第13話 脇役失格の昼休み
白鳳館から学園へ戻った日の空気は、妙に乾いていた。
山の湿り気を含んだ静かな朝から、一気にコンクリートとガラスの世界へ引き戻されたせいかもしれない。学園正門をくぐった瞬間、耳に入ってくる音の種類が変わる。部活の掛け声、購買の呼び込み、廊下を走る足音、教室から漏れる笑い声。
全部、見慣れているはずなのに。
今はその全部が少しだけ遠い。
いや、遠いんじゃないな。
こっちの感覚が、まだ白鳳館から戻りきっていないのだ。
「顔、やっぱり硬いです」
隣を歩く凛音が静かに言う。
「お前ほんと、第一声それ多いな」
「だって硬いので」
「もう少しオブラートって言葉を覚えてくれ」
「柊木さん相手にオブラートを使うと、たぶんそのまま逃げられます」
「信頼がない」
「そうではなく、観察の結果です」
「便利だな、その言い方」
後ろから、朱麗が小さく息をつく。
「白雪さん、そこまでいくと観察というより包囲ですわね」
「九条さんが言いますか」
「わたくしは包囲するとき、最初から包囲すると宣言します」
「それ、もっと怖いやつだろ」
俺が言うと、二人ともほぼ同時にこちらを見る。
やめろ、その連動。
最近本当に増えたな、それ。
正門から本校舎へ向かう途中、周囲の視線が少しだけ刺さる気がした。
いや、気のせいじゃない。
見られている。
白雪凛音と九条朱麗という、学園でも目立つ女子二人と並んで歩いている時点で見られるのは当然だ。そこへ、あの配信の切り抜きの件がある。まだ誰も“確信”まではしていないだろうが、何となくざわついている気配くらいは十分あった。
「……やっぱり、少し広がってるな」
小声で言うと、凛音が頷く。
「見ている人の目線が、“なんとなく見てる”感じではありません」
「そうなのか?」
「はい」
凛音は周囲を見ずに言う。
「好奇心、警戒、確認。だいたい三種類です」
「お前の分析力、日常で使うには強すぎない?」
「今は日常ではありません」
凛音の声は静かだったが、少し硬い。
「少なくとも、もうただの学校生活では」
その言い方に、反論が出てこなかった。
たしかにそうだ。
切り抜きが外へ出て、学園内にもその気配が戻ってきている以上、以前の“ただの脇役”には戻れない。
戻れないのに、まだどこかで戻れるつもりでいる自分がいる。
それがいちばん厄介だ。
「まずは先生のところですわね」
朱麗が言う。
「そうだな」
俺は頷く。
「話聞いて、それから――」
「そのあと教室へ戻る」
凛音が続ける。
「昼休みまでに、学園内でどの程度噂になっているかを見ます」
「お前ら、ほんとにもう動く前提なんだな」
「当たり前ですわ」
朱麗はわずかに顎を上げる。
「ここまで来て“では様子を見ましょう”は、あまりに後手ですもの」
「それはそうだけど」
「それに」
朱麗の視線が少しだけやわらぐ。
「白鳳館の件もあります」
「今ここであなたが妙な形で目立てば、宿にもいらない火の粉が飛ぶかもしれません」
「放置はできませんわ」
そこまで言われると、さすがに軽口で流しにくい。
白鳳館。
その名前が出るだけで、胸の中に少し違う重みが落ちる。
あそこはもう、ただ関わった場所ではなくなり始めている。
それがまた、面倒で、困る。
◇
須賀先生との話は、思っていたより短く、そして嫌な意味で重かった。
実習棟の管理室奥。机の上には例の切り抜き映像の静止画が何枚か印刷され、端末にはコメント欄のログが開かれている。
「状況は昨日伝えたとおりだ」
須賀先生は腕を組んだまま言った。
「学園内だけならまだいい。だが、外の探索者コミュニティで“誰だこいつ”になり始めている」
「今のところ実名までは行っていない。だが“学園の柊木”という呼ばれ方はされている」
「最悪ですね」
凛音が静かに言う。
「ええ、最悪ですわね」
朱麗も続けた。
「しかも、ただの野次馬ではなく、見る目のある連中が食いついている」
「そうだ」
須賀先生は朱麗に目を向け、それから俺へ戻す。
「柊木、お前は自覚が薄いかもしれんが、あの動きは“わかるやつにはわかる”」
「そして一度そういう連中の目に止まると、ただの噂では終わらない可能性がある」
先生の言葉は淡々としていたが、脅しではない。
