第二十六章「神を盗め――知床脱出と、血の継承」
雪嵐は、強くなっていた。
施設の外はすでに吹雪と化し、ヘリの到達も難しい。
凛子はH-エリの肩を支えながら、廊下を駆ける。
惇が前方を警戒し、拳銃を片手に進む。
「このままじゃ包囲される……!」
惇が声を荒げる。
H-エリの体温は異常に低く、凛子の腕を伝う指先もまるで氷のようだった。
彼女はまだ完全に覚醒しておらず、歩くのもやっとだ。
「彼女は“覚えてる”の。記憶の中に――何かがある」
凛子の脳裏に、彼女のつぶやいた一言が残っていた。
>「……また……わたしを……見るの……?」
それは、何度も観察され、改造され、名を奪われた者の声だった。
Z-9でも、H-エリでもない、**最初の“わたし”**を知る者の声。
廊下の先に、複数の足音が迫ってきた。
黒い外套を纏い、無表情な信徒たちが押し寄せてくる。
「“灰原エリ”を引き渡せ。
彼女は“再神格化”の器として定められている」
その中央に立っていたのは、再び現れた日向小夜子だった。
彼女の表情には哀しみの色が浮かんでいた。
「あなたたちには分からない。
彼女はただの人間ではない。あの血を継いでいる」
「血……?」
凛子が問う。
日向は頷く。
「月読計画は、実験ではなかった。継承だったのよ。
“神の記憶”を人間の子宮で受胎させ、血統を操作した。
Z-9も、H-エリも……始まりの“E0”という少女の子孫」
惇が息を飲む。
「じゃあ……本物の“神”は、すでに死んでいた……?」
「ええ。E0は処分された。でも彼女の“遺伝構造”だけが生き延びた。
H-エリは、“記憶なき神の娘”。
だから私たちは彼女を神に戻す。
自己を知らない神ほど、制御しやすいものはないから」
その瞬間、凛子の中で何かが切れた。
「だったら、私が連れていくわ。この子を、あなたたちの“神”にはさせない」
日向は銃を向けようとしたが、惇が先に撃った。
銃声がこだまする。弾は日向の肩をかすめ、後ろの信徒が崩れ落ちた。
その隙をつき、三人は側道へと逃げ込む。
施設の奥にある非常口が唯一の脱出口だ。
だが、扉の先は吹雪。
外気温はマイナス25度。
生身での移動は不可能だった。
「……ここしかない」
惇が示したのは、かつて医療搬送用に使われていた試験用の雪上車だった。
バッテリーはかろうじて生きている。
凛子はH-エリを抱き上げ、車内のカプセル型保温室に寝かせる。
そのとき、彼女がふと目を開けた。
「あなた……わたしを……“ひとり”にしないで……」
凛子は静かに頷いた。
「絶対に置いていかない。あなたは“名前”を持っていいの。
“神”でも、“実験体”でもなく……ただ、あなただけの名を」
エリの唇が、微かに動いた。
「じゃあ……“アイ”と呼んで……」
それは、彼女自身が選んだ名だった。
「わかった。……アイ。さあ、帰ろう。生きて、名前を持って」
雪上車が唸りを上げて動き出す。
白い吹雪の中、三人は闇の深部からの脱出を開始した。
後方で研究施設が爆発音を立てて崩れる。
そこにはもう、“神”も、“信仰”も残っていなかった。




