10
あの日、私から逃げるようにダイニングルームを飛び出していったアルフレート様は、それから三日間、一度も本邸に姿を見せなかった。
灰色の雲から落ちる冷たい雨が、硝子窓を単調なリズムで叩き続けている。
私は客室の窓辺に立ち、ぼんやりと濡れた庭園を見下ろしていた。
「お嬢様、湯冷めしてしまいますよ」
背後から近づいてきたミアナが、私の肩にふわりと厚手のショールをかけた。
「……ありがとう、ミアナ」
「それにしても、公爵家の当主様ともあろうお方が、ご自分の屋敷に三日も寄り付かないなんて。軍務省の仮眠室に寝泊まりされていると執事長は言っておりましたが、いくらなんでもお嬢様を放置しすぎです」
ミアナが、恨めしそうに唇を尖らせる。
彼女の目には、婚約者をないがしろにする冷酷な男の姿しか映っていないのだろう。世間の目も、きっと同じだ。
でも、私にはわかっていた。
彼は、私を放置しているのではない。
私から「逃げて」いるのだ。
自分の完璧な演技が通用しないと知って。
私を傷つけるための嘘が、すべて見透かされていると気づいて。
どう対処していいかわからなくなり、物理的に距離を置くという、ひどく子供じみた手段に出ているだけ。
胸元に手を当てる。
そこには、あの日彼から贈られたサファイアのネックレスの代わりに、いつものシンプルな銀のペンダントがあった。
目を閉じると、三日前の晩餐での出来事が鮮明に蘇ってくる。
『私は、君を心から愛し始めている』
甘く、熱を帯びた瞳で囁かれたその言葉。
思い出すだけで、胸の奥がぎゅっと雑巾を絞られるように軋んだ。あの時感じた、息が止まるほどの痛みの余韻が、まだ体の芯にこびりついている。
悪意のある嘘ではなかった。
でも、あれは間違いなく、私の心を真っ逆さまに叩き落とすために周到に用意された嘘だった。
私に愛情を信じ込ませ、安心させたところで、残酷に切り捨てる。そうすれば、私が完全に絶望してこの家から出て行くと計算したのだろう。
そこまでして。
自分自身を偽り、心を削ってまで、なぜ私を追い出そうとするのか。
「……不器用すぎるわ」
窓ガラスに指先を這わせる。
冷たい硝子の感触が、あの人の凍りついた瞳を思わせた。
彼が抱えている、どうしようもないほどの恐れ。私を遠ざけなければならない、決定的な理由。
それを見つけ出すまでは、絶対にこの家を出ていくわけにはいかない。
[* * *]
王都の裏通りにひっそりと佇む、会員制の高級サロン。
葉巻の煙と、年を経た酒の芳醇な香りが染み付いた薄暗い空間で、俺――レオン・クラインは、グラスの中の琥珀色の液体を気怠く揺らしていた。
カラン、と氷が乾いた音を立てる。
外はひどい土砂降りだ。こんな夜にわざわざ酒を飲みに来る物好きは、俺くらいのものだろうと思っていた。
重厚なオーク材の扉が、乱暴に開け放たれるまでは。
「……おいおい」
入り口に立つ人影を見て、俺は思わず呆れた声を漏らした。
ずぶ濡れの黒い外套。
いつもなら一糸乱れぬ完璧な銀髪は、雨水を吸って額にべったりと張り付いている。軍服の襟元も乱れ、息は荒い。
社交界の貴婦人たちが憧れてやまない『氷の公爵』の、見る影もない姿がそこにあった。
「アルフレート。お前、馬車も使わずに軍務省から歩いてきたのか」
アルフレートは俺の言葉を無視して、濡れた外套を乱暴に脱ぎ捨てた。
ズカズカと足音を立てて俺の向かいのソファに腰を下ろすと、カウンターの奥にいるマスターに向かって鋭く言い放つ。
「一番強い酒を。ボトルで構わない」
マスターが静かに頷き、度数の高い蒸留酒の瓶とグラスをテーブルに置いた。
アルフレートは自らグラスになみなみと酒を注ぎ、水でも飲むかのように一気に煽った。
「……おい、死ぬぞ」
俺が止めに入る間もなく、アルフレートは空になったグラスをドンッとテーブルに叩きつけた。
その目はひどく充血し、目の下には色濃い隈が張り付いている。
「で? 三日間も屋敷に帰らず、軍務省の仮眠室に引きこもっていた挙げ句、土砂降りの中を歩いてヤケ酒か。お前、とうとう狂ったか?」