むしろ、できるだけ感情を抜いた説明だった。
だからこそ余計に現実味がある。
「学校としての方針は?」
俺が聞く。
「映像の拡散元には削除要請を出す」
「ただし完全には消えないと思ったほうがいい」
「学園内では、表向き“編集の都合で誤解を招く切り抜きが出回っている”という扱いにする」
「それ以上の説明はしない」
「妥当ですわね」
朱麗が言う。
「余計な否定は、逆に事実味を強めますもの」
「その通りだ」
須賀先生は小さく頷く。
「ただし柊木、お前自身はしばらく目立つ動きをするな」
「少なくとも校内では」
そこで俺は、少しだけ口を閉ざした。
目立つ動きをするな。
その言葉自体は、むしろ望むところのはずだ。
俺はもともとそのつもりで生きてきたのだから。
でも今は、素直に頷けない。
白鳳館の件がある。
白鳳館へ関わる以上、ダンジョンにも料理にも、何らかの形で動かざるを得ない。
その現実が、先生の言葉と綺麗に噛み合わない。
「何だ、その顔は」
須賀先生が言う。
「……いや」
「言え」
先生の声は低い。
「そこで飲み込むと、あとで余計面倒になる」
面倒。
最近ほんとに、この言葉に囲まれて生きてる気がする。
「校内では目立たないようにする」
俺はゆっくり言う。
「でも、完全に何もしないのは無理かもしれない」
「校外で、少しだけ動く必要がある案件がある」
須賀先生の眉がわずかに寄る。
「何の話だ」
「それは――」
「白鳳館の件ですわ」
朱麗が、俺の言葉を引き取った。
先生の視線が彼女へ向く。
当然だろう。学園でも有名な九条家の令嬢が、白鳳館なんて固有名詞をここで自然に出してくるのだから。
「説明できますか」
須賀先生が言う。
「できますわ」
朱麗は一歩も引かずに答えた。
「柊木さんは、九条家関連の温泉旅館再建へ現在協力中です」
「昨日まで現地視察と試作を行っており、今後もしばらく食と運営の面で関わる予定があります」
「お前、言い方が全部でかいんだよ……」
「事実を簡潔に述べただけですわ」
「簡潔すぎて余計に誤解を招くんだよ」
凛音が静かに補足する。
「要するに、校外では別件で動いています」
「そこにはダンジョン食材や料理の試作も絡んでいるので、柊木さんが完全に動きを止めるのは難しい、という話です」
「……なるほどな」
須賀先生は少しだけ疲れたように息を吐いた。
「お前ら、思ってた以上に深いところまで組んでるな」
「組んでるって言い方やめてもらえますかね」
「事実だろ」
先生にまでそれを言われるの、ちょっと嫌だな。
「とにかく」
須賀先生は言葉を切る。
「校外活動まで学校が止める権限は薄い」
「だが校内で余計な刺激を増やすな」
「それだけは守れ」
「わかった」
「本当にわかってる顔か?」
「たぶん」
「不安しかないな……」
先生がこめかみを押さえる。
その気持ちはよくわかる。
俺もだいぶ不安だ。
「あともう一つ」
須賀先生は端末をこちらへ向ける。
「これを見ろ」
画面には、コメント欄とは別の小さなまとめが表示されていた。
切り抜きを見た一部のアカウントが、学園の過去配信映像まで遡っている。
実習動画。
広報素材。
イベント映像。
その中から“柊木湊”が映っているシーンを探している形跡があった。
喉の奥が少し冷える。
「……面倒だな」
「だから最初からそう言ってる」
須賀先生は低く言う。
「数十秒だけならまだ偶然で押し通せる」
「だが、過去映像まで繋げられると“本当に隠していた何かがある”という話になる」
「発信元を絞れれば、少しは」
凛音が言いかける。
「それは任せる」
須賀先生はあっさりと言った。
「白雪、お前のほうがこの手は早いだろ」
「はい」
凛音は即答する。
「ただ、個人で追うには限界もあります」
「必要なら情報部の先生経由で最低限の協力は出す」
「だが大っぴらにはするな」
「わかっています」
やり取りが、妙に慣れている。
なんなんだ、この二人。
いや、凛音がこういう方面に強いのはもう何となく察していたけど。
「九条」
先生が今度は朱麗を見る。
「お前は?」
「学園内の空気を散らします」
朱麗は即答した。
「“気になるけど、確かなことは何もない”状態を維持させる」
