十六 楽童子初日
薄雲の群れが点在する晴れた空の下で、紅の城が佇んでいる。
首里城の最も外側に位置する歓会門では、門の左右に配置された二人の門番が変わり映えのない南国の景色をぼんやりと眺めながら、世間話で暇を潰していた。
たまに蝉の声で相手の話が遮られるものの、わざわざ聞き返すほどの興味もない、いつやめてもいいような他愛ない会話だ。
「花の匂いがする」
一人があくびを噛み殺しながら呟いた。
「花なんてあちこちに咲いているだろう」
もう一人が石垣からこぼれ落ちるように咲くハイビスカスを一つ一つ指差し、肩をすくめる。
「違う、もっと甘い、蘭のような匂いだ。王妃様から香る、あれをさらに濃くしたような……」
「王妃様の匂いが分かるほど近づいたことがあるのか。果報者め」
吐き捨てるように言った門番だが、ほのかに甘い匂いがしたかと思うと、突如として足元の白砂の道が一面の花畑に変わった。息を忘れるほど驚いた後、目を擦って幻覚だと気付いた。
「ご苦労様です」
門番の二人は息を飲む。歓会門から出てきたその人の挨拶に返事すらできず、ただただ見惚れてしまった。人というより花そのものが歩いているように思えた。
「……?」
その花――否、人は、呆けたように立ち尽くす二人の門番に困惑しつつ、気まずそうな笑顔を浮かべ、軽く会釈をして去っていった。
「……まさかあのお方が王妃様か?」
「馬鹿者、あんなにお若いはずがないだろう。王妃様は二十代半ばだが、あの子は見るからに十二、三ではないか。それに王妃様だったらお連れの者も連れずに一人で城から出ていくわけがない」
「とはいえ、あそこまで美しい少女がいるとは。どこの士族のお嬢様だ? 按司筋の娘か? いや、どことなく感じる神秘的な雰囲気は上級神職の家系かもしれん」
二人は遠ざかる背中を目で追いながら推理する。しかし一人が思い出したように言った。
「待て待て、そもそもここは歓会門だぞ。男しか通れない門だ。ここから出たということは、あれは男だ」
「なんと、信じられない」
「王宮を出入りする美少年といえば――あれしかない」
二人の門番は顔を見合わせ、声を揃えた。
「「楽童子だ」」
真南風は背中に感じる門番たちの視線に気付かない振りをしながら、城前の道を下っていった。男装に気づかれてしまっているのではないかと不安だった。
「王妃様、問題ないって言ってたのに……」
真南風は羽織っている袖の長い若衆仕立ての芭蕉布を撫でた。王宮が管理する芭蕉園で生産された極細の系を一流の技術で織りなされた最高級品だ。
蜻蛉の羽のように薄くて軽く、その極上の肌触りは絹をも上回る。通気性が良すぎるあまり裸かと錯覚してしまうほどだ。
対照的に、生まれて初めて化粧を施された顔面には一枚膜が乗っているような異物感がある。小ぶりの宝石がついた二本一組の玉簪で結い上げた赤毛も、いつもと頭の重心が違って落ち着かない。
すれ違う町民たちは皆、真南風の姿を見ると時が止まったかのように硬直した。それは浮世離れした可憐さによるものだが、そんなことは知らない真南風にとっての不安の種は、自分が「どっちの性別」に見えているかだけだった。
――男の振りをして楽童子になる。
真南風は琉球の危機を救うためそう決意した。一夜明けた男装初日の本日は、他の楽童子たちとの顔合わせである。
八重山出身の百姓という身分を隠して士族の養子になる予定だが、誰に籍を預けるかはまだ調整中だ。女であることが明るみになれば真南風と与那原親雲上の首が物理的に飛んでしまう。慎重に進めなければならない。
なので昨晩は王宮に泊まり、そして今朝、王妃の阿応理屋恵に楽童子としての装いを施された。とはいえ、普段王宮にいるため市井に疎い王妃はいささか興が乗りすぎたようだ。
もともとの素材の良さに加えて、真南風の「士族の美青年」を演じる表現力が相まって一級の色気と気品が備わってしまった。素っぴんでボロ布を纏っていた昨日の方がよっぽど男に見えた。
