第16話 もう、ただの脇役ではいられない
白鳳館の試食会当日、俺は朝から妙に胃が重かった。
寝不足ではない。
緊張している、というのとも少し違う。
たとえばダンジョンへ入る前の張りつめ方は、危険をどう捌くかという種類のものだ。戦闘や探索は、怖さがあっても対処の手順が見える。何を見るか、どこで動くか、何を切るか。少なくとも身体は迷わない。
けれど今日の試食会は、そうじゃない。
料理、席、迎え方、空気、流れ。
全部が正解であり、全部が曖昧でもある。
そしてもっと厄介なのは、今日この場で試されるのが白鳳館だけじゃないと、もうわかってしまっていることだった。
「……ほんとに、ろくな感じがしない」
朝の部屋でひとり呟く。
障子の向こうでは白鳳館の朝が動き始めていた。廊下を歩く足音、低く交わされる声、遠くで器が触れ合う小さな音。館全体が、静かに、でも確かに今日へ向けて目を覚ましている。
その気配だけで、胸の奥が少しざわつく。
ここまで来たらもう、やるしかない。
それはわかっている。
わかっているのに、落ち着かないものは落ち着かない。
身支度を整えて部屋を出ると、廊下の角で凛音と鉢合わせた。
「おはようございます」
今日の彼女は、白鳳館の雰囲気に合わせたのか、落ち着いた淡い色のワンピースに薄手のカーディガンを羽織っていた。派手さはないのに、朝の光の中だと妙に目を引く。
そして、よく見ると彼女も少しだけ寝不足だった。
「おはよう」
俺はその顔を見て言う。
「お前も寝れてないだろ」
「……少しだけ」
凛音は素直に頷いた。
「今日は、ちゃんと見届けたいので」
「またそれか」
「便利なので」
凛音は少しだけ目を細める。
「かなり」
「もう完全に自分の言葉にしてるな」
「使いやすいので」
そのやり取りだけで、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。
そこへ、階段の上から朱麗の声が落ちてきた。
「お二人とも、ずいぶん余裕がありそうですわね」
振り向くと、朱麗がこちらへ降りてくるところだった。
今日は完全に“迎える側”の装いだった。白鳳館の空気に合わせた上品な和洋折衷の装いで、派手ではないのに存在感が強い。たぶん本人はかなり計算しているのだろう。館の側に立つ者として、客の前へ出ても浮かず、それでいて埋もれない線を選んでいる。
その本気が、こういうところでよくわかる。
「余裕なんかないよ」
俺が言うと、朱麗は少しだけ眉を上げる。
「そうは見えませんけれど」
「見せてるだけだろ」
「お前も余裕ないくせに」
その指摘は当たっていたらしく、朱麗は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
だがすぐに咳払いをひとつして、いつもの顔へ戻る。
「……本日は白鳳館の顔として立ちますもの」
「不安そうにしているわけにはいきませんわ」
「そういうとこだよな」
「何がですの」
「ちゃんと背負うところ」
俺がさらっと言うと、朱麗は少しだけ目を見開いた。
そして、そのまま視線を逸らす。
「朝から、そういうことを自然に言うのはやめてくださる?」
彼女の声は小さかった。
「調子が狂いますわ」
「お前までそれ言うのか」
「便利ですもの」
朱麗はそっぽを向いたまま言う。
凛音が小さく息を吐く。
「かなり感染していますね」
「お前が言うな」
こういうくだらない会話ができるうちは、まだ大丈夫だ。
そう思えた。
◇
試食会の客は、予定通り少人数だった。
昔から白鳳館へ通っていた常連客三組。
地元商工会のつながりがある夫婦一組。
それから、近隣旅館との比較を見ている立場だという年配の女性がひとり。
多くはない。
でも少なくもない。
こういう時の六組七人という数字は、妙に重い。
一人ひとりの反応が、そのまま白鳳館の手応えになるからだ。
玄関先の空気は、昨日までより確実によかった。
迎えの位置。
視線の通し方。
荷を持つ間。
最初の一言。
どれも少しずつ整っている。
