9
馬車での事故から数日が過ぎた。
あの日以来、アルフレート様は邸宅に顔を見せなかった。軍務省に泊まり込んでいるのか、あるいは意図的に私を避けているのか。
静かな客室で、私は一人、窓辺から広大な庭園を見下ろしていた。
コン、と控えめなノックの音が響く。
「お嬢様。……その、ヴァルター公爵家の方から、お届け物が」
部屋に入ってきたミアナは、両腕に抱えきれないほどの大きな箱を持っていた。その顔には、明らかな困惑と警戒が浮かんでいる。
箱の表面には、銀糸で鷹の紋章が刺繍された豪奢なリボンがかけられていた。
「アルフレート様から?」
「はい。今夜の晩餐に、お嬢様をご招待したいと。それから、こちらを身に着けてきてほしい、との言伝でした」
ミアナが慎重にリボンを解き、箱の蓋を開ける。
中から現れたのは、目を奪われるような美しいドレスだった。
夜空をそのまま切り取ったかのような深い濃紺のシルク地に、星屑のように細かな銀の刺繍が施されている。シュタルク侯爵家でも見たことがないほど、上質で洗練された一着だ。
さらに、ドレスの下には小さなベルベットの小箱も添えられていた。開けると、大粒のサファイアをあしらったネックレスが鈍い光を放っている。
「……罠です、お嬢様」
ミアナが、親の仇でも見るかのような目でドレスを睨みつけた。
「今まであんなに冷たく放置していたのに、突然このような高価な贈り物をよこすなんて。絶対に裏があります。毒でも塗ってあるのではありませんか?」
「まさか。公爵家の名に傷がつくような真似はなさらないわ」
私はネックレスの冷たい石の感触を指先でなぞりながら、小さく息を吐いた。
確かに、不自然だ。
私を遠ざけるために、わざわざ悪路を選んで馬車を走らせた人が、今度はこんなにも甘やかな贈り物をしてくるなんて。
でも、彼の行動の裏には、いつだって彼なりの「計算」がある。
私を嫌っているから冷たくしたのではない。私を遠ざけるために、冷たい婚約者を演じていただけだ。
ならば、この贈り物も。
「ミアナ、着替えを手伝ってちょうだい。せっかくの贈り物なのだから、身に着けないのは失礼になるわ」
「本気でいらっしゃるのですか……? あの方が、何を企んでいるかわからないのですよ」
「ええ。だからこそ、確かめに行かなくてはならないの」
鏡の前に立つ。
濃紺のドレスは、あつらえたように私の体にぴったりと寄り添った。胸元で輝くサファイアが、少しだけ私の心を重くする。
この重さの理由を、今夜、彼自身の口から聞かせてもらうつもりだった。
[* * *]
案内されたのは、いつもアルフレート様が一人で食事をとるという、本邸の奥にある私的なダイニングルームだった。
部屋に入った瞬間、ふわりと薔薇の香りが漂ってくる。
長いテーブルの中央には、深紅の薔薇が溢れんばかりに飾られていた。燭台の柔らかな光が、磨き上げられた銀食器をきらきらと照らしている。
テーブルの奥に、彼がいた。
「よく来てくれたね、エリーゼ」
いつもの漆黒の軍服ではない。
仕立ての良い、柔らかな生地の夜会服。銀色の髪は整えられ、そして何より――彼の口元には、穏やかな微笑みが浮かんでいた。
「とてもよく似合っている。私の見立てに間違いはなかったようだ」
――ちくり。
不意に、胸の奥で小さな針が跳ねた。
とてもよく似合っている。それが、嘘。
「お招きいただき、ありがとうございます。素晴らしい贈り物に、驚いてしまいました」
私は静かにカーテシーをして見せ、彼が引いてくれた椅子に腰を下ろす。
アルフレート様は、私の向かいの席に座り、ゆったりと足を組んだ。