「……狂いそうだ。いや、もう狂っているのかもしれん」
アルフレートは頭を抱え、深く、重い吐息を漏らした。
いつもの冷徹な仮面は、完全に砕け散っている。
「どうした。お前の自慢の『完璧な計画』とやらは、どうなったんだ」
俺がわざと皮肉たっぷりに尋ねると、アルフレートは血走った目で俺を睨みつけた。
「三日前の夜。私は彼女を晩餐に招いた。最高のドレスと宝石を贈り、完璧な夜会服で出迎えた。花も、食事も、ワインも、すべて一級品を用意した」
「ほう。突き放す作戦から、甘やかして落とす作戦に切り替えたわけだ。性格が悪いな」
「黙って聞け」
アルフレートは再びグラスに酒を注いだ。今度は一気飲みせず、じっと水面を見つめている。
「私は彼女に、愛の言葉を囁いた。惹かれている、愛し始めていると。声のトーンも、表情も、完璧に調整した。誰がどう見ても、恋に落ちた男の姿だったはずだ」
「それで? 令嬢は頬を染めて喜んだか?」
「……笑ったよ」
アルフレートの声が、微かに震えた。
「彼女は笑って、こう言った。『今日のあなた、いつもより嘘が多いですね』と」
俺は、口に含みかけた酒を危うく吹き出しそうになった。
慌てて咳き込み、グラスを置く。
「ぶっ……! はははっ! 嘘が多い、って、お前、完全に真っ向から見透かされてるじゃないか!」
「笑い事ではない!」
アルフレートがバンッとテーブルを叩いた。
グラスが跳ね、琥珀色の液体が数滴こぼれる。
「私の演技は完璧だった。本当に、自分でも恐ろしいほどに。それなのに、彼女は全く迷いなく、私が嘘をついていると断言した。顔合わせの時も、茶会の時も、全部嘘だったと。まるで、私の心の中を直接覗き込んでいるかのように」
アルフレートの顔には、明確な『恐怖』が浮かんでいた。
自分がコントロールできない未知の存在に対する、本能的な恐れ。
「お前が不器用すぎるだけだろ。彼女には、お前の必死な作り笑いが見え見えだったんだよ」
「違う。あれは……そういう次元の話ではない。彼女は理屈ではなく、感覚で私の嘘を察知している。私が言葉を発した瞬間に、それが真実か虚偽かを、寸分の狂いもなく判別しているんだ」
アルフレートは両手で顔を覆った。
「私が嘘をつくたびに、彼女は悲しそうな顔をした。私が自分自身を偽っていることすら、彼女にはバレている。……もう、手がない。あんな存在に対して、どのような策を講じればいいというんだ」
ひどく疲弊した声。
天下の軍務卿が、たった一人の侯爵令嬢の前に完全降伏している姿は、滑稽を通り越して哀れだった。
俺は小さく息を吐き、シガーケースから葉巻を一本取り出した。
「なあ、アル。お前、もういい加減にその馬鹿げたゲームをやめたらどうだ」
「やめる、だと?」
「ああ。彼女がお前の嘘を見抜いているなら、好都合じゃないか。お前も無理して冷酷な男を演じる必要はない。彼女は、お前が本当はそんな冷たい人間じゃないってことをわかってくれているんだろ」
葉巻に火をつけ、紫煙を吐き出す。
「そのまま結婚しろよ。彼女は間違いなく、お前にとって最良の伴侶になる。お前だって、彼女のことが嫌いなわけじゃない。むしろ――」
「やめろ」
アルフレートの声が、ひどく低く、冷たく響いた。
顔を覆っていた手をどけた彼の瞳には、先ほどまでの狼狽は消え、代わりに底なしの暗い絶望が張り付いていた。
「私が、彼女と結ばれることなど、絶対にありえない」
「なぜだ」
俺は葉巻を灰皿に置き、身を乗り出した。
「家柄の問題じゃない。彼女の性格に難があるわけでもない。お前が彼女を遠ざけようとする本当の理由はなんだ。なぜ、そこまでして彼女を突き放す必要がある」
アルフレートは、グラスに残った酒を飲み干した。
喉仏が動き、強いアルコールが食道を焼くのを静かに耐えるように、目を閉じる。
「……レオン。お前も、噂くらいは聞いたことがあるだろう」
静かな、諦めを含んだ声。
「ヴァルター公爵家に代々伝わる、『初代公爵の呪い』の話を」
俺の心臓が、ドクンと一つ大きく跳ねた。
ついに、その言葉を口にしたか。
