は涼しい顔で言う。
「今日は購買でしたのね」
「その台詞、不自然すぎるだろ」
「自然な合流ですわ」
「完全に狙ってる」
「ええ」
朱麗はごまかさない。
「ですが、昨日より品があると思いません?」
否定しにくいのが腹立たしい。
購買の列で三人並ぶ。
その瞬間、周囲の視線の意味が変わるのがわかった。
“切り抜きの柊木”というピンの関心から、“何なんだあの三人”というグループの異様さへ。
すごいな、ほんとに。
「お前ら、やり口うまくなってない?」
俺が小声で言うと、凛音が答える。
「昨日の反応を見たので」
「改善しましたの」
朱麗も続ける。
「同じ手を繰り返すのは芸がありませんわ」
「そこに芸を求めるなって」
結局、俺は焼きそばパンと牛乳。
凛音はサンドイッチ。
朱麗はなぜか期間限定の抹茶羊羹を手に取った。
「お前、パンじゃないのか」
「たまにはこういうものも観察しておくべきでしょう」
朱麗は言う。
「何が選ばれているかは、食の導線を見るうえでも参考になりますもの」
「……後付けだろ」
「三割くらいは」
「あるんだな」
購買を出て、階段を下りる。
そこで起きた。
昼休みの人波で、階段は思った以上に混んでいた。上から急いで降りてくる生徒、下から駆け上がろうとするやつ、踊り場で立ち止まるやつ。いつも通りの雑な学園の流れだ。
だが、その中にひとつだけ、妙に速い重心移動があった。
後ろから来る男子生徒。二段飛ばし気味。視線はスマホ。足元は見ていない。
まずい、と思った時には身体が先に動いていた。
一歩ずれて、凛音の肩へ手をかける。
そのまま、俺のほうへ引く。
「っ」
凛音の身体が軽くこちらへ倒れ込む。
同時に、さっきの男子生徒が俺たちのすぐ横を危なっかしく駆け抜けていった。
ぶつからない。
でも距離は近い。
近すぎる。
凛音の額が俺の胸元すれすれにあり、片手は彼女の肩を支えたまま、もう片方の手には焼きそばパン。意味がわからない構図だ。
「……大丈夫か」
反射でそう言ったが、声が少しだけ掠れた。
凛音はすぐに離れない。
いや、たぶん離れようとして一瞬遅れたんだろう。
その遅れのせいで、俺は近距離で凛音の目を見ることになった。普段は静かなその目が、ほんの少しだけ見開いている。
「……はい」
返事も、いつもより遅い。
「たぶん」
たぶんって何だよ。
「お、おい白雪、大丈夫か」
後ろから岸本みたいな声がした気がしたが、それより先に朱麗がこっちへ一歩踏み出していた。
「今の」
朱麗は俺を見る。
「完全に背後の気配だけで動きましたわよね」
「は?」
「見ていました」
朱麗の目は真面目だった。
「あなた、後ろを確認していませんでしたわ」
「でも、ぶつかる前に動いた」
凛音も、まだ少しだけ近い位置から小さく言った。
「はい」
「階段の音だけで、ですよね」
そこを拾うなよ。
「……たまたまだろ」
とっさにそう返したが、説得力は薄い。
自分でもわかる。
「便利な言い訳ですね」
凛音が言う。
「かなり雑ですわ」
朱麗も重ねる。
「そこで息ぴったりになるなよ……」
ようやく凛音が一歩離れる。
けれど、耳が少し赤い。たぶん俺の顔も似たようなものだろう。
「その」
凛音が視線を少しだけ逸らす。
「助かりました」
「……そりゃよかった」
「そういうの、さらっとやるのずるいです」
「何が」
「守るのが自然なところです」
「いや、危なかったからだろ」
「それでもです」
そこへ朱麗が、妙に静かな声で言った。
「ええ、かなり」
「お前、そこに乗るのかよ」
「不本意ですが、今のは事実ですもの」
なんだこれ。
切り抜き問題どころじゃなく、別の意味で心臓に悪い。
そのまま中庭へ移動することになったが、今日の昼休みは昨日までと少し違う空気になった。
周囲の視線はまだある。
でも、その意味がかなり変わってしまった。
“例の切り抜きの男子”ではなく、
“階段で白雪さんを自然に支えたやつ”みたいな、
ものすごく別の方向へ。
それはそれで嫌なのだが、少なくとも危険度は下がっている気がした。
◇
中庭のベンチでようやく一息ついた時、凛音が静かに言った。
「今の、かなりおかしかったですよ」
「何が」
「動きがです」
凛音はサンドイッチの袋を開きながら言う。
「普通、あの位置からあの反応はできません」
「危なかったから反射で動いただけだ」
「その“反射”がもう普通じゃないんです」
そこへ朱麗が、抹茶羊羹のパックを開けながら言う。
「ええ」
「わたくしもそう思いますわ」
「ですから、例の“そういう人間を探している側”が食いつくのも少し納得がいきます」
「納得するなよ……」
「でも」
凛音が視線を落としたまま言う。
「さっきのは、少しだけうれしかったです」
「は?」
「守られたからではなくて」
凛音は少しだけ間を置く。
「そういう時に、あなたが迷わないことが」
その言葉は、思っていたよりずっと重かった。
俺は焼きそばパンの袋をいじりながら、視線を逸らす。
「……迷ってる暇なかっただけだろ」
「そういうところです」
「便利ワードやめろって」
朱麗がそこで、小さく息を吐いた。
「白雪さん」
「そういうことを静かに言うの、本当に強いですわね」
「九条さんも、かなり見ていましたよね」
「見ますわよ」
朱麗はきっぱり言う。
「こちらも、あなたが自然にそういうことをされると困るので」
「困るって何だよ」
「いろいろですわ」
曖昧なくせに、妙に力のある返しだった。
結局、その日の昼休みは、切り抜き問題の話から始まって、最後は別の意味で落ち着かなくなるまま終わった。
学園の火種は、たしかにまだ残っている。
しかもたぶん、ただの野次馬ではない何かが混じっている。
でも同時に、今の俺は一人じゃない。
それが救いなのか、もっと深い面倒の始まりなのかは、まだよくわからない。
ただ一つ確かなのは――。
「ほんと、静かに済ませてくれないな……」
放課後、誰もいなくなりかけた教室で小さく呟いたその言葉に、以前ほど強い拒絶は乗っていなかったということだった。