「驚かせてしまったなら謝ろう。だが、君にはこれくらい美しいものを身に着ける価値がある」
――ちくり。
「今までの私の態度は、少しばかり軍人としての堅さが抜けきっていなかったようだ。君のような可憐な令嬢を、不安にさせてしまったことを反省している」
――ちくり。ちくり。
なめらかに紡がれる言葉。
まるで、恋愛小説に登場する完璧な王子様のような、甘く優しい台詞の数々。
そのすべてが、私の胸を容赦なく刺し貫いていく。
前菜が運ばれてきた。色鮮やかな魚介のマリネ。
食事が進む間も、アルフレート様の口からは甘い言葉が絶え間なくこぼれ落ちた。
「君の髪の色は、秋の木漏れ日のように温かくて美しい。ずっと見ていても飽きないな」
――ちくり。
「シュタルク侯爵家での君の暮らしぶりをもっと教えてくれないか。君のすべてを知りたいんだ」
――ちくり。
「……アルフレート様」
私はフォークを置き、彼の青い瞳を見つめ返した。
その瞳には、かつてのような氷の冷たさはない。熱を帯びた、甘く蕩けるような眼差し。
完璧な演技だ。社交界の令嬢たちが見れば、一瞬で心を奪われてしまうほどの。
「どうした? 料理の口に合わなかったか」
「いいえ、とても美味しいですわ。ただ……少し、戸惑っておりますの」
「無理もない」
アルフレート様は、自分のグラスのワインを軽く揺らした。
「顔合わせの時、私は君に『感情を持ち込むつもりはない』と言った。だが、この邸宅で過ごす君の姿を見ているうちに、私の心境に変化が生まれたんだ」
――ちくり。
「君の落ち着いた振る舞い。どんな冷遇にも耐える強さ。それに惹かれない男がいるだろうか」
――ちくり。
「私は、君を心から愛し始めている」
――ぎゅっ。
今までで一番強い痛みが、心臓を鷲掴みにした。
呼吸が止まりそうになる。
奥歯をきつく噛み締めた。ドレスの膝の上で、両手が無意識に拳を作っている。
痛い。痛い。
彼が言葉を重ねるたびに、胸の奥がずたずたに引き裂かれていくような錯覚を覚える。
悪意のある嘘ではない。
でも、これは明らかに私を「騙す」ための嘘だ。
私を安心させ、心を許させ、完璧な婚約者だと思わせる。
そして、私が完全に彼を信じ切ったところで――冷酷に突き放すつもりなのだ。
『やはり君への愛は錯覚だった。婚約は破棄しよう』とでも言うつもりだろうか。
一度持ち上げてから、真っ逆さまに叩き落とす。そうすれば、どんなに頑固な令嬢でも完全に心が折れて、自分から逃げ出すはずだから。
それが、彼の新しい「計画」。
私を守るために、私を徹底的に傷つけるための、最も残酷な手段。
「……嬉しいですわ」
私は、痛みを堪えてふわりと微笑んでみせた。
私が彼の演技に騙されたと思ったのか、アルフレート様の青い瞳の奥で、ほんの一瞬だけ冷たい計算の光が瞬いた。
「そう言ってもらえて安心した。君のそのサファイアのネックレスは、私の瞳の色と同じだ。君がそれを身に着けていると、私が常に君のそばにいるように感じられるだろう?」
――ちくり。
「君を世界で一番幸せな公爵夫人にすると誓おう。三ヶ月後、正式に結婚式を――」
――ちくり。
「アルフレート様」
私は、静かに彼の言葉を遮った。
「あの」
「ん? なんだい、エリーゼ」
完璧な甘い笑顔。
私は、テーブルに置かれた自分のワイングラスを指先でそっと弾いた。
チリン、と高く澄んだ音が、ダイニングルームの静寂に響く。
「今日のあなた、いつもより嘘が多いですね」
ぴたり、と。
アルフレート様の動きが完全に停止した。
ワイングラスを持ったままの指先が、石膏像のように固まっている。
「……何を、言っている」
