第15話 試食会は、小さな戦いになる
白鳳館の試食会が決まったのは、第十四話の翌々日だった。
決定自体は志摩さんからの連絡であっさり来た。
「関係者と、昔からの常連の方を少人数だけお招きして、白鳳館の新しい方向を見ていただく場を作りたい」
理屈としては正しい。
白鳳館はまだ大々的に宣伝を打てる段階じゃない。だからこそ、まずは近い人間に「変わった」と感じてもらう必要がある。
問題は、その“変わった”をどこまで形にできるかだった。
そしてもっと問題なのは、その場に立つ人間の空気が、今の白鳳館そのものになるということだ。
料理だけでは足りない。
迎え方だけでも足りない。
器も、席も、声の掛け方も、間も、全部だ。
つまり、やることが多い。
かなり多い。
「……ほんとに俺、ただの視察だったはずなんだけどな」
放課後の学園。
本校舎裏の中庭のベンチで、俺は白鳳館から送られてきた資料を見ながら小さく呟いた。
資料には試食会の参加予定者、当日の仮進行、料理候補、席配置案、そして志摩さんのメモがぎっしり書かれている。
読みながらわかる。
白鳳館側も本気だ。
いや、そりゃそうだろう。
ここで「少し変わったかも」で終わるか、「また来たいかもしれない」まで届くかで、今後がだいぶ違う。
「その独り言、最近増えましたよね」
静かな声がして、顔を上げる。
凛音だった。
今日は授業後そのまま来たのか、制服姿のままだ。夕方の光が肩口に当たって、いつもより髪が少しだけやわらかく見える。
「増えた覚えはない」
「あります」
凛音は俺の隣に座る。
「しかも“困っているけど、完全には嫌じゃない時”に多いです」
「分析が細かすぎるんだよ」
「見えてしまうので」
「便利だな」
「かなり」
「そこで乗せるなって」
そう返した時点で、少しだけ気が抜ける。
こういうやり取りが、最近当たり前になり始めている。
それが危ないと頭ではわかっているのに、心のどこかはすでにその当たり前へ寄りかかり始めていた。
「試食会、どう思いますか」
凛音が資料へ目を落としながら聞く。
「やるのは正解だと思う」
俺は資料をめくる。
「白鳳館は今、“中が変わり始めた”段階だろ」
「だったら一度、外の目に触れさせて“どこが届いてどこが足りないか”を見るべきだ」
「ただし、失敗の仕方は選ばないといけない」
「失敗の仕方?」
「全部が中途半端で終わる失敗が一番きつい」
俺は指で席次案を叩く。
「逆に、“料理は強かったけど迎えが弱い”とか、“空気はよかったけど導線が詰まった”なら次へ直せる」
「何が届いて何が届かなかったか、はっきり残る失敗ならまだいい」
凛音は静かに頷いた。
「それ、白鳳館だけじゃなくて」
「たぶん人間関係も同じですね」
「そこで繋げるのやめろ」
「でも似ています」
凛音は淡々と言う。
「全部を曖昧にしたまま終わるのが一番よくなくて」
「何が届いて、何がまだ足りないかが見えたほうが、次へ進める」
まただ。
最近、この子は白鳳館の話から俺たちの話へ自然に橋を架けてくる。
しかも雑じゃない。
ちゃんと意味が通っているから、余計に困る。
「……お前、ほんとにそういうの好きだな」
「好きというより」
凛音は少しだけ視線を伏せた。
「見えてしまうので」
「便利ワード禁止にしたい」
「困ります」
「かなり」
「くそ、最近そこだけ強いな」
そこへ、規則正しい足音が近づいてくる。
この流れで来る人間なんて一人しかいない。
「お二人とも、先に始めていましたのね」
朱麗だった。
夕方の中庭に立つだけで、相変わらず妙に絵になる。制服の着こなしもきっちりしているのに、わずかな疲れが目元にあるあたり、今日もあちこち走っていたのだろう。
「先にっていうか、たまたまだろ」
「そうですか」
朱麗は少しだけ目を細める。
「最近、その“たまたま”がよく重なりますわね」
「便利なんだよ」
「自分で便利と言い切るの、ずるいですわね」
そう言いながらも、朱麗は俺の向かいに立ったまま資料を覗き込む。
「志摩さんからの追加連絡、見まして?」
