第12話 配信は、もう一度牙を剥く
白鳳館で迎えた朝は、妙に静かだった。
障子越しに入る光がやわらかい。
遠くで川の音がして、どこかの部屋の襖がそっと閉まる気配がある。山の朝特有の、空気がまだ水を含んだような冷たさも心地よかった。
なのに、目が覚めた瞬間から、胸の奥に小さな違和感が残っていた。
理由はたぶん、昨日の夜だ。
休憩処での時間。
湯上がりの凛音。
朱麗の、あれにしてはずいぶん素直な感謝。
あの距離感。
あの空気。
思い出すだけで、なんとなく落ち着かない。
「……最悪だな」
布団の中で小さく呟く。
白鳳館に来てから、仕事の話をしている時より、終わったあとに気が緩んだ時間のほうが危険だとわかってしまった。
宿の空気っていうのは、本当に人を駄目にする。
いや、駄目にするというのは違うか。
“必要以上に本音を出しやすくする”のだ。
それが困る。
布団から出て顔を洗い、着替え、部屋を出る。
廊下にはすでに朝の支度の気配があった。どこかで掃除の音がして、階下からは朝食の匂いがかすかに上がってくる。
その匂いを吸った瞬間、昨日試作した湯けむり御膳の構成が頭をよぎった。
氷晶魚の火入れ。
回復茸の出汁の立たせ方。
温泉卵の塩の加減。
ああ、だめだ。
完全に脳が白鳳館仕様になってる。
「おはようございます」
廊下の向こうから声がして、顔を上げる。
凛音だった。
今日はもう私服に戻っている。淡い色のシャツに、昨日と同じ黒のパンツ。髪はいつも通り整っているはずなのに、昨夜の湯上がり姿を見てしまったせいか、妙にその“いつも通り”が意識に引っかかった。
やめろ、俺。
「おはよう」
「寝不足ですか」
第一声がそれだった。
「何でそうなる」
「目の下」
凛音はあっさり言う。
「少しだけ、ですけど」
「お前ほんとそういうとこ細かいな」
「見えてしまうので」
「便利だな、その言葉」
「かなり」
「合わせてくるなよ」
凛音はほんの少しだけ目を細めた。
笑っている、のだと思う。最近やっとそれがわかるようになってきた。
それもまた、少し危ない。
「朱麗は?」
「先に帳場へ行っています」
「志摩さんと、迎え方の件を確認すると」
「朝から仕事熱心だな」
「あなたもです」
凛音は静かに言う。
「今、“朝食の匂いから御膳の構成を思い出した”顔をしていました」
「読心術でも始めたのか」
「顔です」
「もうちょっと隠せるようになりたい」
「最近はむしろ、隠す気が薄れてきたように見えます」
それは、かなり図星だった。
白鳳館に来てから、気づけばいろんなものを隠しきれていない。料理のこと、現場への関わり方、そしてたぶん、二人といる時間に少しずつ心がほどけていることも。
俺が黙ったのを、凛音は少しだけ気にしたのかもしれない。
「……嫌なら、忘れてください」
「いや」
俺は首を振る。
「嫌じゃない」
言ってから、少しだけ間が空いた。
凛音も黙る。
廊下の窓から入る朝の光が、彼女の横顔をやわらかく照らしていた。
たぶん今の“嫌じゃない”は、凛音が言ったことそのものだけじゃなく、もっと別のことまで含んでしまっていた。
だからすぐに、話をずらした。
「帳場行くか」
「はい」
二人で階段を下りる。
白鳳館の朝は静かだが、止まってはいない。厨房ではすでに湯の音がしているし、玄関では仲居が履物を整えている。昨日までより、全体の動きにほんの少しだけ張りがある気がした。
帳場へ行くと、朱麗は志摩さんと何か資料を見ていた。
「おはようございますわ」
「おはよう」
「おはようございます」
朱麗はいつも通り背筋を伸ばしていたが、目元に少しだけ寝不足の色があった。
「お前もあんま寝てないだろ」
「……気のせいですわ」
「いや、それたぶん気のせいじゃないぞ」
「なぜわかりますの」
「顔」