「噂を断定へ育てないようにしますわ」
「怖い言い方するな」
「方法論ですもの」
「ほんとにお前ら、俺の周りにいる人間としては強すぎるだろ……」
思わず漏れると、須賀先生が小さく鼻を鳴らした。
「今さらだな」
それを言われると、妙に言い返せなかった。
◇
教室へ戻ったのは、二時間目が終わる直前だった。
昼休み前の廊下は、次の授業へ急ぐ生徒と、すでに気が抜けている連中とで妙に雑然としている。そんな中を歩いているだけなのに、視線がこちらへ集まる感覚は消えなかった。
「……やっぱりな」
俺が呟くと、凛音がすぐ答える。
「午前中で少し広がっています」
「まだ明確な言葉にはなっていませんけど、“何かある”顔です」
「お前のその分類、だんだん雑になってきてないか」
「細かく言うと長くなるので」
「長く言ってもいいんだぞ」
「じゃあ昼休みにします」
「本当にやるんだな」
朱麗が隣で、少しだけ口元を上げた。
「白雪さん、今日はやけにやる気ですわね」
「九条さんもです」
凛音は淡々と返す。
「朝からずっと、“どこまで散らせるか”を考えている顔をしています」
「……白雪さん」
朱麗が声を落とす。
「あなた、人のことは本当によく見ますのね」
「必要なので」
「その必要、少し怖いですわ」
教室へ入った瞬間、空気が変わる。
ざわ、とまではいかない。
だが、一度だけ教室中の目がこちらへ向いたのがわかった。
最悪だ。
最悪なんだけど、その中に昨日までと違うものもあった。
好奇心だけじゃない。確認、遠慮、測り。
こっちがどう振る舞うかを見ようとしている。
これが一番面倒なんだよな。
何もなかった頃より、ずっと。
「柊木くん」
前の席の森野が、いつもより少しだけ小さな声で言う。
「お、おかえり」
「ただいま」
俺は席へ座る。
「何だその微妙な言い方」
「いや、その」
森野は困ったように周囲をちらっと見た。
「変なこと聞いてもいいかわかんなくて」
「聞かなくていいよ」
俺は鞄を机へ置きながら言う。
「今はまだ、たぶん何言ってもめんどくさい」
「うわ、本人が認めた」
「認めざるを得ないだろ」
森野は少しだけ安心したように笑う。
「その感じなら大丈夫そう」
「何が」
「なんか、いつも通りだから」
その言葉に、一瞬だけ返事が止まる。
いつも通り。
そう見えるなら、たぶんまだ助かる。
「おーい柊木」
今度は後ろから岸本の声が飛ぶ。
「昼、少しいいか」
「内容による」
「そんな重くない」
岸本は妙に真剣な顔で言う。
「ただ、あの日のこともあるし」
「……わかった」
そこでチャイムが鳴り、午前最後の授業が始まった。
だが、内容なんてほとんど頭へ入らなかった。
ノートは取る。
板書も写す。
でも脳の別の場所では、ずっと考えている。
切り抜きの発信源。
白鳳館の迎え方。
湯けむり御膳の再現性。
そして昼休み、教室でどこまで自然に振る舞うべきか。
やることが多すぎる。
前なら、そんな時は全部切っていた。
余計な関係も、余計な責任も、余計な居場所も。
でも今は、それを切った先に白鳳館があって、凛音がいて、朱麗がいる。
それを思うと、いつも通りみたいに簡単には引けない。
授業が終わる。
途端に教室の空気が一気に弛む。
そして昼休みが始まった瞬間、俺の机の周りだけ妙に密度が上がった。
まず森野。
次に岸本。
ついでに、なぜか別のクラスメイトまで少し離れた位置で様子を見ている。
「何だよ」
俺は眉をひそめる。
「急に寄るな」
「いや、別に囲んでるわけじゃないんだけど」
岸本が頭をかく。
「その、あの日のこと、改めて礼言っときたくてさ」
「礼なら前も聞いた」
「ちゃんとは言ってなかっただろ」
岸本は真っすぐ言う。
「あの時、マジで助かった」
「だから、変な噂とか出ても、俺は勝手なこと言わねえよ」
森野も頷く。
「わたしも」
「というか、変なのに絡まれたら普通に嫌だし」
その言い方に、少しだけ肩の力が抜ける。
「……ありがとよ」
俺が言うと、岸本は少しだけ笑う。
「おう」
「でも正直、ちょっとだけ気にはなる」
「台無しだな」
「いや、聞かないって! たぶん!」
「たぶんって何だよ!」
そのやり取りに、周囲の空気がほんの少しだけ和む。