「本日の夜、白鳳館側で最終確認をしたいそうですわ」
「オンラインでも構わないとのことですが、できれば直接来てほしい、と」
「今日?」
「ええ」
「急だな」
「急です」
朱麗はきっぱり言う。
「ですが、試食会は明後日ですもの。急で当然ですわ」
それはそうだ。
むしろここでのんびりされても困る。
「行くしかないか」
「はい」
凛音が当然のように言う。
「ええ」
朱麗も頷く。
「行く以外ありませんわ」
「お前ら、もう俺の返事いらないだろ」
「必要ですわよ」
朱麗はわずかに顎を上げる。
「ですが、返事の内容はだいたい予想がついているだけです」
「言い方」
「でも実際、行くつもりですよね」
凛音が言う。
その問いかけに、少しだけ間が空いた。
行く。
当然、行くつもりだ。
試食会の出来次第で白鳳館の次の一歩が変わる以上、ここを放る選択肢なんて最初からほぼない。
「……行くよ」
「ええ」
朱麗は静かに頷く。
「そう言うと思っていましたわ」
その声音に、妙な満足が滲んでいた。
◇
夕方から白鳳館へ移動し、帳場奥の小会議室へ入ると、すでに志摩さん、早坂さん、それから接客をまとめている年配の仲居頭・菊乃さんが待っていた。
白鳳館の側も本気だ。
それが、入った瞬間の空気でわかる。
「お待ちしておりました」
志摩さんが立ち上がる。
「急に呼んで悪いな」
「いえ」
志摩さんは首を振った。
「むしろこちらのほうが落ち着かなくて」
「明後日のことを考えると、どうしても今日中に整理したくなってしまって」
「その感じ、嫌いじゃないですわ」
朱麗が言う。
「焦りではなく、整えようとしている空気ですもの」
菊乃さんが、小さく上品に笑う。
「お嬢さまがそう仰るなら、少し安心いたします」
「ただ、現場はやはりまだ緊張が強いです」
「試食会というより、小さな本番ですから」
「小さな本番、か」
俺は頷いた。
「たしかに、その感覚だな」
テーブルへ資料が広げられる。
席次。
到着時の流れ。
団子を出すタイミング。
湯けむり御膳の提供速度。
湯上がり後に食事処へ通す導線。
試食会後の見送り。
ひとつひとつは細かい。
でも、こういう細部が重なって“また来たい”になる。
「まず席ですわね」
朱麗が一番にそこを指した。
「庭がいちばん見える窓際を全員へ均等に割る必要はありません」
「白鳳館を好きになってもらいたい相手へ、最初の印象を集中させるべきですわ」
志摩さんが少し考える。
「常連の中でも、口コミの波及が強い方を前へ、ということですね」
「ええ」
朱麗は即答する。
「平等であることと、効果的であることは違いますもの」
「そういう発想、やっぱり経営側だな」
俺が言うと、朱麗は少しだけこちらを見る。
「褒めていますの?」
「半分くらいは」
「便利な返しですわね」
「感染したんだよ」
凛音が、席次案を見ながら静かに言う。
「でも、席はそれだけでいいでしょうか」
「料理の順番だけじゃなく、誰が最初にどの景色を見るのかも大事ですよね」
「そう」
俺は頷く。
「部屋へ通した瞬間に“いい席だ”と思わせるより」
「座る、湯気を見る、窓の外へ目が行く、その流れを作ったほうが記憶に残る」
菊乃さんが目を細める。
「では、お通しの団子を最初から盆に乗せておくのではなく」
「座って少し落ち着いたところで、景色と一緒にお出しする形にしましょうか」
「いいと思います」
凛音が言う。
「“迎えの一口”が、ただのサービスではなく“白鳳館の始まり”になるので」
その表現がすごく良かった。
白鳳館の始まり。
たぶん、それだ。
「……その言い方、いいな」
俺がぽつりと言うと、凛音が少しだけこちらを見る。
「そうですか」
「うん」
「団子自体は小さい。でも“今から白鳳館の時間が始まる”って意味を持たせれば、あれは十分武器になる」
「では決まりですわね」
朱麗が言う。
「迎えの一口は、席について一息おいたあと」
「景色と一緒に出す」
「白鳳館の始まり、として」
話が、きれいに繋がっていく。
その感覚は心地いい。