そこで凛音が静かに言った。
「最近、柊木さんも同じ言い方をするようになりましたね」
「やめろ、感染みたいに言うな」
朱麗が少しだけ不本意そうに眉を寄せる。
「お二人とも、朝から仲がよろしいですわね」
「違います」
「違う」
また揃った。
志摩さんがわずかに口元を押さえる。
笑ってるな、今。
「で?」
俺はわざと話を戻す。
「迎え方の件、どうなった」
朱麗はすぐ仕事の顔に戻った。
「本日から全部を変えるのは無理です」
「ですが、まずは玄関先の“気配の薄さ”を減らす方向で調整しますわ」
「到着前の情報共有、出迎えの立ち位置、最初の声掛け、それからチェックイン時に出す一口の案も含めて、簡易的に試します」
「団子のやつか」
「ええ」
朱麗は頷く。
「ただ、あのままだと少し素朴すぎますので、白鳳館らしい器と出し方で整えます」
「いいと思う」
俺は率直に言う。
「最初の一口が“白鳳館へ来た”って合図になるなら強い」
朱麗は一瞬だけ、少しだけうれしそうに目を細めた。
だがすぐにそれを押し戻すように咳払いをする。
「当然ですわ」
「誰の案だと思って――」
その時だった。
帳場脇の固定電話が鳴った。
白鳳館の朝に響くその音は、妙に現実的だった。志摩さんがすぐに受話器を取る。
「はい、白鳳館でございます――」
そこで一度、表情が止まる。
「……はい」
「いえ、その件でしたら……」
「少々お待ちください」
志摩さんが受話器を押さえ、こちらを見る。
「学園からです」
「柊木さんに」
その一言で、胸の奥がひやりとした。
学園。
このタイミングで。
嫌な予感がする。
そしてたいてい、そういう予感は当たる。
「俺?」
「はい」
「担当の先生だそうです」
受話器を受け取る指先が、自分でもわかるくらい少し冷えていた。
「……もしもし」
『柊木か』
聞き慣れた、でも今は聞きたくなかった声だ。
学園ダンジョン実習の担当教員――須賀先生。
「はい」
『今どこだ』
「……外です」
『外、で通すには少し距離がありそうだな』
声色は平坦だった。
怒っているわけではない。だが、平坦な時ほど厄介だ。
『戻ってこられるか』
「何かあったんですか」
少しだけ間があった。
それが逆に怖い。
『例の配信だ』
やっぱり来た。
喉の奥が少しだけ固くなる。
『切り抜きが広がっている。学園内の範囲を超えてな』
『しかも、あの数十秒だけを見て妙な反応をしている連中がいる』
『探索系の配信コミュニティと、外部の攻略クラスタだ』
耳の奥がざわつく。
白鳳館の静かな帳場が、一瞬だけ遠く感じた。
「……どのくらい広がってるんですか」
『今のところ爆発的ではない』
『だが、見るやつが見ればわかる映像だ』
『お前がただの学生じゃない、少なくとも普通の実習生の動きじゃないことくらいは』
受話器を持つ手に少しだけ力が入る。
凛音と朱麗が、向かいからじっとこちらを見ていた。
まだ会話の内容は聞こえていないはずなのに、空気だけで何かが起きたとわかっている顔だ。
『今すぐどうこうという話じゃない』
『だが、一度戻って話をしろ』
『お前一人で処理できる段階を超え始めている』
その言い回しが嫌だった。
一人で処理できる段階を超える。
それはつまり、自分だけの問題ではなくなる、ということだ。
「……わかりました」
俺は低く答える。
「今日中に戻ります」
『そうしろ』
通話が切れる。
受話器を戻す音が、やけに大きく聞こえた。
「何がありましたの」
朱麗がすぐに問う。
俺は少しだけ息を整える。
落ち着け。
今ここで感情を荒らしても仕方ない。
「配信だ」
短く言う。
「切り抜きが広がってる」
「学園内だけじゃなく、外の攻略系コミュニティにも届き始めてるらしい」
その瞬間、二人の表情が変わった。
凛音は目を細める。
朱麗は眉を寄せる。
