第14話 旅館に足りないもの、三人に足りない言葉
昼休みの教室で、白雪凛音と九条朱麗に挟まれながら白鳳館の試作と市場の団子を広げる――という、どう考えても脇役向きではない状況をやらかしたあと、午後の授業はほとんど機能しなかった。
俺の頭が、ではない。
教室全体の空気が、だ。
そりゃそうだろう。
ついこの前まで「目立たないけど感じの悪くないやつ」くらいの立ち位置だった男子が、昼休みに学園でも有名な二人の女子と妙に自然な空気で飯を食っていたのだ。
しかも片方は氷の美少女、もう片方は悪役令嬢である。
誰がどう見ても話題になる。
それでも助かったのは、昼休みのあの時間が“疑惑”ではなく“異様に日常的な何か”として教室へ落ちたことだ。
白鳳館の試作がどうとか、
市場の団子がどうとか、
迎えの一口がどうとか。
中身は知らなくても、少なくとも“血なまぐさい秘密の話”には見えなかった。
そこが大きい。
配信の切り抜きで妙な角度からこちらを見ていた連中の視線が、昼休み以降は少しだけ散った気がした。
……いや、散ったというより、混線したのかもしれない。
“何かあるらしい”から、
“何なんだあいつの昼休み”へ。
方向性がずれた。
それだけでも今は十分ありがたい。
もっとも、当人である俺の精神状態は、別にありがたくも何ともなかったが。
「柊木、さっきのやつ何だったんだよ」
放課後の教室で、岸本が机へ肘をついて聞いてきた。
「何が」
「何がって、全部だよ」
「あの二人、普通にお前の机来てただろ」
「しかもめっちゃ自然だったし」
「知らないうちに自然にされてたんだよ、こっちは」
「そういうもんなのか?」
「そういう時もある」
「ないだろ普通」
森野も隣で頷く。
「ないよね」
「少なくとも、うちのクラスではかなり初めて見る光景だった」
「俺だって初めて見たよ」
「当事者の台詞じゃないんだよな、それ……」
森野が呆れたように笑う。
その笑い方に、昼までの慎重さが少し薄れているのがわかった。
そういう意味では、凛音と朱麗の強引な乱入は効いていたのだろう。
「まあでも」
岸本が少しだけ真面目な顔に戻る。
「お前が変な感じで浮いてるよりは、ああいうほうがまだ良かったかもな」
「何だそれ」
「いや、なんつーかさ」
岸本は言葉を探しながら頭をかく。
「例の配信の話、みんな薄々気にしてるのはわかるんだけど」
「でも昼のあれ見たら、“なんかよくわかんねえけど普通に生活してるな”ってなるだろ」
森野も小さく頷く。
「うん」
「ちょっと変だけど、変に隠されるよりは安心するかも」
その言い方は、少しだけ意外だった。
人は隠されると余計に見たくなる。
それはそうだ。
でも逆に、堂々と妙なことをされると、噂の形が崩れることもある。
昼休みのあれは、たぶんそういう効果を狙っていた。
しかも自然に。
ほんとうに、面倒な二人だ。
「……まあ、そうならいいけど」
俺が言うと、岸本がにやっと笑った。
「お、珍しく素直」
「うるさい」
「でもさ」
森野が少しだけ躊躇ってから言う。
「白雪さんも九条先輩も、なんかお前のことちゃんと見てる感じあったよね」
その一言で、妙に心臓が跳ねた。
やめろ。
クラスメイトの素朴な感想でそこを刺すな。
「何言ってんだ」
「いや、なんとなく」
「話してる時も、お弁当置く時も、お前が困ってるの込みで動いてる感じがしたっていうか」
「森野」
俺は真顔で言う。
「お前、そういう方向の勘は鈍いほうが人生楽だぞ」
「何その忠告、ちょっと怖い」
岸本が吹き出す。
「でも、わかるわ」
「お前さ、ああいうの来るとすぐ逃げるじゃん」
「逃げてない」
「逃げてるって」
「で、あの二人はそれ見越して逃がさない感じだった」
「分析やめろ」
「いや俺そこまで細かくないだろ」
「てか、白雪さんのほうがよっぽど見てる感じだったし」
それは、たぶん事実だ。
凛音はよく見ている。
見すぎだろ、と思うくらいに。
朱麗は朱麗で、違う角度から見ている。人と場の動き、空気の張り方、届き方。
だから二人とも、違うやり方で逃がしてくれない。
そこまで考えたところで、自分で嫌になる。
「……もう帰るわ」
鞄を持ち上げると、岸本が肩をすくめる。
「また逃げた」
「帰宅を逃亡扱いするな」
「今日は誰か来ないの?」
森野が無邪気に聞く。
「来ねえよ」
そう言い切った瞬間、教室後方の扉が開いた。
嫌な予感というものは、どうしてこうも正確なのか。
「お疲れさまです」
静かな声。
白雪凛音。
「失礼しますわ」
その一拍後。
九条朱麗。
「……お前ら、示し合わせてる?」