そこへ、さらに面倒が追加された。
「失礼しますわ」
教室の入口から、朱麗の声が響いたのだ。
終わった。
ほんとうに終わった。
教室中の視線が一斉にそちらを向く。朱麗はいつも通り隙のない姿勢で立っているが、昼休みに別クラスの教室へ現れる存在感としてはあまりにも強すぎる。
しかもその少し後ろから、凛音まで静かに入ってくる。
「おい」
俺は小さく言った。
「何で来た」
「昼食ですわ」
朱麗が当然のように答える。
「は?」
「確認したでしょう」
「迎え方の件も、湯けむり御膳の再現も、学園内の空気も、昼休みに整理すると」
「いや、それは言ったけど」
「なんで教室なんだよ」
「ここが一番自然ですもの」
凛音が横から言う。
「いまさら呼び出し形式のほうが、むしろ目立ちます」
「もう十分目立ってるだろ!?」
森野が完全に固まっている。
岸本は口を半開きにしている。
教室の空気はもはや“何かある”ではなく、“何なんだこの状況”へ移りかけていた。
だが二人は止まらない。
朱麗が机へ包みを置く。
「白鳳館の試作の残りを、少しだけ持ってきましたの」
「あなたにも確認していただこうと思って」
「はあ!?」
そこへ凛音が、別の小さな包みを置いた。
「私は市場で買った団子です」
「迎えの一口案として、こちらも昼に見ておこうかと」
「お前ら、本気でここでやる気なのか」
「はい」
「ええ」
声が揃うな。
ほんとにそこだけは妙に揃うな。
クラス中が静まり返る中、森野が小さく呟いた。
「……柊木くん」
「何だ」
「これ、もしかして」
「めちゃくちゃ目立ってるよね?」
「わかってる」
「脇役、無理じゃない?」
その言葉に、教室の空気がほんの少しだけ緩む。
誰かが吹き出し、岸本が耐えきれずに笑い、森野自身も困ったように笑った。
俺は額を押さえたくなる。
でも、そこでふと気づく。
視線はまだある。
ざわつきもある。
なのに、少しだけ“敵意”が薄れている。
白雪凛音と九条朱麗が、当たり前みたいに俺の机へ昼を持ち込んできた。
その異常さが、逆に“何か裏で大ごとが進んでいる”という空気を少し崩したのだ。
つまり、こいつら――。
「……わざとか」
俺が小さく言うと、朱麗がほんの少しだけ口元を上げる。
「さあ、何のことでしょう」
凛音も静かに言った。
「少なくとも、効果はあるみたいです」
「お前らなあ……」
完全に昼休みの主導権を握られている。
俺の机の上には、白鳳館の試作の残りと、市場の団子。
その前に座るのは、氷の美少女と悪役令嬢。
周りには呆然としているクラスメイトたち。
どこからどう見ても、脇役の昼休みじゃない。
岸本が笑いながら言った。
「柊木、お前もう無理だって」
「どう見ても中心だろ、これ」
「やめろ」
俺は低く言う。
「そういうこと言うな」
「いやでも事実――」
「事実じゃなくしたいんだよ、こっちは」
そう返した瞬間、凛音と朱麗が同時にこちらを見た。
まただ。
だが今度の視線は、少しだけ違った。
からかいでも、呆れでもなく、何かを測るような真っ直ぐさがあった。
「……何だよ」
凛音が静かに言う。
「無理に、そうじゃなくしなくてもいいと思います」
朱麗も続ける。
「ええ」
「少なくとも、いまここにいるのはあなたが選んだ結果でもありますわ」
その言葉は、教室のざわめきの中で妙にはっきり聞こえた。
選んだ結果。
白鳳館に行ったこと。
市場を見たこと。
ダンジョンへ入ったこと。
そして今、この昼休みに二人と同じ机を囲んでいること。
全部、誰かに無理やり押しつけられたわけじゃない。
途中からは、たしかに自分で踏み込んでいる。
それを真正面から言われると、少しきつい。
少しきついのに、完全には否定できない。
「……昼飯食うぞ」
結局、俺はそう言って逃げた。
凛音が小さく息を吐く。
朱麗はほんの少しだけ不満そうだったが、それ以上は追わなかった。
教室のど真ん中で、俺たちは昼を広げる。
白鳳館の残りの小さな椀。
市場の焼き味噌団子。
そして、いつもより少し騒がしいクラスの空気。
脇役失格。
たぶん本当に、そうなんだろう。
でも、その言葉へすぐ反発できない程度には、俺はもう昨日までの俺ではなくなり始めていた。




