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第五章 異形漂流(九)

 崖を流れる河を、船底に縛り付けられた状態で上る。

 虚という男が言ったとおり、「水以外喉を通らない」旅だった。

 船は、崖をよじ登る若者たちの肩にかかった縄だけで支えられている。

 上り始めると、船があちこち岩にあたり、水を弾く。

 体には常に浮遊感があり、足元が気持ち悪い。

 何より、屈強とはいえ、ただ二人の若者にすべてを託しているのが怖かった。

 三日後。 

 ようやくのぼり終えた時には、私は体中がぶるぶる震えていた。

 髪の毛まで、ぴりぴりと揺れているように感じる。

 船を下りると、虚という男は、ふやけた肉包のようなものをくれた。

「これはな、三日経たないと食べられるようにはならない固い飯だ」

 口に入れてみると味がなかった。

 こんなものは食べられない、と思ったが、飯が胃の腑に落ち込んだ途端、腹が鳴り始めた。

 急に空腹を感じ、私たちは目の前に積まれた飯を手づかみで食べた。

「じゃあ、私たちはこれで」

 食べ終わると、虚は再び船に乗って崖の下に消えた。

 若者二人は縄をつかんだまま、まだ崖の上にいた。

 が、声を掛け合うと、慎重な足取りで水の中に消えた。

 私たちは、しばらく唖然として見送っていた。

 空がやけに広く感じる。

 眼下には、玄都の町並みが小さく見えた。

 私は我に返り、辺りを見回す。

 崖の上は、一面の草原だった。

 草原の片隅に一軒だけ、薄い板でできた小さな家がある。

 家の近くにまた、崖があった。

 崖というよりは、巨大な岩が草原に突っ立ったといった感じだ。

 上に湖でもあるのか、岩を巻くように水が流れている。

 岩は上に行くほどせり出していた。

 ちょうど、頭の部分が大きなくさびが、打ち込まれているような形だ。

 上の方はうかがえなかった。

 辺りに仙人や道士の姿は見あたらない。

 私と程適は顔を見合わせた。

「あそこを訪ねるしかなさそうな気がしまさあ」

 程適が民家を見やる。

 草原を横切り、民家の窓から中をのぞく。

 中には老人が一人、土間にむしろを敷いて座っていた。

「何をしに来た」

 低い、警戒した声だった。

(りゆう)(ほう)(どう)を訪ねてきました。ここがそうですか」

「龍鳳洞か。それは、どんなところだ」

 老人は片眉を上げ、むしろの端を爪でいじっている。

「仙人や道士がいっぱいいるところです。この本に書いてある」

 学長の本を差し出すと、老人はしわがれた目を見開いた。

 思わず目の色を確かめる。

 茶色だ。

「誰が持っていたのだ」

「最初は、(こう)(りゆう)()という人だと思います。(しん)(こう)(えん)という人に贈られたんです」

 二人の名前が書かれた場所を見せると、老人は唸った。

「そうか。真香淵殿か」

「ご存知なんですか」

「あのお方は、無事にお逃げになったんだな」

 老人はため息を漏らす。

「逃げた?」

「ああ」

 本を撫でる老人の手は、油を吸い尽くした紙のようだった。指が上手く動かないのか、肌を掻く時のように関節が曲がったままだ。

「そうだ。そう、真香淵様がこれを人に贈られたか。間違いなく、迂峨過都(うおこと)のものだ」

「う……何ですって」

迂峨過都(うおこと)。そばに大きな岩があったろう。その上に仙人の国がある。龍鳳洞というのは、迂峨過都の中で一番大きな(どう)()の名だ。真香淵様は、そこにお住まいだった。仙人の国で一番偉いお方のお嬢さんだよ。お父様は真有公(しんゆうこう)様とおっしゃってな。迂峨過都の(てん)(くん)だ」