志摩さんと菊乃さんが、客へ出しすぎない熱量で接しているのがいい。
“頑張っています”が前へ出ると、客は途端に受け身ではいられなくなる。白鳳館に必要なのはそうじゃない。“ここで気を抜いていいんだ”と思わせる自然さだ。
「いい感じですね」
凛音が小さく言う。
「うん」
俺も頷く。
「昨日よりずっといい」
「まだ硬い人もいるけど、少なくとも“迎えられてる感じ”は出てる」
朱麗は少し離れた位置から全体を見ていた。
客へ直接張りつきすぎず、でも必要ならすぐ前へ出られる位置。
あれもたぶん計算だ。
「九条さん」
凛音が呼ぶ。
「何ですの」
「今の立ち位置、すごくいいです」
朱麗がほんの少しだけ意外そうな顔をする。
「……そうですの?」
「はい」
凛音は淡々と言う。
「近すぎると圧になりますし、遠すぎるとただの見物になるので」
「今くらいが、いちばん白鳳館の“家の人”に見えます」
その評価はかなり本質だった。
俺も同意する。
「たしかに」
俺が言うと、朱麗は今度こそ少しだけ頬を染めた。
「そ、そう」
「でしたら、そのまま行きますわ」
そこから先は、小さな戦いだった。
席への通し方。
団子を出す間。
客の目線が庭へ抜けるタイミング。
湯へ案内する前のひと呼吸。
食事処へ戻る流れ。
ひとつでも急くと崩れる。
遅すぎても弛む。
その綱渡りを、白鳳館はなんとか渡っていた。
途中、年配の常連客のひとりが、団子を口にしてからふっと笑った。
「こういうの、昔はなかったわね」
「でも、悪くないわ。むしろ、ここに来たって感じがする」
その言葉に、志摩さんの肩がほんの少しだけ下がったのが見えた。
たぶん良い意味で。
凛音が小声で言う。
「届いていますね」
「まだ早い」
俺は言う。
「本番は飯だ」
食事処へ通したあとも、全員が同じ熱で料理に集中できるわけじゃない。
席によって会話の温度も違えば、見える景色も違う。湯上がりの加減も、腹の空き方も、人によって違う。
そこへ“湯けむり御膳”が運ばれていく。
ひとつ、またひとつ。
俺は食事処の奥、客席から視線が届きにくい位置に立って、全体を見ていた。
今日は作る側であり、見る側でもある。
菊乃さんが、それぞれの席へ短い言葉を添える。
「最初はお椀からどうぞ」
「次にお魚を」
「最後に、こちらの蒸し汁を落としてお召し上がりくださいませ」
説明ではない。
押しつけでもない。
白鳳館からの、小さな案内だ。
いい。
かなりいい。
最初に椀の湯気が立ち、
魚へ箸が入り、
最後に温泉卵へ蒸し汁が落ちる。
客が自分の手で料理を完成させる、そのひと手間が静かな印象として残っていくのが、離れた位置からでもわかった。
だが、当然、完璧には進まない。
問題が起きたのは二組目の席だった。
庭へ近い側の常連夫婦。妻のほうが、飯の椀へ蒸し汁を落とす前に、先に魚を崩して混ぜようとしたのだ。
大きな問題ではない。
だが、湯けむり御膳の“最後に自分で完成させる”流れが少し崩れる。
菊乃さんが、すぐには止めない。
止めたら空気が壊れるからだ。
そこで俺は一瞬だけ考えて、食事処の端にいた朱麗へ視線を送った。
彼女はすぐ気づいた。
さすがだ。
朱麗は静かに席へ寄り、客の視線を邪魔しない笑みで言う。
「お好みでそのままでもよろしいのですが」
「最後にこちらのお汁を少し落としていただくと、白鳳館の湯上がりらしいまとまりが出ますの」
「もしよろしければ、ぜひ」
言い方が完璧だった。
押しつけない。
でも“この宿のおすすめ”として自然に誘導している。
夫婦は頷き、言われた通りに蒸し汁を落とす。
次の瞬間、妻のほうが小さく声を漏らした。
「あら」
「……これ、ずいぶん変わるわね」
そこでようやく、俺は息を吐いた。
凛音がすぐ隣へ来る。
「今の、きれいでした」
「九条な」
俺は頷く。
「やっぱりああいう時強い」
「はい」
凛音の声も少しやわらかい。
「白鳳館の顔、ちゃんとできていました」
その言葉は、たぶんあとで本人にも伝えるべきだ。