「顔合わせの日も、お茶会の日も、あなたは嘘をついていらっしゃいました。でも、今日は特別多いです」
私は彼を真っ直ぐに見据えた。
「まるで、息をするように嘘をついていらっしゃる。ドレスが似合っているということも、反省しているということも、私の髪が美しいということも」
「……っ」
「そして、私を愛し始めているということも。全部、嘘」
沈黙が落ちた。
燭台の炎が、わずかな風に揺れて頼りない影を壁に落とす。
アルフレート様の顔から、先ほどまでの甘い微笑みが完全に消え失せていた。
代わりに浮かび上がったのは、見開かれた目と、かすかに震える唇。
完璧な計画が、根底から崩れ去った人間の顔だった。
「……なぜ、そう思う」
彼が絞り出した声は、ひどく低く、かすれていた。
「強がりか? それとも、私の演技がどこか不自然だったとでも言うのか。私の言葉は完璧だったはずだ。誰が聞いても、心からの求愛にしか聞こえないように――」
「言葉は完璧でしたわ」
私は小さく首を横に振った。
「でも、わかるんです。あなたが何を言っても、それが嘘だと」
アルフレート様は、無言でテーブルの上のナプキンを強く握りしめた。
青い瞳が、私という存在の正体を測りかねるように激しく揺れ動いている。
彼は聡明だ。私がただの当てずっぽうや強がりで言っているのではないと、この数週間の私の態度からすでに察しているはずだ。
「だから、そんな無理をして甘い言葉を並べるのはやめてくださいな」
私は、少しだけ困ったように眉を下げてみせた。
「あなたが嘘をつくたびに、私、なんだかとても……悲しくなってしまうんです」
胸が痛いのは事実だ。
けれど、それ以上に、彼が自分自身を偽ってまで私を遠ざけようとするその姿を見ているのが、ひどく息苦しかった。
「……ありえない」
アルフレート様が、うわ言のように呟いた。
彼はゆっくりと立ち上がり、私から距離を取るように数歩後ずさった。
その顔には、かつてないほどの強い動揺が張り付いている。
「私の、完璧な演技が……。君には、最初からすべて見透かされていたというのか」
彼は頭を抱えるように片手を額に当て、私の顔を凝視した。
化け物でも見るかのような、怯えに似た眼差し。
いや、彼が怯えているのは私に対してではない。自分の思い通りにならないこの状況そのものに対してだ。
「アルフレート様。どうして、そこまでして私を遠ざけようとなさるの?」
私は席を立ち、彼の方へ一歩だけ近づいた。
「冷たい言葉で突き放すのも、甘い言葉で騙そうとするのも。私を家から追い出すためですよね。でも、馬車の事故の時は、ご自分の身を挺して私を守ってくださいました」
「来るな」
彼が、鋭い声で私を制止した。
伸ばしかけた彼の手が、空中で固まっている。
「それ以上、私に近づくな。……君は、異常だ。普通の令嬢ではない」
――ちくり。
異常だ。
普通の令嬢ではない。
彼が吐き捨てたその拒絶の言葉すら、嘘の痛みを伴って私に届く。
「私は、少し勘が良いだけですわ」
「帰れ。今夜の晩餐は終わりだ」
彼はそれだけを言い残し、逃げるようにダイニングルームを出て行ってしまった。
バタン、と重い扉が閉まる音が、静かな部屋に空しく響く。
残された私は、テーブルに飾られた深紅の薔薇をそっと撫でた。
完璧な演技で私を騙そうとした、彼の二番目の計画。
それも、これで失敗に終わった。
「……でも、まだ教えてはくださらないのね」
胸元で冷たく光るサファイアのネックレスを指で摘む。
彼が嘘をついてまで、私を遠ざけなければならない理由。
この邸宅に隠された、本当の秘密。
彼の計画が崩れていくにつれて、その核心へと少しずつ近づいているような気がした。