 天君。

 私たちは顔を見合わせた。

「その人に会いたいんです。迂峨過都へ案内していただけますか」

「その人などと言うな。天君とお呼びしろ」老人が眉を吊り上げ、目を開いた。しわの中に茶色の目が輝いている。「今年百二十歳になられた、仙人の中の仙人じゃぞ」

「百二十?」

 そんなに長生きの老人の話を、私は聞いたことがなかった。祖父や周りの使用人たちでも、百を超えて生きていた人は、まだ知らない。

 もちろん、華都で会った天君も、せいぜい七十歳か、それより少し年を取っているか、という雰囲気だった。

「私たちが会った天君は、そのようなお年には見えませんでした」

「仙人は不老不死だ。道を得られた時点で老化がおとまりになったのだろう」

「でも、百二十なんて」

「迂峨過都では、生まれた年月を記録している。間違いはない」

「天君と呼ばれる方が私たちの先生を殺したんです。鏡に映しだし、手を触れず、絞め殺した」

 老人はああ、とうなり、祈るように手を合わせると前屈みになって何か唱え始めた。

「それは間違いなく真有公様の道術だ。間近で見たか。ありがたいことだ」

 程適が勢いよく一歩踏み出した。

「何がありがてえもんか。それで、学長先生が死んだんだ」

 しかし、老人は祈りをやめなかった。

 程適を引き戻し、老人の前に屈み込む。

「天君は今、迂峨過都にいらっしゃるのですか」

「前の新月の頃、迂峨過都を気球でお出でになって、この前の満月を少し過ぎたころに玄都から気球でお戻りになった」

 もし、華都で事件を起こしたとしたら、時期が合っている。

「その時、少年はいませんでしたか。顔の綺麗な男なんですが」

 老人は天井を眺め、そこに以前の記憶が書き込んであるかのように目を細めた。

「さあな。皆、刺繍のある絹を頭からかぶっていたからな。そんなものが二人いて、大きな荷物を抱えていた」

「鸚鵡は見ませんでしたか。虹色の羽をした」

「それなら、先日、上を飛んでいった」

 鸚鵡がいるなら楊淵季もいるに違いない。

「どうか、迂峨過都に案内してください」

 私は膝をついて拝礼し、頭を下げた。

 老人の気怠(けだる)い声が、頭上から降ってきた。

「迂峨過都に上がるだけならば、玄都で気球を待っておればよかったのじゃが」

「気球、ですか」

「知らないのか」老人は呆れたように私たちを見た。「燃えない糸で球状の布を織り上げ、その中に熱した空気を入れて浮かび上がらせるものじゃ。下には箱がついておる。頑丈で、人がたくさん乗っても浮く」

「ああ、あれ、ですか」

 山から見た白い球体を思い出す。

 老人は乾いた目をしばたき、話を続けた。

「迂峨過都には七日に一度、玄都から貿易のために気球が上る。今日はちょうどその日じゃ。ただし、首破洞(しゅはどう)で審査を受け、通らなければそのまま気球で待つことになる」

「審査に通れば、天君にお会い出来ますか」

「それは無理じゃ。天君のお住まいである龍鳳洞は六十人の道士が厳重に守っておる。それに三日後にはまた、気球で玄都に戻らねばならん。天君にお会い出来るのは、道士になる資格のある者だけじゃよ。迂峨過都に行けるだけでもありがたいと思え」

「諦めるわけには参りません。天君に会うために華都から参ったのです」

 やれやれ、と老人はつぶやいた。

 それから時間をかけて立ち上がり、外に出る。

 そばには岩がそそり立っていた。

 岩の上から螺旋状に流れる水は、岩をけずった水路を通っている。

 二筋あって、草原に近いところは弧を描いたような格好で一つにつながっていた。

「この上に迂峨過都がある」

 老人は溜息をついた。

「税はなく、皆が長寿で、食料にも不足がない。迂峨過都を見てきた者は皆、そう言う。しかし、やつらはそれを見てくるだけだ」

「そのまま住み着いた人はいないんですか。一人も」

「一人おるよ。商人には監視がつくが、監視の者を振り切った男がいてな。玄都の者ではない。数年前に一人だけ、外から玄都に辿り着いた者がおった。青い目に金色の髪をした、大きな男だ」

 ――じゃあ、私も同じように監視の目をすり抜ければよい。

 私の考えがわかったのか、老人は疑うように目を細めた。

「しかし、あの男には道士の資格があったのかも知れぬ。もし、おまえさんが天君に会いたいのなら、一つ試してみたらよい。道士の才能がある者がここに辿り着くと、岩の上から船が迎えに下りてくるそうだ。そして、迂峨過都に上がれる。しかし、七十年生きてきて、一度もそんな者を見たことがないがな」

