8
朝から降り続いていた雨は、午後になっても一向に止む気配がなかった。
重く垂れ込めた灰色の雲が、王都の空をすっぽりと覆い隠している。
「本当に、今日行かれるのですか?」
私の肩にストールをかけながら、ミアナが恨めしそうに窓の外を睨んだ。
「アルフレート様からのご指示だもの。領地経営の一環として、郊外の農村を視察するから同行しろと」
「こんな悪天候の日に、わざわざご令嬢を連れ出すなんて。おまけに、あのぬかるんだ悪路を通るというではありませんか。どう考えても、お嬢様に嫌がらせをするためです」
ミアナの言う通り、今日の外出は明らかに『試し行動』の一環だった。
兄の襲来から数日。アルフレート様は、邸宅内での冷遇では私が自ら去ることはないと判断したらしい。今度は、物理的な不快感を与えて私を根負けさせようという算段だ。
「いいのよ。王都の農村がどうなっているのか、私も一度見てみたかったから」
私はミアナをなだめ、静かに邸宅の玄関へと向かった。
エントランスには、すでにアルフレート様が待っていた。
黒い外套を羽織ったその姿は、雨の日の薄暗さの中でひときわ冷たい威圧感を放っている。
彼は私を一瞥すると、無言のまま先を歩き出し、待機していた馬車へと乗り込んだ。エスコートの手が差し出されることはない。
私もそれに続き、向かいの席に腰を下ろした。
馬車が動き出す。
雨音だけが、車内に単調なリズムを刻んでいた。
王都の中心部を抜け、郊外へと向かうにつれて、石畳の道は徐々に舗装されていない泥道へと変わっていく。
ガタガタと車体が大きく揺れる。
私は窓枠に手をかけ、姿勢を保った。
「侯爵家の温室で育った君には、この揺れは堪えるだろう」
沈黙を破ったのは、アルフレート様だった。
彼は窓の外を向いたまま、淡々とした声で言葉を紡ぐ。
「私の仕事は、華やかな社交界ばかりではない。こうして泥に塗れ、領民の不満を直接聞くことも多い。君のような飾りに、この重責が理解できるとは思えないがね」
――ずきり。
胸の奥で、鈍い痛みが走った。
飾りに理解できるとは思えない。それが、嘘。
彼は、私の能力を見下しているわけではない。ただ、この不快な状況を理由に、私を遠ざけたいだけだ。
「私でよければ、及ばずながらお手伝いいたしますわ。シュタルク侯爵家でも、領地経営の基礎は学んでおりますので」
「不要だ」
即答だった。
アルフレート様は、冷ややかに私を睨みつける。
「君の助けなど、私は一切必要としていない。君はただ、私の隣に座っているだけでいい。そして、この泥と雨の臭いに耐えきれなくなったら、いつでも泣き言を言って帰るがいい」
――ずきり、ずきり。
また、痛む。
必要としていない。泣き言を言って帰れ。
嘘ばかり並べる彼の青い瞳は、どこか追い詰められているように見えた。
「泣き言なんて、言いませんわ」
私は小さく微笑んで、窓の外に広がる灰色の景色に目を向けた。
「雨の日の匂い、私は嫌いではありませんの。土が水を吸って、新しい命を育む準備をしている匂いですから」
アルフレート様は何も答えなかった。
ただ、小さく舌打ちをするような音が聞こえただけだ。
馬車は、さらにぬかるみの深い道へと入っていく。
車輪が泥にはまり、馬のいななきが聞こえた。御者が必死に手綱を引いているのがわかる。
右に、左に。
車体が大きく傾き、私は座席から滑り落ちそうになるのを必死に堪えた。
「……ひどい道だな」
アルフレート様が、わずかに眉をひそめる。
「君は、少しも怖くないのか。このような悪路で、馬車が横転する危険もあるというのに」
「怖くありませんわ。アルフレート様がご一緒ですから」
「……本気で言っているのか?」
彼は、信じられないものを見るような目で私を見返した。
「私が君を守るとでも? 勘違いするな。私は、自分の身の安全しか考えていない。もし事故が起きても、君を助ける義理などない」
――きりっ。
鋭い痛みが、胸を刺した。
それが明確な『嘘』であると、私の体が告げている。
「そうですか。でも、私はアルフレート様を信じておりますわ」
「君のその根拠のない自信は、いったいどこから来るのだ。私を信じていれば、どうにかなるとでも思っているのか」
彼の声に、わずかな苛立ちが混じる。
その時だった。
バキッ!