どちらも一瞬で“感情”から“対処”の顔になった。
「どの程度まで?」
凛音が聞く。
「爆発はしてない」
「でも、見るやつが見ればわかるって」
「でしょうね」
凛音の声は静かだったが、少しだけ硬い。
「少なくとも私たちが気づいたくらいですから」
「発信源は追えませんの?」
朱麗がすぐに言う。
「先生はそこまで言ってなかった」
「でも学園に戻れって」
「当然ですわね」
朱麗は即答する。
「こうなった以上、放置していい話ではありませんもの」
「……俺は最初からそう思ってたよ」
「思っていたわりに、顔が少し諦めています」
凛音が言う。
その指摘がまた図星で、少しだけ腹が立つ。
「諦めてるんじゃない」
「こうなる気はしてた」
「それを、諦めていると言うんです」
凛音は真っ直ぐ言った。
「最初から“やっぱりそうなった”で終わらせるのは、戦う前に下がってるのと同じです」
「白雪さん」
朱麗が少しだけ声を落とす。
「責める形にしないでくださいまし」
「責めてはいません」
凛音はすぐに返す。
「でも、ここで“仕方ない”にされたら、たぶん困るのは柊木さんだけじゃないので」
正しい。
正しいから、余計に刺さる。
朱麗は一歩前へ出た。
「学園へ戻りましょう」
「……お前らまで来る必要ないだろ」
「ありますわ」
朱麗は迷いなく言う。
「わたくしも、あなたの例の映像を見た一人です」
「そして今や、白鳳館の立て直しにもあなたを巻き込んでいる立場です」
「ここで“では頑張ってください”と見送るほど、薄情ではありませんわ」
「九条」
「それに」
朱麗は少しだけ語尾を強める。
「あなた一人で抱え込むとろくなことにならない、ということは、ここ数日で学習しました」
その言い方に、反論できない。
凛音も頷いた。
「私も行きます」
「だから、何で」
「見ていたいので」
「便利な言葉みたいに言うなよ」
「便利ではありません」
凛音は静かに言う。
「もう、見ているだけじゃ済まないと思っているので」
その一言で、帳場の空気が少しだけ張った。
見ているだけじゃ済まない。
それはたぶん、凛音なりの“関わる”宣言だった。
朱麗もその意味を理解したのか、一瞬だけ彼女を見る。
だが、否定はしなかった。
「……わかったよ」
俺は息を吐いた。
「戻る」
「でも白鳳館のほうはどうする」
「今ここで全部止めるわけにもいかないだろ」
志摩さんがすぐに言う。
「迎え方の試案は、こちらで回します」
「湯けむり御膳の試作内容も、早坂さんと私で整理しておきます」
「大丈夫です」
志摩さんは、はっきりと頷く。
「白鳳館は止まりません」
「昨日と今日で、もうその段階は越えましたから」
その言葉に、少しだけ救われた。
そうだ。
白鳳館はもう、俺がいなければ止まる場所じゃない。
少なくとも、そうあろうとしている。
それだけでも昨日までとは違う。
「……ありがとう」
俺が言うと、志摩さんは少しだけ笑った。
「お礼を言うのはこちらです」
「ですから、どうか安心して戻ってください」
そうして白鳳館を慌ただしく出ることになった。
◇
学園へ向かう車の中は、昨日までとは違う静けさだった。
市場へ行く時の軽さも、
ダンジョンへ入る前の張りも、
湯上がりの休憩処のやわらかさもない。
もっと現実的で、もっと冷たい静けさだ。
スマホを開けば、先生から転送されたリンクがいくつか届いていた。
切り抜き動画。
低解像度の数十秒。
灰牙犬の群れ。
壁を蹴る俺。
岸本を引き倒しながら牙を逸らす瞬間。
コメント欄には、軽いものも重いものも混ざっていた。
『今の学生やばくね?』
『いやこれ明らかに経験者の動きだろ』
『誰だよこの柊木って』
『学園の宣伝動画で流していいレベルじゃない』
『外部出身の探索者隠してる?』
『映像短すぎて逆に気になる』