真南風は楽童子の集合場所であるアカギの森に向かっていたが、土地勘がないため迷ってしまっていた。
道を尋ねようにも、通行人たちは失礼のないよう目を伏せてそそくさと立ち去る始末である。
困り果てながら辺りを見渡す。すると遠くの方にある人混みに気付いた。三線の音色が聞こえてきて、気持ちが少し落ち着いた。人混みは避けたいはずなのに、自然と足がそこに向かった。
「楽童子の百千代様よ!」
「あの方の踊りを観られるなんて!」
興奮した若い女性たちが真南風を追い抜いていく。
「踊り? 誰かが踊ってるの?」
そこは人通りの多い橋の袂で、ちょっとした広場になっていた。老若男女で構成された半円の人だかりができている。川に背を向けて踊る一人の男の子を、誰もが憧れの眼差しで見つめていた。
「きれいな踊り……」
連なる人垣の隙間を覗き、真南風が呟いた。踊っているのは顔立ちの整った美少年だ。
身体の動きにそって紅型が舞い、空気を孕んで広がってゆく。川に反射する陽光で後光が瞬いているかのようだ。
「人はここまで美しくなれるものなの?」
重力を感じさせない旋回は、体幹から指先までしなやかに連動している。驚くべき身体操作能力だが、何よりも目を引くのは彼の穏やかな表情だ。焦点の合わない瞳はまるで空中から街全体を見下ろしているかのよう。きっと、悟りを開いた菩薩はこういう目をしているだろう。
「すごい……私なんかより遥かに……」
真南風は一瞬で技巧の差を感じ取った。彼も楽童子のようだが、この洗練された踊りに比べたら真南風のそれは児戯も同然だ。
真南風の独り言が聞こえたようで、すぐ横に立つ女性が言った。
「すごいのは当たり前よ。百千代様はあの天才踊り子集団、楽童子の二番手なんだから!」
「二番手? あんなにすごいのにさらに上がいるんですか?」
「あなた、そんなことも知らないの? 今の楽童子の一番手、つまり花形は百千代様のお兄さ……」
そう言いかけて、女性は真南風を見下ろした。そして真南風の見るからに身分の高い装いに気づいて顔面蒼白する。飛び跳ねるように土下座し、震える声で謝罪した。
「どこぞの姫様かは存じませんが、失礼な言葉遣いをしてしまい大変申し訳ありません。つい踊りに興奮してしまい……! どうかお許しくださいませ」
「……違います! 私は男です!」
真南風はこんな扱い初めてでどうすれば良いか分からない。ぎょっとした後、とりあえず女であることを慌てて否定したが、そのせいで余計に萎縮させてしまった。
「ひっ! 重ね重ね申し訳ありません……! 何なりと処罰を……!」
近くの数人は何だ何だとこちらの様子を伺っている。このままではあの素晴らしい踊りを止めてしまう。真南風は慌てて膝をつき、女性の肩にそっと触れた。
「お顔を上げてください」
「いけません姫さ……、若様。高価なお着物のお膝が汚れてしまいます」
「そんなことより踊りを一緒に観ませんか? あなたが座ったままでは私も立つことができません。それに先程の話の続きを教えて下さい。私、楽童子について知りたいんです」
女性がおそるおそる立ち上がってくれたので、真南風は胸を撫で下ろす。そうして二人が前を向くと、すでに演奏が止まっていた。真南風が辺りを見渡すも、百千代はいない。
「あれ……踊り終わって帰っちゃったのかな」
そう呟いた瞬間、真南風は右手を取られ、下から声が聞こえた。
「――なんとかわいらしいお嬢様だろうか。あなたに一首、詠ませて頂きたい」
「えっ?」
先程まで踊っていた百千代が片膝をつき、真南風を艶やかな表情で見上げていた。彼は困惑する真南風の手を握ったまま、即興の琉歌を詠んだ。
「夏ぬ陽射透かし薄雲流るる君が目前や群らぃ透けゆ」
(夏の陽射しが薄雲を透かすように、眩しいあなたの前では群衆すら透けて見えるようです)