心地いいから、また危ない。
次に問題になったのは、湯けむり御膳をどの順で食べさせるかだった。
「御膳のまま一斉に出すと」
早坂さんが言う。
「どうしても客の食べ方に任せる部分が大きくなります」
「意図した順番で食べてもらえる保証がない」
「でも一品ずつだと、御膳のまとまりが消える」
俺は考える。
「最初の名物としては、“あの膳が運ばれてきた”って景色も残したい」
志摩さんが間で困ったように資料を見比べる。
「悩ましいですね……」
そこで朱麗が静かに言った。
「説明を添えましょう」
全員の視線が彼女へ集まる。
「“お好きな順に”ではなく、“おすすめの召し上がり方”として、一言だけ添える」
「押し付けではなく、白鳳館からの手紙のように」
「最初は椀から、次に魚、最後に飯へ蒸し汁を落として完成――そういう流れを、客へそっと渡せばよろしいのではなくて?」
それだ、と思った。
凛音もすぐに頷く。
「いいと思います」
「料理を“どう食べればいちばんきれいか”まで、体験として渡せます」
「しかも宿らしいですわ」
菊乃さんが言う。
「説明ではなく、おすすめとして伝えるなら、白鳳館の空気も壊しません」
「……かなりいいな」
俺が言うと、朱麗がほんの少しだけ息を止めた。
「かなり、ですの?」
「かなり」
俺はもう一度言う。
「たぶんそれで、御膳の“流れ”が客へ届く」
朱麗は数秒、言葉を失ったように見えた。
それから、いつもの気高い顔を作ろうとして、少しだけ失敗する。
「そ、そうですの」
「でしたら採用ですわね」
「照れてる?」
凛音が淡々と言う。
「照れていませんわ!」
「いや、ちょっとしてるだろ」
「柊木さんまで!?」
会議室の空気が少しだけやわらぐ。
いい。
こういう空気の中でこそ、細かい工夫は形になる。
だが、当然それだけでは終わらなかった。
話が一通りまとまったところで、志摩さんが次の紙を出す。
「あともう一つ」
「試食会の最後に、白鳳館から短いご挨拶を入れるかどうかで迷っています」
「挨拶?」
俺が聞き返す。
「ええ」
志摩さんは少し緊張したように言う。
「“これから変わっていきます”と、はっきり言うべきか」
「それとも、あくまで料理と空気だけで感じてもらうべきか」
重い問いだ。
言葉は強い。
でも言葉が強いぶん、空気を壊すこともある。
俺は考え込む。
「白鳳館は、あんまり宣言が似合う宿じゃない気がする」
「“変わります”って前に出すと、ちょっと自分で自分を説明しすぎる」
「でも、何も言わないと、変化をただの一回きりで流される可能性もある」
凛音がぽつりと言う。
「じゃあ、言葉にするなら未来ではなく」
「今日来てくれたことへの礼だけでいいのでは」
「礼?」
「はい」
凛音は静かに続ける。
「“変わります”とか“頑張ります”ではなくて」
「“来てくださってありがとうございます。今日の白鳳館を感じていただけたならうれしいです”くらいなら」
「空気を壊さずに、でも残ると思います」
その言い方も、すごく白鳳館らしかった。
「……お前、ほんとこういう時強いな」
俺が言うと、凛音は少しだけ視線を伏せる。
「必要なので」
「便利ワード」
「でも今は、たぶん合っています」
朱麗がゆっくり頷く。
「ええ」
「その通りですわね」
「白鳳館はまだ、“宣言”より“余韻”の宿であるべきですもの」
それで全部が決まった。
席。
迎えの一口。
御膳の流れ。
最後の礼。
あとは現場で回しながら、どこまで自然にできるかだ。
◇
最終確認が終わった時には、もう夜もかなり更けていた。
白鳳館の廊下は昼より静かで、木の軋みが少し近く聞こえる。会議室を出ると、外は冷えていて、窓の向こうの庭は灯りだけが低く残っていた。
「……なんとか形にはなったな」
俺が小さく言うと、朱麗が並びながら答える。
「ええ」
「まだ本番ではありませんけれど、少なくとも“何を届けるか”は見えましたわ」
「そうですね」
凛音も続く。
「迷いながら動くよりは、ずっといいです」
三人で廊下を歩く。
まただ。