雷鳴のような轟音が、車体の下から響いた。
直後、世界が大きく傾く。
ぬかるみに足を取られた車輪が、完全に泥の中へ沈み込み、車軸が折れる嫌な音がした。
馬の悲鳴。御者の叫び声。
「きゃっ……!」
重力に逆らうことはできなかった。
車体が右側へと激しく傾き、私の体は座席からふわりと宙に浮く。
窓ガラスが割れる音。硬い壁が、猛スピードで私に迫ってくる。
ぶつかる。
そう覚悟して、目を強く閉じた。
だが。
私を襲ったのは、冷たい壁の衝撃ではなかった。
ドンッ、という鈍い音とともに、強い力で引き寄せられる。
硬く、しかし温かい何かにすっぽりと包み込まれた。
「……っ」
耳元で、くぐもった痛みの声が聞こえる。
馬車は完全に真横に倒れ、止まった。
ゆっくりと、目を開ける。
真っ暗な視界。鼻腔をくすぐる、微かな雨と、香の匂い。
私の体は、誰かの腕の中にあった。
「……アルフレート、様?」
頭上から、荒い呼吸音が降ってくる。
私が壁に叩きつけられる寸前、彼は座席を蹴って身を投げ出し、私を抱きとめて背中から壁に激突したのだ。
狭い車内。
私の顔のすぐ横に、彼の手があった。
革手袋越しでもわかる、力強く握り締められた拳。
「……怪我は?」
ひどく掠れた、震える声。
いつもの冷徹な響きは、どこにもなかった。
ただ純粋な、相手を気遣うだけの不器用な声。
その言葉を聞いた瞬間。
――ふわっ。
私の胸の奥に、嘘の痛みとは全く違う、柔らかな感覚が広がった。
まるで、冷え切った体の中に、小さな灯りが灯ったような。
じんわりと、優しく胸を溶かしていくような、温かさ。
痛くない。
嘘じゃない。
彼は今、心からの言葉を口にした。
「私は、平気です。どこも痛くありません」
私は彼にもたれかかったまま、小さく答えた。
「アルフレート様は? 背中を強く打ったのではありませんか」
「……問題ない」
彼はゆっくりと体を起こし、私を腕の中から解放した。
薄暗い車内。倒れた馬車の天井から、雨水がポツリと滴り落ちる。
至近距離で、彼の顔を見た。
そこには、完璧な『氷の公爵』の仮面はなかった。
わずかに見開かれた青い瞳。血の気を失った白い頬。
私が無事であることを確認して、安堵に小さく息を吐き出す唇。
それは、ただ一人の女性を守るために必死になった、等身大の青年の素顔だった。
「今の、本当のことを言いましたね」
私は、胸に残る温かい余韻を感じながら、静かに呟いた。
「……何?」
「『助ける義理などない』とおっしゃっていたのに。私を、庇ってくださった」
アルフレート様は、弾かれたように視線を逸らした。
その横顔に、かすかに朱が差しているのが、薄暗がりの中でもわかった。
「……反射的に動いただけだ。侯爵令嬢に怪我をさせては、家同士の問題になる」
――ちくり。
小さな痛みが、胸を打つ。
でも、その痛みはもう、不快ではなかった。
照れ隠しの嘘。
自分の本心をごまかすための、逃げ道の言葉。
「そうですか。では、そういうことにしておきます」
私はふふっと笑い、彼の腕にそっと手を添えた。
「助けていただいて、ありがとうございました」
アルフレート様は何も言わず、ただ無言で私から顔を背け続けた。
彼の鼓動が、静かな車内にトクトクと響いている。
それは、私の胸の奥で灯った温かさと、同じリズムを刻んでいるような気がした。
[* * *]
馬車の事故から数時間後。
救援の馬が到着し、私たちは無事に公爵邸へと帰還した。
幸いにも、アルフレート様の背中も打撲程度で済んだらしい。
自室のベッドに横たわり、私は天井の装飾をぼんやりと見つめていた。
胸の奥に手を当てる。
もう痛みはない。
けれど、あの馬車の中で感じた、不思議な温かさだけが、まだ体の芯にじんわりと残っている。
「……本当は、優しい方なのね」
誰もいない部屋で、小さく呟く。
私を遠ざけるために、わざわざ悪路を選んで視察に連れ出した。
冷たい言葉を並べて、私を傷つけようとした。
それなのに、いざ命の危険が迫った時、彼は迷うことなく自分の身を挺して私を守った。
あの瞬間の、彼の瞳。
安堵に震えていた、掠れた声。
あれが、彼の本当の姿なのだ。
嘘をついてまで私を遠ざけようとする冷たい公爵と、危険から私を守ろうとする不器用な青年。
矛盾する二つの行動の裏には、きっと彼なりの『理由』がある。
彼が私を突き放すのは、私を嫌っているからではない。
私を『守る』ために、私を遠ざけようとしているのだ。
今日の事故で、それがはっきりとわかった。
「厄介な人……」
私は小さく息を吐き、寝返りを打った。
本音を知ってしまった。
あの温かさを知ってしまった以上、もう、彼がどれだけ冷たい嘘をついても、私は騙されない。
彼が抱えている秘密。
私を遠ざけなければならない、本当の理由。
それを知るまでは、絶対にこの婚約は破棄してあげない。
静かな夜の闇の中で、私の決意は、より一層固いものになっていた。