たった数十秒で、人は勝手なことをいくらでも言う。
それくらい、よく知っている。
「……最悪だな」
小さく呟くと、隣の凛音が画面を見た。
「切り抜き方が嫌ですね」
「嫌っていうか、悪質だろこれ」
俺はスマホを伏せる。
「一番“わかるやつだけわかる”ところだけ綺麗に抜いてる」
「つまり、偶然広がったというより」
朱麗が後部座席から言う。
「最初から“気づく層”へ投げられた可能性が高いですわね」
「たぶんな」
それが嫌だった。
ただの事故ならまだいい。
だがこれには、誰かの意図が少し見える。
学園の宣伝動画を見て、たまたま面白がった誰かが切り抜いた――だけではない気がする。
「発信源、追えないの?」
俺が聞くと、凛音がすぐに答えた。
「学園へ戻ったら見ます」
「転載元、投稿時間、コメントの初動、拡散したアカウントの傾向」
「そこまでは絞れるかもしれません」
「……お前、普通に怖いな」
「必要なので」
「最近それ多すぎるだろ」
「だって、必要ですから」
凛音は少しも揺らがずに言う。
「今は特に」
朱麗も続けた。
「学園内での火消しは、私のほうでも動けます」
「少なくとも、“妙な噂を事実らしく扱わせない”程度のことは可能ですわ」
「お前、どこまでできるんだよ」
「言いません」
朱麗は少しだけ顎を上げる。
「知らないほうが、あなたの胃には優しいと思いますので」
「たしかにそれはそうだな……」
そこで、ふと気づく。
俺は今、配信が再燃していることよりも、隣と後ろにいる二人が当たり前みたいに“どう対処するか”を話していることのほうに、少しだけ救われていた。
それがかなりまずい。
頼るつもりなんてなかった。
巻き込むつもりもなかった。
でももう、俺一人だけの話じゃないところまで来てしまっている。
「柊木さん」
朱麗が少しだけ声音を和らげた。
「何だ」
「一人で処理しようとしないでくださいまし」
その言葉は、白鳳館で聞いたものとほとんど同じだった。
「今度は本気で怒る、でしたっけ」
俺が言うと、朱麗はほんの少しだけ目を見開く。
「覚えていましたの?」
「まあ」
「……そう」
短い返事だった。
でも、その一音だけで、少しだけ空気がゆるむ。
凛音が静かに言った。
「私も怒ります」
「便乗するなよ」
「便乗ではありません」
「最初からそのつもりです」
相変わらず、この二人は容赦がない。
でもその容赦のなさが、今は少しだけありがたかった。
車窓の向こうに、だんだん学園の建物が見えてくる。
静かに生きるはずだった場所。
脇役として通り過ぎるだけのはずだった場所。
そこへ今、白鳳館の空気をまとったまま戻っていく。
たぶんここから先は、また別の面倒が始まる。
白鳳館は少しずつ前へ進み始めた。
なのに今度は、学園のほうが牙を剥いてくる。
人生って、本当に都合よくできていない。
「……よし」
俺は小さく息を吐いた。
「戻ったら、まず先生と話す」
「そのあと発信源と拡散経路を確認」
「学園内の噂の広がり方も見たい」
「できれば、映像が誰の手を経たかも知りたい」
「ええ」
凛音が頷く。
「承知しましたわ」
朱麗も続く。
自然に、まるで最初からそういう役割だったみたいに、二人が返事をする。
俺はそこで、ようやく観念した。
たぶんもう、俺の“静かに生きたい”は、完全な一人称では成立しない。
白鳳館でそうなり始めて、
今、学園でそれが決定的になろうとしている。
だったらもう、やるしかない。
車が学園の正門をくぐる。
数十秒の切り抜きから始まった波は、思っていたよりずっと厄介な形になって戻ってきた。
だが今度は、一人ではない。
それが良いことなのか、悪いことなのかは、まだわからない。
わからないけれど。
少なくとも、俺は少しだけ前を向いていた。
それだけは確かだった。