こうやって自然に三人で並ぶこと自体が、もう少し前までの俺にはなかった。
「でも」
朱麗が少しだけ視線を落とす。
「本番になると、たぶんまた別のことが起きますわ」
「小さな試食会とはいえ、人が入れば必ず予想外がある」
「それはそうだな」
俺は頷く。
「だからこそ面白いんだけど」
言ってから、自分で少しだけ眉をひそめる。
面白い。
今、俺、そう言ったか。
「……自分で言って驚いてる顔してます」
凛音が静かに言う。
「見なくていい」
「見えてしまうので」
朱麗がくすりと笑う。
「ええ、たしかに」
「今のは少し、面白かったですわ」
「お前らなあ……」
でも否定しきれない。
白鳳館は面倒だ。
手がかかる。
現場はまだ弱ってるし、足りないものも多い。
試食会だって、うまくいく保証はどこにもない。
それでも“面白い”と思ってしまった。
何かが少しずつ形になっていく過程を、誰かと一緒に見ている。
それが今の俺には、どうしようもなく面白く感じられてしまっている。
「柊木さん」
朱麗が不意に立ち止まる。
「何だ」
「明後日の試食会」
彼女はまっすぐ俺を見る。
「失敗したら、どうしましょう」
その質問は、珍しく弱音に近かった。
気高い顔をしていても、やっぱり怖いのだろう。
当然だ。
白鳳館にとっての“次”を、彼女は誰より重く見ている。
俺は少しだけ考えてから答えた。
「何が足りなかったか、ちゃんと残る失敗なら次がある」
「だから全部が曖昧に終わるのだけ避ける」
「それだけだ」
朱麗は静かに聞いている。
「で、たぶん」
俺は続ける。
「そこまでは行かない」
「少なくとも、今日ここまで詰めた時点で、白鳳館は昨日までとは違う」
「それはたぶん、本番でも出る」
言い切ると、朱麗は数秒だけ黙った。
それから、小さく息を吐く。
「……そう言われると、少し楽になりますわね」
「ならよかった」
「ええ」
朱麗はほんのわずかに微笑む。
「かなり」
その使い方は、妙に反則だった。
「お前までそれ言うのか」
「便利ですもの」
「感染してるじゃねえか」
凛音が横で小さく笑う。
「でも、似合ってました」
「何が」
「九条さんが少し弱気になって、それをあなたが支える流れです」
「かなり自然でした」
「お前、ほんとにたまに意地悪だよな」
「必要なので」
ほんとうにこの言葉、万能か。
部屋へ戻る分かれ道で、俺たちは足を止める。
「じゃあ、明後日だな」
「ええ」
朱麗が頷く。
「白鳳館の小さな戦いですわ」
「はい」
凛音も頷く。
「たぶん、私たちにとっても」
「また繋げるのか」
「だって似ています」
凛音は静かに言う。
「白鳳館も、私たちも、あと一歩届くかどうかのところにいるので」
その言葉に、今夜はもう反論しなかった。
反論できなかった、のほうが近い。
だってたしかにそうだったからだ。
白鳳館は、形になりかけている。
でもまだ決定打がいる。
俺たちも、近づいている。
でもまだ肝心な言葉が足りない。
全部が少しずつ揃っていて、最後の一歩だけ残っている。
それがどうしようもなく似ている。
「……おやすみ」
俺が言うと、朱麗が少しやわらかい声で返した。
「おやすみなさいませ」
凛音も続く。
「おやすみなさい」
二人の声を背に、自分の部屋へ戻る。
襖を閉めたあと、俺はしばらくその場で立ち尽くしていた。
試食会は、小さな戦いになる。
白鳳館のための戦い。
現場のための戦い。
ここから先へ進めるかどうかの、最初の試金石だ。
そしてたぶん――。
「……俺たちも、だよな」
誰へともなく呟く。
白鳳館に足りないもの。
三人に足りないもの。
その両方の輪郭が、だんだんはっきりしてきている。
見えてしまった以上、知らないふりはもう難しい。
だからたぶん、明後日の試食会は、宿だけの本番じゃない。
俺たち自身も、少しだけ試される。
そう思うと落ち着かなくて、でも完全には嫌じゃなくて、俺はそのまま深く息を吐いた。
静かに生きたいだけだったはずなのに。
いまさらそう言うには、もう少し遠くへ来すぎている気がした。