異性に即興の琉歌を贈るのは最高の口説き文句である。美少年の色気ある唇から放たれたロマンティシズム溢れる一首に、隣の女性はときめきのあまり足元がふらついている。一般的な町娘なら一撃で恋に落ちるシチュエーションだ。
「放してください」
ところがその文化に覚えのない真南風には大して響かず、すかさず手を引き抜いた。よほど意外だったのか、百千代は大きく目を見開いた。
「私はお嬢様じゃありません。私は、おと――」
真南風が否定しようとすると、背後から叫び声が割り込んできた。
「百千代――!!」
「まずい! お嬢様、ご無礼をお許し下さい」
百千代は真南風を抱きかかえ、人混みで混雑する橋に向かって走り出した。
「きゃあ! 羨ましい!」
隣の女性は顔を真っ赤にして両手で口元を押さえた。その間にも叫び声が近付いてくる。男らしい野太い声だ。
「百千代、これから楽童子の集まりだぞ! また与那原親雲上を怒らせる気か!!」
「ただの練習なら兄上がいれば充分だろうが。俺は今日この子と遊ぶと決めたんだ!」
百千代の口調に先程の上品さは無いが、生き生きしている。こちらが彼の素の態度なのだろう。
「楽童子の二番手なのに、集まりに行かないんですか?」
抱きかかえられた真南風が尋ねた。
「もしかして練習風景でも見たいのか? だとしたら悪いな。楽童子は男しかいないからつまんねえ。それよりも俺ともっと楽しいことしようぜ」
百千代は風のような身のこなしで、足幅ほどの太さもない橋の手すりに飛び乗った。
「百千代、そのご令嬢を放さんか! 万が一怪我でもさせたらお父上の顔に泥を塗るぞ!」
「この俺が女性を傷つけるわけないだろう。女の扱いなんて微塵も知らない兄上はさっさとアカギの森に向かえ。男と踊ってばかりで貴重な若い時間を浪費するなんて俺は御免だ!」
百千代は人混みを避け、まるで曲芸師のように不安定な橋の手すりを駆けていく。地面を走るかのような迷いのなさと安定感だ。しかも真南風には全く振動が来ない。
真南風は首を伸ばし、追ってくる男を見た。百千代に似た美少年だが、細身な百千代と違って体格が良い。たった今、橋の袂にたどり着いたようだが、人通りが多いため百千代のように手すりを走るでもしない限り追いつけないだろう。
百千代は真南風を見下ろし、にっと歯を出して笑った。踊っていた最中の穏やかな表情とは違い、悪戯っ子のような幼さを孕んだ笑みだ。
「行きたいところはあるか? 俺は首里の町なら隅々まで遊び尽くしているからな。要望があればなんでも言って……」
そう言いかけたところで、百千代の体がぐらりと揺れる。
「貴様、いい加減にしろ! 天賦の才を授かりながら、いつまでもふらふらと……!」
追手の男が橋の手すりを両手でがっちり掴んでいた。彼の着物の袖から伸びる二本の太腕にはびっしりと血管が浮いている。潮風で傷んだ木製の手すりから、ミシミシと軋む音が聞こえた。
「や、やめろ兄上! この馬鹿力め! さっきこの子を傷つけるなと自分で……!」
百千代の訴えは届かず、追手の男は雄叫びを上げると共にすさまじい膂力を発揮し、長い手すりを端からへし折ってしまった。
足場を無くした百千代は真南風を抱いたまま川に落ちていく。
「……しまった!」
正気に戻った男が川を覗き込んだ。橋から川面まで大人の身長二人分ほどはある。
「百千代なら怪我はさせてないよな……?」
川面が映す、ゆらゆらと揺れる自分の顔に向かって呟いた。
すると、独り言のつもりだった問いかけに返事が来た。
「――その通り。俺はそんなヘマはしねえさ」
橋の裏から現れたのは真南風を抱いた百千代だ。偶然通りかかった小船に着地したようだ。
「兄上は楽童子を背負う花形なんだから、周りが見えなくなるその悪癖はさっさと直した方がいいぜ!」
高笑いと共に小船が去っていく。橋の上の男は分厚い人だかりに囲まれながら拳を握りしめた。彼の「百千代――!」という叫び声が虚しく響いた。




