第十七章「Z-9の本名――“灰原エリ”と禁じられた外科記録」
名古屋・熱田区。市内から少し離れた住宅街の奥にある、古びた病院――
“大堀整形研究所”。
かつては事故や戦災による大規模切断患者を受け入れる先進病院だったが、十数年前に突如閉鎖された。その理由は明かされていない。
惇がかつて聞いた噂では、「倫理委員会が再三の警告を出した」とされていた。
今、その廃病院の地下に、Z-9の断片記憶と繋がる“禁じられた記録”が眠っているという。
***
凛子は、手にしたデータスティックを慎重にパソコンへ差し込む。
画面に浮かび上がったのは、曖昧な神経マップと、崩れた言語構造。
人間の脳内で言葉になる寸前の“思念のもつれ”――それを一つ一つ紐解くように、凛子は検索を重ねた。
ふと、一つの断片が明瞭に浮かび上がった。
> …hai…hara…eri…
> H-A-I-B-A-R-A / E-R-I
「……灰原エリ?」
惇が手元の資料をめくる。
“灰原エリ”――2004年、13歳。交通事故により両脚切断。大堀整形研究所にて極秘の再生外科手術を受けた後、退院記録なし。
そしてその直後、研究所は“倫理的問題”を理由に閉鎖された。
惇はつぶやく。
「……この子が、Z-9……? でも、なぜ“名前”を消された……?」
***
研究所の地下に降りると、壁に剥がれたカルテの断片や、施錠された棚が残されていた。
惇がバールで古い保管ロッカーをこじ開けると、中から一冊の厚いファイルが現れる。
表紙には消えかけた字でこう記されていた。
> 《記録番号:Zeta-09》
> 《灰原エリ/13歳》
> 《自傷的再建意志による義肢同化進行観察報告》
凛子の手が震える。
「……これ……彼女、自分の意志で“義肢になりたい”と……?」
中には詳細な術後記録、彼女の神経同化の進行具合、義肢と脳神経の癒着図。
そして最後のページにはこう記されていた。
> 【備考】
> 被験者エリの“自己対象化傾向”は極めて高く、自己身体への帰属感を放棄している。
> 義肢を“本来の自分の形”と捉える明確な意思あり。
> 本件は倫理的検討を要するため、ZETAプロジェクトは凍結。
> 被験者データは“Z-9”として隔離処理。
その瞬間、凛子の脳内で“思い出しもしなかった痛み”が走った。
まるで、Z-9――灰原エリが、彼女に語りかけているようだった。
「痛いのは……私じゃない。
私の“失ったもの”を、誰かが忘れたとき――そのとき痛みは始まるの。
私は、忘れられることが怖かった。だから、“義肢”になったの」
凛子は、あの日の手術室を幻視する。
真っ白なライトの下、金属の冷たい感触。
少女が、自らの脚に触れながら、静かに呟いた。
> 「これが、私の“ほんとう”」
***
病院を出た後、夜の名古屋の空に雪が舞っていた。
凛子は立ち止まり、空を見上げる。
「惇……私は、彼女のことを“思い出すため”に、ここに来たんだと思う。
誰にも知られなかった存在に、名前を返すために」
惇はうなずいた。
「灰原エリは“Z-9”になった。そしてZ-9は、お前の中でまだ生きている。
きっと……お前が“自分自身”を思い出すまで、彼女も消えない」
凛子は目を閉じ、深く息を吸った。
「名前って、残酷ね。
でも、記録よりもずっと、優しい」