 老人が口の前で手を丸め、鳥のような音を出した。

「これが合図じゃ。待っておれ」

 言われたとおり、半刻ほど立っていたが何も起こらなかった。

 その間に、貿易気球が崖を上がってきた。

 乗り込もうか迷っていると、老人が、この者は天君に会いに来たのだ、と言って引き離す。

 慌てて手を伸ばしたが、間に合わなかった。

 気球は思ったよりも速く空に上がっていく。

 瞬く間に、草原に影を落としながら岩の奥の方に飛んで行った。

 どうやら、岩はかなりの奥行きを持つようだ。

 私たちのいる崖は四方が削れて島のようになっているが、岩はその四分の一を占めるような感じでそそり立っている。

 岩の影は崖全体を覆っていた。

 上に行くほど大きくなっているためそうなるのだろうが、実際、一番上の部分がどのくらい広いのかわからない。

 それにしても、岩の格好は危うい。下が崩れれば国ごと倒れてしまう。

 ふと岩を見上げた時だった。

 上の方で水が鳴り、押し流されるように小船が下りてきた。

 船は草原に投げ出されてはずむ。

 駆け寄ると、長い竹の棹を持った人が膝をつき、腰をさすっている。

 短い袴子を穿き、一重の着物に笠をかぶっていた。

「さては、欧陸洋様で」

 浅黒い男だった。こちらを向いて笑った目は、灰色だ。

「私、真孔景(しんこうけい)と申します。お迎えにあがりました」

 かたわらで老人が唖然としていた。

 それから、真孔景と私を見比べると、突然、草原に膝をつく。

「あ、ありがたや。七十年生きてきて、初めての(ぎよう)(こう)……」

 とうとう、老人は私に向かって祈りをささげ始めた。

 ――さっきとずいぶん違う。

 そう思って見守っていると、不意に体が浮いた。

 真孔景が、一尺は背の高い私を担ぎ上げている。

 降ろせ、という間もなく船に投げ込まれ、したたか腰を打った。

「じゃあ、欧陸洋様。迂峨過都に」

 やったことの割には、白い歯を見せてさわやかな笑顔をしている。

「待って、もう一人いるんです。友人が」

 真孔景は頭にかぶった笠を上げ、程適を見た。

「申し訳ないですな。お連れするのは欧陸洋様だけです。天君のご命令ですので」

 これでは(よう)(えん)()と同じように、さらわれてしまう。

 だが、ここで渋れば、迂峨過都に登る機会すら失う。

「程適。私は……行って来るよ」

「旦那あ」

 程適は心配そうに眉を寄せた。

「行くしかないんだ」

「……わかりやした。あの、旦那」

 程適は自分の帯を押さえて見せた。

 私もつられて帯を押さえる。

 帯玉があった。

「わかった。これを大切にする」

 できれば、私が無事で居続けられるように。

 そう祈る。

「それじゃあ」

 真孔景が船を担ぎ上げて水路に乗せた。

 金属がかみ合う音が聞こえたと思った途端、船が水路を登り始める。

「程適!」

 船から身を乗り出すと、程適が大きく手を振った。

「旦那、待っていてくだせえ。近くの藪から竹を切り出して、足場をつくってやります。必ず迎えに行きまさあ」

 私が手を振ると、真孔景が静かになさい、と言った。

 手を引っ込め、水路を眺める。

 水路には鎖が通っていた。

 上で、誰かが鎖を引き上げているらしい。

 船は鎖に引っかかるようにして水路を登っている。

 真孔景が、身を丸めるように言った。

「さもないと、頭と手足が吹っ飛びますよ。この先は難所でね」

 私は言われた通りに頭を抱える。

 ほどなく船底に激しい衝撃があった。

 金具が外れるような音がして船が宙に浮く。

 次の瞬間、真孔景が棹を力強く押し出し、船は草の上に着地した。

 その拍子に、私は船から転がり出る。

 私は頭を手で押さえたまま、目を閉じた。

 草の香りがした。

 柔らかさを背中に感じ、恐る恐る目を開ける。

 目の前には空があった。

 空には巨大な鳥が、羽ばたきもせず飛び交っていた。

いつもお読みいただきありがとうございます!

第五章はこれで終わり、次回から第六章です。

明日は、午前0時に第五までのあらすじを更新し、その後、午前6時に第六章(一)を更新します。

引き続きお楽しみいただけると幸いです。

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