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窓を開けると、ひんやりとした雨上がりの匂いがした。
三日続いた土砂降りが嘘のように、今朝の王都はすっきりと晴れ渡っている。陽の光を浴びた庭園の木々が、葉についた雫をきらきらと輝かせていた。
「お嬢様。そろそろ、お茶が冷めてしまいますよ」
背後から聞こえたミアナの声に、私は窓辺からテーブルへと振り返った。
用意されていたのは、温かいミルクティーと焼き菓子。けれど、それを勧めるミアナの表情は、晴天とは裏腹にひどく曇っている。
「……やはり、今日もお戻りにならないのでしょうか」
ミアナが、恨めしそうに空のティーカップを見つめた。
アルフレート様が邸宅に姿を見せなくなってから、四日が経つ。
軍務省の執務室に泊まり込んでいるという連絡は執事長から受けているけれど、それが私を避けるための口実であることは、屋敷の誰もが察していた。
婚約者を放置して、家に帰らない公爵様。
使用人たちが私に向ける視線には、明らかな同情が混じり始めている。
「お嬢様、やはり旦那様宛てにお手紙を書きましょう。このような扱い、いくらなんでもひどすぎます。あの方は、お嬢様を試すだけ試して、思い通りにならないからと逃げているだけではありませんか」
ミアナが、ぎゅうっとエプロンの裾を握りしめた。
彼女の怒りはもっともだ。私を大切に思ってくれているからこそ、アルフレート様の態度が許せないのだろう。
「手紙は出さないわ。お兄様がまた乗り込んでくるもの」
私は席につき、ミルクティーを一口飲んだ。
優しい甘さが、喉の奥にじんわりと広がっていく。
「私、ちっとも怒っていないのよ。むしろ、少し可哀想だと思っているくらい」
「可哀想……ですか? あの方が?」
ミアナは信じられないというように目を丸くした。
「ええ。ミアナ。私、今まであなたにもはっきりと言葉にしたことはなかったけれど」
カップをソーサーに戻し、私は自分の胸元にそっと手を当てた。
「私、昔から、人が嘘をつくと胸の奥が痛むの」
ミアナの動きが、ぴたりと止まった。
彼女は何度か瞬きをして、私の言葉の意味を反芻しているようだった。
「痛む、とは……比喩ではなく?」
「比喩じゃないわ。本当に、物理的に痛いのよ。見えない針でチクッと刺されるような感じ。悪意のある嘘ほど深く刺さるし、建前のような嘘なら浅い痛みになる」
幼い頃からの記憶が、ふっと蘇る。
初めての夜会。
きらびやかなシャンデリアの下で、扇で口元を隠して微笑み合う貴族たち。
『シュタルク家の令嬢は、本当に愛らしいですね』
『あなたのドレス、とても素敵だわ』
飛び交う賛辞。そのたびに、私の胸には無数の針が突き刺さった。
家に帰る馬車の中で、息ができなくなるほど胸を押さえてうずくまった夜。
お医者様を呼んでも『心臓に異常はない。ただの疲労だろう』と言われるだけだった。
それが、他人の『嘘』に対する体の反応だと気づくまでに、随分と時間がかかった。
「……だからお嬢様は、社交界の集まりをあんなに嫌がっていらしたのですね」
ミアナが、ひどく痛ましいものを見るような目で私を見つめた。
「人が集まる場所に行けば、必ず嘘があるものね。だから私、家同士で決められたこの政略結婚に、少しだけ期待していたの」
私は窓の外の青空に視線を移す。
「相手が氷のように冷たい人でも構わなかった。愛がなくても、せめて嘘のない、本当のことだけを言ってくれる関係が築けたらいいなって」
「でも、それは……!」
ミアナが身を乗り出した。
「アルフレート様は、お嬢様に嘘ばかりついていらっしゃるではありませんか! 顔合わせの日からずっと、冷たい言葉で。先日の晩餐の時は、甘い言葉で騙そうとまでして……っ」
