12
アルフレート様が邸宅に戻ってきたのは、軍務省への逃亡から五日目の夕暮れ時だった。
玄関ホールに出迎えた私は、彼の姿を見てわずかに息を呑んだ。
いつも一糸乱れぬ漆黒の軍服は、肩のあたりに不自然なシワが寄り、微かに土埃の匂いがする。銀色の髪は艶を失い、目の下にははっきりと濃い隈が刻まれていた。
誰の目から見ても、限界まで疲労しているのは明らかだった。
「お帰りなさいませ、アルフレート様」
私がカーテシーをして声をかけると、彼はビクッと肩を震わせた。
私と目を合わせようとせず、そそくさと視線を外す。
「……あ、ああ。ただいま戻った。少し疲れている。自室で休むから、夕食は不要だ」
――ちくり。
胸の奥で、小さな針が跳ねた。
疲れているのは本当だろう。けれど、休みたいというのは嘘。
彼はただ、私と同じ空間にいることから逃げ出したいだけだ。あの晩餐の夜、自分の完璧な嘘がすべて見透かされていると知った、あの気まずさから。
「かしこまりました。ゆっくりお休みになってくださいませ」
私が道を譲ろうとした、その時だった。
「お待ちください!」
開け放たれた玄関の扉から、甲高い声が飛び込んできた。
弾かれたように振り返る。
そこに立っていたのは、雨上がりの冷たい風に肩で息をしている、カリン・ホルスト男爵令嬢だった。
今日の彼女は、いつものような目を惹く深紅のドレスではない。装飾の少ない、落ち着いた濃紺のドレスだった。
その顔には、いつものような余裕のある笑みはなく、ひどく張り詰めた色が浮かんでいる。
「カリン……? なぜ君がここにいる。事前の報せもなしに」
アルフレート様が、不快そうに眉を寄せた。
「どうしても、今すぐお話ししたいことがあったのです」
カリン様は、アルフレート様の鋭い視線を真っ向から受け止めた。
そして、傍らに立つ私を一瞥する。
「エリーゼ様。あなたにも、同席していただきたいわ」
[* * *]
通された応接室には、重苦しい沈黙が満ちていた。
アルフレート様はソファに深く腰掛け、両手で顔を覆うようにして俯いている。私はその斜め向かいに座り、カリン様はアルフレート様の正面に毅然とした態度で立っていた。
誰も、紅茶に口をつけようとしない。
「……用件を聞こう。私はひどく疲れているんだ」
沈黙を破ったのは、アルフレート様の低く掠れた声だった。
「アルフレート様」
カリン様は、彼を見下ろしたまま、はっきりとした口調で言った。
「エリーゼ様との婚約を、今すぐ破棄してください」
ぴたり、と。
部屋の空気が凍りついた。
アルフレート様が、ゆっくりと顔を上げる。その青い瞳に、わずかな戸惑いと怒りが混じった。
「……君が口出しすることではない。これはヴァルター家とシュタルク家の問題だ」
「いいえ。口出しさせていただきます」
カリン様は一歩前へ出た。
「私はずっと、あなたの隣に立ちたいと願っていました。あなたがどれほどの重責を背負い、どれほど孤独に軍務をこなしているか、誰よりも理解しているつもりでしたから」
彼女の赤い瞳が、微かに揺れる。
「だから、エリーゼ様があなたの婚約者になったと聞いた時、私は彼女を試すような真似をしました。家の飾りにしかならないような令嬢に、あなたを支えることなどできないと思ったからです」
「カリン、もういい。その話は――」
「でも、違ったんです」
カリン様は、アルフレート様の制止を強い声で遮った。
「滑稽なのは、私の方でした。いいえ、私と……あなたです、アルフレート様」
「何……?」
「あなたは、エリーゼ様を家から追い出すために、わざと冷酷な婚約者を演じているのでしょう? 彼女を傷つけ、愛想を尽かさせるために」
アルフレート様の肩が、大きく跳ねた。
図星を指され、彼の表情筋が硬直する。
「そんなことはない。私はただ、彼女という存在を鬱陶しく感じて――」
――きりっ。
私の胸に、鋭い痛みが走る。
鬱陶しい。嘘だ。
「嘘をつかないで!」
カリン様が、まるで私の痛みを代弁するかのように叫んだ。
「あなたの演技は、とっくの昔に破綻しているのよ。私がこの家を訪ねた日、エリーゼ様は私にこうおっしゃったわ。『あの方は、嘘をつくたびに不器用で、悲しい顔をする』って」
アルフレート様が、弾かれたように私を見た。
私は静かに見つめ返す。
「彼女は、あなたが自分を遠ざけようとしていることに気づいた上で、ここに残っているんです。あなたが冷たい言葉を吐くたびに、それが嘘だと見抜いた上で、あなたのそばにいるのよ!」
カリン様の声が、応接室に痛いほど響き渡る。
「それなのに、あなたは……っ。そんなにボロボロになってまで、逃げ回って、まだ彼女を試そうとしている。傷つけているのはエリーゼ様じゃない。あなた自身じゃない!」
カリン様は、ぎゅっと両手でドレスの裾を握りしめていた。
その肩が、小刻みに震えている。
彼女は、アルフレート様を愛しているのだ。
愛しているからこそ、彼が自分自身を傷つけながら、別の女性を不器用に守ろうとしている姿を見るのが、耐えられない。
「エリーゼ様を解放してあげて。これ以上、彼女をあなたのその馬鹿げた『試し行動』に巻き込まないで」
それは、ライバルとしての牽制ではなかった。
一人の女性としての、純粋で切実な、敗北宣言だった。