思わず言うと、凛音は少しだけ首を傾げる。
「していません」
朱麗は即座に続けた。
「ですが、目的地が同じなら結果は似ますわね」
「それを示し合わせてるって言うんだよ」
岸本と森野が、もう完全に面白がる顔になっている。
やめろ。野次馬の顔するな。
「今日は何ですの」
朱麗が教室を見回してから、俺へ視線を戻す。
「少し空気が軽いですわね」
「お前らのせいだろ、たぶん」
「わたくしたちの“おかげ”ではなくて?」
「言い方」
凛音が静かに補足する。
「でも、結果としてはそうかもしれません」
「少なくとも昼のあと、噂の向きは少し変わっていました」
「だろうな」
俺はため息をつく。
「その代わり、俺の立場もだいぶ変わった気がするけど」
朱麗が当然のように言う。
「今さらですわ」
「最初から、あなた一人だけ“目立たない脇役”で通るには無理のある状況でしたもの」
「今それを本人に言う?」
「本人にしか言いませんわ」
その返しが妙にまっすぐで、一瞬だけ言葉に詰まる。
凛音がこちらを見る。
「帰る前に、少しだけいいですか」
「何だよ」
「場所、変えたいです」
「教室だと話しにくいので」
「また特別室か?」
「いえ」
朱麗が言う。
「今日はもう少し、肩の力を抜ける場所がよろしいかと」
「お前がそれ言うとちょっと面白いな」
「失礼ですわね」
結局、俺たちは本校舎裏の中庭へ移動した。
放課後の中庭は昼間よりずっと静かで、部活へ向かう生徒たちの声が遠くを流れていく。桜はもうかなり開いていて、風が吹くたびに少しだけ花びらが落ちた。
ベンチに座ると、朱麗が先に口を開く。
「白鳳館に足りないもの、ですけれど」
話が、昼休みの余韻から一気に戻る。
でもそのほうが楽だった。
人間関係の話は、どうにも足場が悪い。
「何だよ急に」
「急ではありませんわ」
朱麗はきっぱり言う。
「迎え方の件は進みます」
「湯けむり御膳も形になりました」
「ですが、それだけで白鳳館が“また来たい宿”へ戻るとは思っていませんの」
それは正しい。
俺は少し姿勢を直した。
「俺もそう思う」
「理由を伺っても?」
「決め手がまだ、料理と風呂と景色で横並びなんだよ」
俺は指先でベンチの端を叩く。
「個々は良くなってきてる。でも“白鳳館で過ごした一日全体の記憶”としては、まだ一本に繋がりきってない」
「言い方を変えると、“ここじゃなきゃだめ”って理由があと一歩弱い」
凛音が静かに頷く。
「昨日、食事処を見た時にも似たことを言っていましたね」
「全部は悪くないのに、最後の一歩だけ誰も踏み込んでいない、と」
「……よく覚えてるな」
「必要なので」
「最近ほんとそれで何でも通すな」
でも、覚えていてくれたことは少しだけ嬉しかった。
朱麗は視線を落とし、考え込むように言う。
「白鳳館に必要なのは、“名物料理”というより」
「“白鳳館でしか味わえない時間そのもの”の輪郭、ということですのね」
「そう」
俺は頷く。
「料理はその一部」
「風呂もその一部」
「迎え方も、そのあとの休み方も、夜の静けさも、朝の空気も全部含めて“白鳳館の体験”になる」
「そこがまだ、少しばらけてる」
言い終わると、しばらく沈黙が落ちた。
中庭の木が風に鳴る。
遠くで吹奏楽部の音が聞こえる。
放課後の学園にいるのに、頭の中には白鳳館の夜の廊下や、庭の灯りや、湯気の匂いが浮かんでいる。
それだけでもう、だいぶ深く足を突っ込んでる証拠だ。
「……じゃあ、三人も同じですね」
ぽつりと凛音が言った。
「何が」
「足りないものです」
俺と朱麗が同時に彼女を見る。
凛音は視線を逸らさずに続けた。
「白鳳館は、良いものがたくさんあって、少しずつ繋がり始めている」
「でも最後の一歩だけ、まだ誰も踏み込んでいない」
「それって、たぶん今の私たちも同じです」
その言葉は、思っていた以上に静かに刺さった。
朱麗が最初に反応する。
「……白雪さん」
「あなた、たまに本当に躊躇なく言いますわね」
「今、必要だと思ったので」
「必要、ね……」
朱麗は小さく息を吐く。
「便利な言葉ですこと」
だが、否定はしない。
俺は言葉に詰まる。
白鳳館に足りないもの。
三人に足りないもの。
たしかに似ている。
良い空気はある。
信頼も、たぶんある。
並んで歩けるし、同じものを食べられるし、一緒に考えて、形にもできる。
なのに、最後の一歩だけ誰も踏み込まない。
それはたぶん、言葉だ。
はっきり認める言葉。
相手へ渡す言葉。
自分がどう思ってるか、どう感じてるかを、誤魔化さない言葉。
そう考えた瞬間、妙に落ち着かなくなった。