「そうね」
「痛かったはずです。誰よりもお嬢様を傷つけているのは、あの方です。なのに、どうして」
ミアナの瞳に、涙が滲んでいた。
私の痛みを、自分のことのように悲しんでくれている。
私は立ち上がり、彼女の背中にそっと手を添えた。
「痛かったわ。呼吸が止まりそうになるくらい、痛い時もあった。でもね、不思議なの」
私は、あの晩餐でのアルフレート様の顔を思い出した。
『君を心から愛し始めている』と囁いた時の、あの熱を帯びた瞳。
その直後に見せた、私の言葉に対する激しい動揺と、絶望のような怯え。
「あの方の嘘は、他の貴族たちがつく嘘とは、痛みの質が全然違うのよ」
「……質が、違う?」
「社交界で浴びる嘘は、他人を蹴落としたり、自分をよく見せたりするためのもの。氷の破片を飲み込んだような、冷たくて鋭い痛みがするわ。でも」
私の胸の奥に残っている、アルフレート様の嘘の余韻。
それは、決して不快なものではなかった。
「あの方の嘘は、自分の首を絞めるような、ひどく苦しい軋みのような痛みなの」
言葉を重ねるたびに、アルフレート様自身の心がすり減っていくのがわかる。
私を傷つけるために吐いたはずの言葉で、彼自身が一番深く傷ついている。
「私を遠ざけようとして、必死で悪役を演じているのよ。私を家から追い出すために。でも、馬車が事故に遭った時、あの方はご自分の身を挺して私を守ってくださったわ」
「それは……」
「その時にわかったの。あの方は、私のことが嫌いだから遠ざけようとしているんじゃない。私を『守る』ために、私を遠ざけようとしているんだって」
ストン、と。
ミアナが力なく椅子に座り込んだ。
彼女の賢い頭は、私の言葉の矛盾を瞬時に処理したのだろう。
「守るために、遠ざける……? そんな、馬鹿な話がありますか。それではまるで、ご自身の存在そのものが、お嬢様に害をなすと言っているようなものではありませんか」
「ええ。たぶん、あの方はそう信じ込んでいるのよ」
何が彼をそこまで追い詰めているのかは、まだわからない。
ヴァルター公爵家が抱える、暗い秘密。
それを一人で背負い込んで、誰にも本音を言えずに、完璧な冷徹公爵の仮面を被って生きている。
「あんなに不器用で、悲しい嘘をつく人を、私、どうしても放っておけないの」
私は、テーブルの上に置かれた銀のペンダントを指先で弾いた。
チリン、と小さな音が響く。
「だから、逃げないわ。あの方がいくら嘘を重ねても、私が全部お見通しだってこと、何度でも教えてあげる。嘘をつく必要なんてないんだって、わかってもらうまで」
ミアナはしばらくの間、呆然と私を見上げていた。
やがて、深く、深くため息をつく。
「……お嬢様は、本当に頑固でいらっしゃいますね。シュタルクの旦那様やお兄様が甘やかすから、こんなに恐れを知らない方に育ってしまって」
「ふふっ。ミアナだって、私のこと甘やかしているじゃない」
「私は現実を見ているだけです。……わかりました。お嬢様がそうおっしゃるなら、私はもう何も言いません。ですが、もし本当にお嬢様が泣くようなことになれば、その時は私が旦那様を引っ叩いてでも連れ帰りますからね」
「頼りにしているわ」
笑い合うと、部屋の空気がふっと軽くなった。
窓の外を見る。
青空の下、王都の中心部には軍務省の尖塔が小さく見えた。
(アルフレート様)
今頃、あの狭い仮眠室で、一人で頭を抱えているのだろうか。
私の言葉を思い出し、自分の計画が崩れたことに絶望して。
(逃げ切れると思ったら大間違いですよ)
私は小さく微笑んで、冷めかけたミルクティーを飲み干した。
彼が邸宅に帰ってくる日が、少しだけ待ち遠しかった。