今はまだ動いている最中だから言わないけど。
料理は最後まで大きく崩れなかった。
いや、正確には小さな綻びはいくつかあった。
提供が半拍だけ遅れた席。
椀の湯気が思ったより弱かった席。
団子の器が一人分だけ違ってしまったミス。
でも、全部が“次へ直せる失敗”だった。
いちばん大きかったのは、客の顔がちゃんと前を向いていたことだ。
誰も、義理で褒める顔をしていない。
ちゃんと食べて、ちゃんと感じて、そのうえで会話が生まれている。
それだけで、今日の試食会はかなり勝っていた。
◇
すべてが終わったのは、夜に入ってからだった。
客の見送りを終え、玄関の灯りが少し落ち着き、館の空気がようやく息を吐く。
帳場の奥に戻ると、白鳳館の人たちは一様に疲れていた。
でも、その疲れ方は昨日までのものと違う。
削られた顔じゃない。
やり切った人間の顔だ。
「どうでしたか」
志摩さんが聞く。
声に、緊張と期待が半分ずつ混ざっている。
俺が答える前に、朱麗が先に言った。
「勝ちですわね」
その断言に、部屋の空気が少しだけ止まる。
「もちろん完璧ではありません」
朱麗は続ける。
「ですが、今日の白鳳館は“変わろうとしている宿”ではなく、“すでに変わり始めた宿”としてお客様に届いていました」
「それは大きいですわ」
その言い方は、ただ強気なだけじゃない。
きちんと現場を見た上での評価だった。
凛音も頷く。
「私もそう思います」
「細かい課題はありましたけど、全部が曖昧には終わりませんでした」
「何が届いて、何がまだ足りないか、ちゃんと残りました」
俺は深く息を吐いてから言う。
「うん」
「たぶん、今日は勝ちだ」
「しかも次に繋がる形で勝てた」
「だから、ここから先は“試作”じゃなく“白鳳館の運用”として詰める段階になる」
その一言で、志摩さんが目を潤ませた。
「……よかった」
早坂さんも、小さく笑う。
「やっと“次”って言葉が現実になってきましたね」
菊乃さんが上品に頷く。
「お客様の帰り際の顔が、違いましたもの」
そう。
結局そこなのだ。
料理の感想も、言葉も、もちろん大事だ。
でも最後に残るのは、客が帰る時の背中だ。
そこが少し軽くなっていたなら、宿は届いている。
「柊木さん」
朱麗が静かに呼ぶ。
「何だ」
「ありがとうございました」
彼女は、今度は逃げずにまっすぐ言った。
「今日の白鳳館がここまで来られたのは、あなたがいたからですわ」
その言葉に、もう軽口では返せなかった。
ここまで来ると、“いや別に”ではむしろ失礼だ。
「……いや」
俺は少しだけ言葉を探す。
「俺だけじゃないだろ」
「お前も、志摩さんも、早坂さんも、菊乃さんも」
「ちゃんと全部が噛み合ったから今日の形になった」
「だから……」
そこで少しだけ息を整える。
「白鳳館が前に進んだのは、白鳳館の人たちが前へ出たからだよ」
言い切ると、しばらく静かだった。
凛音が、ほんの少しだけ目を細める。
「今日は、逃げませんでしたね」
「……そうだな」
「かなり、えらいです」
「その褒め方はちょっとどうなんだ」
「でも、かなり本気です」
その返しに、思わず少しだけ笑う。
朱麗も、それを見て少しだけ笑った。
もう取り繕う余裕もないような、でもちゃんと嬉しい時の顔だった。
◇
それから少しして、白鳳館の人たちがそれぞれの持ち場へ戻り、帳場の奥には俺たち三人だけが残った。
試食会は終わった。
小さな戦いも、ひとまず区切りだ。
でも、その静けさの中で、別の現実が戻ってくる。
学園。
切り抜き。
外へ広がった噂。
まるで、白鳳館で少しだけ忘れかけていた面倒が、きちんと順番を待っていたみたいに。
「そういえば」
凛音がスマホを取り出しながら言う。
「学園の件ですけど」
「今言うのかよ」
「今だからです」
凛音は画面を見たまま続ける。
「今日のあいだに、例の切り抜きがまた少し動いています」
楽しかった余韻が、一気に現実へ引き戻される。
「何だって?」
「直接の拡散ではありません」
凛音の指が画面を滑る。