「……ヴァルター家の男は、愛した者を不幸にする。そういうおとぎ話だろ。酒場の三流吟遊詩人でさえ、今どきそんな使い古されたネタは歌わないぜ」
俺がわざと軽口を叩くと、アルフレートは自嘲するように唇の端を歪めた。
「おとぎ話ではない。事実だ」
彼の青い瞳が、虚空を見つめる。
そこには、俺の知らない過去の光景が映っているようだった。
「私の母がそうだった」
アルフレートの母、先代の公爵夫人。
優しく、美しかったという彼女は、アルフレートがまだ幼い頃に公爵邸の奥深くに隔離され、誰とも会うことなく、若くしてひっそりとこの世を去った。
表向きは流行り病とされているが、貴族たちの間では「夫の愛を失い、心を病んだ」と囁かれていた。
「父は母を愛していた。だが、その愛が母を壊した。母は日ごとに衰弱し、最後は私すら認識できないほどに心を閉ざして、狂い死んだ。ヴァルターの血に流れる呪いが、母の命を食い殺したんだ」
アルフレートの握りしめた拳が、かすかに震えている。
「私にも、その血が流れている。私が誰かを愛すれば、その人間は必ず不幸になる。どれだけ守ろうとしても、運命が、呪いが、愛した者を容赦なく引き裂くんだ」
雨音が、ひときわ大きく窓を打った。
アルフレートは真っ直ぐに俺を見る。
「エリーゼは……あの令嬢は、美しすぎる。心根が、真っ直ぐすぎるんだ。あんな汚れを知らない人間を、私の呪いに巻き込むわけにはいかない。彼女が私に惹かれる前に、私が彼女を愛してしまう前に、絶対に引き剥がさなければならない」
それが、彼の『試し行動』の本当の理由。
自分が愛してしまうことで、相手を壊してしまうという強迫観念。
守るために、傷つけて突き放す。彼なりの、ひどく歪んだ愛情の形だった。
「……お前、その呪いとやらを、本気で信じているのか」
「信じている。この目で、母の最期を見たからな」
アルフレートの答えには、一片の迷いもなかった。
俺は、テーブルの下で自分の膝を強く握りしめた。
言え。
今すぐ、言ってしまえ。
俺は知っている。
先代公爵の書斎の隠し引き出しの中に、一通の手紙が残されていたことを。
『呪いなど存在しない。あれは、私が政争から妻を守るためについた嘘だった』と書かれた、真実の手紙を。
アルフレートの母が心を病んだのは、呪いのせいではない。
先代公爵が妻を守るためについた『お前を愛していない』という嘘が、結果として彼女を追い詰めてしまっただけなのだ。
だが。
その言葉は、俺の喉の奥でつっかえたまま、どうしても声にならなかった。
(今、こいつにそれを言ったところで、信じるか?)
二十年以上も信じ込み、自分を律してきた呪いの存在。
それを突然「嘘だった」と第三者から告げられて、はいそうですかと受け入れられるはずがない。逆に、俺が彼を慰めるための嘘をついていると疑うだろう。
それに、問題の根質はそこではない。
アルフレート自身が、自分の感情と向き合い、過去のトラウマを乗り越えなければ、仮に呪いがないと知ったところで、別の理由をつけてエリーゼから逃げるだけだ。
「……そうか」
俺は短く応え、グラスの酒を飲み干した。
「だが、お前のその不器用な嘘は、彼女には通用しない。これからどうするつもりだ?」
「わからない。だが……どうにかして、彼女から婚約解消を申し出させる。どんな手を使ってでも」
アルフレートは立ち上がり、濡れた外套を再び羽織った。
彼の目には、悲壮な決意が宿っている。
「邪魔をしたな。……ツケにしておいてくれ」
ドアベルを鳴らして、アルフレートが雨の降る夜の街へと消えていく。
残された俺は、一本の葉巻を吸い終わるまで、誰もいないソファを見つめていた。
「どんな手を使ってでも、か」
紫煙を吐き出しながら、低く呟く。
こいつは気づいていない。
呪いに巻き込みたくないから遠ざけると言いながら、その行動の根底にあるのは、すでにエリーゼに対する『執着』と『愛情』だということに。
「……もう、手遅れだと思うぜ。アル」
俺の独り言は、雨音に掻き消されて誰の耳にも届かなかった。