「……何だよその話」
結局、そんな雑な返ししかできない。
凛音が静かに言う。
「そのままです」
「私たち、ちゃんと近くなっているのに、肝心なところだけずっと曖昧ですよね」
「白雪さん」
朱麗が少しだけ声を落とす。
「それ以上は――」
「言いません」
凛音はきっぱりと遮った。
「今ここで何かを決めたいわけではないので」
「ただ、同じだなと思っただけです」
その言い方が、逆にずるかった。
決めない。
でも、見ないふりもしない。
凛音はいつもそうだ。
踏み込みすぎないくせに、曖昧なまま逃がしてもくれない。
「お前はほんと……」
そこまで言ってから、言葉が続かない。
何を言えばいいのかわからない。
面倒だ、と言えば簡単だ。
でもそれだけじゃないのも、もうわかっている。
「柊木さん」
朱麗が静かに言う。
「何だ」
「わたくしは」
彼女は少しだけ目を伏せてから、まっすぐ俺を見る。
「白鳳館を立て直したい」
「それは本当です」
「でも、それだけで今ここに来ているわけではありません」
心臓がひとつ、嫌な音を立てる。
「九条、お前――」
「最後まで言わせてくださいまし」
朱麗は、珍しく少しだけ早口だった。
「あなたが、白鳳館のことを本気で見てくれたことが、嬉しかったんですの」
「誰かにとって大事な場所を、大事なものとして扱ってくれる人は、そう多くありませんから」
それは、感謝だ。
たぶん今の時点では、恋とかそういう言い切れるものじゃない。
でも確実に、ただの利害関係じゃない言葉だった。
凛音が、少しだけ驚いたように朱麗を見る。
俺もだ。
朱麗はそこまで言ってから、頬をわずかに赤くしつつ、すぐに視線を逸らした。
「……これ以上は、今日は言いませんわ」
「十分言ってるだろ……」
「うるさいですわね」
朱麗は小さく言う。
「今日は少しだけ、素直になる日なんですの」
その返しに、どうすればいいのかわからなくなる。
凛音が、その空気を静かに受け取ってから、今度は俺を見る。
「私は」
彼女は言葉を選ぶように少しだけ間を置いた。
「あなたが、怖がっているのを知っています」
「前へ出ることとか、近くなることとか、たぶんそういうのを」
「でも」
そこで、ほんの少しだけ声がやわらぐ。
「それでも一緒に進んでくれるなら、私はうれしいです」
駄目だろ、それは。
そんな言い方をされたら、もう何も軽口で流せなくなる。
白鳳館に足りないもの。
三人に足りないもの。
たぶん今の二人は、その足りないものの輪郭を、言い切らないまま差し出している。
なのに俺だけが、まだまともに受け取れていない。
それが情けなくて、でも同時に怖かった。
「……俺は」
ようやく出た声は、思ったより掠れていた。
「何も返せないぞ、今は」
それが精一杯だった。
朱麗も凛音も、責める顔はしなかった。
そこが余計にきつい。
「ええ」
朱麗が頷く。
「今はそれで構いません」
「はい」
凛音も続ける。
「たぶん、今は」
その“今は”が、妙に長く残る。
逃げ道でもあるし、猶予でもある。
そしてきっと、いつかそこを越える日が来るという含みでもある。
だから困る。
中庭には、夕方の光が少しずつ落ちてきていた。
授業棟の窓がオレンジ色を帯び、桜の花びらが一枚、ベンチの足元へ落ちる。
こういう静かな時間は、白鳳館だけのものじゃない。
学園にもある。
ただ、気づいていなかっただけだ。
もしくは、気づかないふりをしていただけか。
「……とりあえず」
俺は深く息を吐いた。
「白鳳館は、迎え方を整える」
「湯けむり御膳も、宿の流れ全体に合わせてもう少し詰める」
「そこまでやって、初めて“また来たい”へ届くかもしれない」
「話はそれからだ」
「ええ」
朱麗が言う。
「まずは、白鳳館をきちんと形にしましょう」
「はい」
凛音も頷く。
「たぶん、それが今の私たちにも必要なので」
「またそこへ繋げるのか」
「必要なので」
便利すぎるだろ、その言葉。
でも今は、それ以上何も言えなかった。
俺たちはベンチから立ち上がる。
放課後の中庭は少し冷えてきて、そろそろ解散するにはちょうどいい時間だった。
なのに足取りは軽くない。
重いわけでもない。
ただ、どこかひとつ、言葉にしきれないものを抱えたまま並んで歩くことになる。
白鳳館に足りないもの。
三人に足りないもの。
どちらも、もう輪郭だけは見え始めていた。
見えてしまった以上、いつまでも知らないふりはできない。
それが少し怖くて、
でも完全に嫌でもない自分がいて、
俺はそのどうしようもない感情をごまかすみたいに、ただ前を見て歩いた。