「ただ、“学園の柊木”を過去配信から拾っているアカウントが増えています」
「しかも、それを見ているのが外部探索者寄りのアカウントだけじゃなく、学園関係者にも広がり始めています」
「……最悪ですわね」
朱麗が低く言う。
「まだ名前や個人情報までは行っていません」
凛音は冷静に続ける。
「でも“ただの実習生ではない”という方向の空気は強まっています」
帳場の奥に、さっきまでとは違う静けさが落ちる。
白鳳館の小さな戦いが終わったと思ったら、今度はちゃんと学園が待っていた。
都合が良すぎるくらいに、面倒は順番を守って押し寄せてくる。
「戻らないとだな」
俺は小さく言う。
「ええ」
朱麗が頷く。
「白鳳館は今日で止まりません」
「だからこそ、次はあなたのほうを止めないために動くべきですわ」
「白鳳館は大丈夫そうか」
「大丈夫、とはまだ言い切れません」
朱麗は正直に言う。
「でも、もう“あなたがいなければ何もできない”場所ではありません」
「今日そこを越えました」
「ですから、安心して学園へ戻ってくださいまし」
その言葉は、思っていたよりずっと胸に残った。
白鳳館は、もう止まらない。
そう言い切ってくれるのは、ありがたい。
そして同時に、自分がそこまで関わってしまったという実感も重い。
「明日、戻るか」
「はい」
凛音が言う。
「その前に、今夜のうちに私がもう少し拡散元を見ます」
「お前、寝ろよ」
「必要なので」
「便利ワード禁止」
「困ります」
凛音は少しだけ目を細める。
「今日くらいは、使わせてください」
朱麗が小さく息をついた。
「……本当に、便利ですわね」
「お前が言うのかよ」
「だって事実ですもの」
「感染がひどいな」
三人で小さく笑う。
でも、その笑いは長く続かなかった。
白鳳館の外では夜が深まり、学園のほうではたぶん別の火種が少しずつ大きくなっている。
それを無視できる段階はもう終わっていた。
俺は帳場の奥から見える玄関の方を見た。
白鳳館は、今日ちゃんと前へ進んだ。
迎え方も、御膳も、言葉の置き方も。
そして多分、俺たち三人の関係も。
でも今度は、学園だ。
俺の“静かに生きたい”を最初に壊し始めた場所が、また別の形で俺を前へ引っ張ろうとしている。
「……ほんと、休ませてくれないな」
思わず呟くと、朱麗が小さく笑った。
「ええ、そうですわね」
「でも、もうただの脇役ではいられませんわ」
その言葉に、すぐには返せなかった。
否定したい気持ちはまだある。
あるのに、完全には否定できない自分もいる。
凛音が静かに言う。
「少なくとも、私はそう思っています」
「私もですわ」
朱麗が続ける。
二人とも、まっすぐだった。
だからこそ、軽くは流せない。
俺は小さく息を吐いてから、ようやく言う。
「……とりあえず、学園の件片づけてからだ」
「話はそれからにしてくれ」
「ええ」
朱麗は頷く。
「はい」
凛音も頷く。
その“それから”に、いろんな意味が含まれているのは、たぶん三人ともわかっていた。
でも今は、そこまでだ。
白鳳館の第一歩は終わった。
次は学園だ。
そうして俺たちは、その夜ようやく部屋へ戻ることになった。
襖を閉める直前、俺はもう一度だけ廊下の向こうを振り返った。
白鳳館の灯りは静かで、でも昨日までとは違って見えた。
ちゃんと前へ進んだ場所の灯りだった。
それを見て、少しだけ安心する。
安心したところで、次の面倒が待っているのがわかっているのに。
布団へ入って目を閉じる前、最後に頭に浮かんだのは二つだった。
ひとつは、白鳳館のこれから。
もうひとつは、学園で待つ切り抜きの続き。
どちらも、俺をただの脇役ではいさせてくれない。
それでも――。
「……まあ、やるしかないか」
小さく呟いて、俺はようやく目を閉じた。
第一章は、ここで終わりだ。
白鳳館は動き出した。
俺たちも、たぶんもう止まれない。
そして次の章では、学園のほうが本気で牙を剥いてくる。
静かに生きたいだけだった二度目の人生は、どうやらまた、少しずつ騒がしくなっていくらしい。




