第五章 異形漂流(八)
一日かかって谷へ下りると、道に出た。
そのまま進んでいくと、街に入っていく。
街の入り口には、ろばをつないだ民家があった。
「誰かいませんか」
控え目な声で呼びかけてみる。
返事はない。
「旦那、こうするんでさあ。誰かいねえかあ!」
程適が突然、大声を上げた。
私は慌てて、彼の口を押さえる。
程適がもごもごと文句を言った。
「どういう人がいるかわからないところなんだ。もう少し、慎重に」
程適が私の手を振りはらった。
「だったら、旦那。最初から声なんか掛けちゃだめでさあ」
呆れたように私を見上げている。
それもそうだ、と言おうとしたとき、家の戸がきしんだ。
身構えていると、十歳くらいの少年が現れ、面倒くさそうに頭をかいた。
「客か。誰に何を吹き込まれたんだ。金銀財宝か、それとも不老不死か。どのみち、ここにはそんなものないよ」
「いや、そういうわけではなくて」
「そうじゃない?」
少年は怪訝そうに眉を寄せた。
「龍鳳山に行きたいんだ」
「……ばかか?」
少年は目を見開いた。
「本気だ」
私も、ちょっとむっとして言い返す。
「ばか。あれは仙人しか登れない山だ。帰れ」
「用事があるんだ。天君という者に会いたい」
すると、ろばが急にいなないた。
「やめろ。天君なんて、むやみに口にする言葉じゃない」
少年は胸の辺りを押さえ、大げさに深呼吸をする。
「でも、私の学友が天君にさらわれたんだ」
「おまえ、本当に天君を訪ねてきたんだな」
「本当だ」
少年はしばらく私たちを眺め、値踏みするように体を反らした。
「俺の手には負えん。ちょっと来い」
そう言うと、ろばを引き連れて歩き出す。
人混みに出ると、楼閣の前に昨日見た箱がおいてあった。
人はもう乗っていない。中も空で、球体も見あたらなかった。
突然、少年がこちらを向いた。
「あとは、虚さんがどうにかしてくれるだろう。ここで立っていろ」
こちらの礼も聞かずに少年は去っていく。
程適が不安そうに私を見上げた。
私も肩をすくめた。
しばらく待っていると、近くの酒店の扉が開き、中から三十過ぎの男が現れた。
やけに肩幅が広く、足が太い男だ。
「何だ、客か」
男は赤ら顔で激しく笑い、私たちを店に招き入れた。
店の机はどれも赤く、椅子も赤い。
勧められた椅子に腰掛けると、つぎつぎと酒を出された。
男の背後には、私よりも背が高く、胴回りが三倍もある若者が二人立っている。
「道士になりたいのか。この玄都の近くには、修行にちょうどいい洞窟がいっぱいあるぞ」
「龍鳳山というのも、その一つですか」
「ああ、あれはだめだ」
男は簡単にそう言い、自分で酒を注ぎ足し、一気に杯を空けた。
机の上にあった酒の壺を取って杯に注いでやると、男は、どうも、と言って、また飲み干す。
「しかし、龍鳳山とは俗な名前を知っているものだな。どこでそれを」
「本です。『西方異聞』というものと」
程適に目配せする。彼が『医療小冊』を取り出すと、男は酒を飲む手を休めた。
「それに、龍鳳山とあったのか」
「いえ、こちらは龍鳳洞と」
「そうだろうな。どこでその本を見つけた」
「華都で」
男は、華都と繰り返し、天井に視線を這わせる。
「合理主義の頭の固い華都に、か。それで、ここを訪ねて来たのは」
すでにたくさんの酒の壺を空けているが、まだ酔っていないらしい。
「道士になるためじゃありません。天君という人が華都で殺人をしたんです。それだけじゃなくて、学友を連れ去ったんです」
天君、という言葉を聞くと、男は体を震わせた。
私は男に事情を話してみた。
学長が殺されたこと、直接手を触れず、鏡をつかって絞め殺したこと。
聞き終わると、男は、ふん、とつぶやき、立ち上がった。
「私の手には負えないな。着いてきなさい。多少困難な道だが」
「困難なのは、これまでもそうでした」
「そうかな。困難を見上げればきりがないもんだ。……おい!」
男は控えていた若者たちを呼び、「船を出すぞ」と告げた。
「それから、嬢ちゃん。六日分の水と、例の飯だ。客は二人いるぞ」
男が言うと、店の少女たちが弾かれたように厨房に入った。
「六日? そんなにかかるんですか?」
「行きは三日だ。こっちは帰ってこなきゃならんからな。さ、こっちだ」
導かれて、店の裏口から出る。
男は山に向かって歩いて行く。
後ろから船と水を入れた革袋を担いだ若者たちが従っている。
目の前の山には白い道が真っ直ぐ伸びていた。
「旦那、あれ」
程適に袖を引かれて山の上の方を見る。
道の途中がけぶっているのが見えた。
目を凝らすと、道全体が常に動いている。
「これ、道では、ない?」
「河でさあ」
嫌な予感がした。
『西方異聞』の言葉だ。――三日、河をさかのぼれば龍鳳山あり。
男は何も言わなかった。
質問をするには、男の醸す雰囲気が冷たすぎる。
無言で歩き続けると、とうとう河が玄都にそそぎ込む地点までやって来てしまった。
「これを登るぞ」
やはりだ。
河を見上げ、愕然とする。
滝じゃないのが不思議なくらいだった。
とうてい船で上がれるものには思えない。
「旦那あ」
程適が涙声で悲鳴を上げた。
そちらを見ると、人の頭蓋骨がいくつも転がっているのが目に入る。
「ああ、それか」男が軽く鼻を鳴らした。
「仙人になり損ねた道士だろう。風に吹かれたか、水に流されたのだろう。この崖の向こうには時々人が降ってくるのだ。そちらには住まないようにしている」
当たったら危ないだろう、と男は顔をしかめた。
「そういうことでは」
ない、と思ったが、ここではひどく人の命が希薄な気がして、言葉を飲み込む。
私たちが話しているうちに、若者たちは縄を持って水の中に入っていった。
腰まで水に浸かりながら、河の中に打った杭のようなものに縄をかけている。
一通りかけ終わると、若者の一人が顔を上げた。
「どうぞ。虚先生」
男が重々しくうなずき、船に乗り込む。
私たちも革袋を持ってあとに続き、船底に腰を下ろす。
若者たちが近づいてきて、男や私たちの体を船に縛りつけた。
何をするのだろうと思ったが、男が黙って縛られているのでそのまま従う。
縄は船にもくくりつけられた。
「参ります」
若者たちは縄の端を肩に掛けていた。そのまま、流れにさからって歩き出す。
まさか、と思っていると、男が窮屈そうに体をねじりながらこちらを向いた。
「こんなふうだが、自分の足で登るより楽だ。食事は三日我慢しろ。なあに、恐怖で水以外、喉を通らんだろう」
程適が泣き出しそうな顔で私を見た。
「行軍よりましだよ」
私も強張った笑みを返す。
程適は、嘘だろう、と言うように緩く首を振った。




