7
ヴァルター公爵邸での滞在が二週目に入った、ある日の午後。
邸宅の静寂は、玄関ホールから響いてきた唐突な怒声によって破られた。
「通せと言っている! 私はシュタルク侯爵家長男、クラウスだ。妹の顔を見に来て、なぜ止められねばならない!」
客室で読書をしていた私は、ページを繰る手を止めた。
隣で茶器を磨いていたミアナと、思わず顔を見合わせる。
「……お兄様だわ」
「クラウス様ですね。足音の荒さからして、相当ご立腹の様子かと」
ミアナが呆れたようにため息をつく。
私より八つ年上の兄、クラウス・シュタルク。昔から私を過保護なほどに可愛がってくれる自慢の兄だが、少しばかり血の気が多く、私のこととなると周りが見えなくなる悪癖があった。
騒ぎが大きくなる前にと、私は急いで部屋を出て玄関ホールへと向かった。
吹き抜けの広いホールでは、数人の使用人たちが困惑した顔で立ち尽くし、その中心で、燃えるような金糸の髪をした兄が声を荒らげていた。
「お兄様」
階段の踊り場から声をかけると、兄は弾かれたようにこちらを振り向いた。
「エリーゼ!」
兄は長い脚で階段を二段飛ばしに駆け上がり、私の肩を両手でがっしりと掴んだ。
翠緑の瞳が、私の頭の先から足の先までを素早く、そして執拗に点検する。
「怪我はないか。顔色が少し悪いようだが、ちゃんと食事は出されているのか。痩せたのではないか。いや、やはり少し痩せた。あの氷野郎、まさか食事まで抜いているのでは……」
「お兄様、落ち着いて。食事は毎食、素晴らしいものをいただいていますわ」
早口でまくしたてる兄を宥めようとするが、彼の怒りの炎は一向に収まる気配がない。
「落ち着いてなどいられるか。王都の社交界で、どんな噂が流れているか知っているのか」
兄は奥歯をギリリと鳴らした。
「先日の茶会で、お前が炎天下の庭園に二時間も放置されたという噂だ。おまけに、ろくに顔も合わせず、客室に押し込めたまま放置しているとも聞いた」
……なるほど。
あれだけ目立つ庭園での出来事だ。使用人の口からか、あるいは出入りする業者の口からか、すぐに噂は広まるだろう。ただでさえ、氷の公爵と平凡な侯爵令嬢の婚約は、社交界の格好の的になっているのだから。
「それは少し誤解が――」
「何の騒ぎだ」
私の言葉を遮るように、静かで、ひどく冷え切った声がホールに落ちた。
空気が一瞬にして凍りつく。
二階の回廊の奥から、アルフレート様がゆっくりと歩み寄ってきた。
今日も一分の隙もない漆黒の軍服。銀色の髪が、窓から差し込む光を受けて冷たい輝きを放っている。
感情を一切排した青い瞳が、私と、私の肩を抱く兄とを交互に見据えた。
「これはシュタルク殿。事前の報せもなく押し掛け、我が家のホールで怒鳴り声を上げるとは。随分と血気盛んなことだな」
「ヴァルター公爵令息」
兄は私を自分の背中へ隠すように立ちふさがり、アルフレート様を鋭く睨みつけた。
「妹の顔を見に来るのに、いちいち許可がいるとは思わなかったものでね。それに、怒鳴りたくもなる。大切な妹が、婚約者の家でどのような扱いを受けているかを知ればな」
アルフレート様は、表情一つ変えない。
ただ、静かに階段を降り、私たちと同じ高さの踊り場に立った。
「立ち話もなんだ。応接室へ」
「結構。長居するつもりはない。妹を連れて帰る」
兄のきっぱりとした宣言に、ホールの空気がさらに張り詰める。
使用人たちが、息を呑んで後ずさった。
「連れて帰る、だと?」
アルフレート様が、わずかに首を傾げた。
「ええ。婚約期間中の令嬢を冷遇し、あまつさえ炎天下の庭園に二時間も放置する。これは明らかな嫌がらせだ。妹を試して、自分から婚約解消を言い出させようという腹積もりなのだろうが、そうはさせない。こんな扱いを受けるくらいなら、こちらから願い下げだ」
兄の怒気を含んだ言葉が、石造りの壁に反響する。
私は、背中越しにアルフレート様の様子を窺った。
彼は何も言い返さず、ただ静かに兄の言葉を聞いている。その彫像のような顔には、やはり何の感情も浮かんでいない。
「……何か誤解があるようだな」
やがて、アルフレート様は淡々とした口調で口を開いた。
「二時間待たせたのは、軍務省での急なトラブルによるものだ。冷遇したつもりはないし、彼女にはこの邸宅で不自由のない生活を保証している」
――ちくり。
胸の奥で、小さな針が跳ねた。
冷遇したつもりはない。それが嘘。
彼は明確な意思を持って、私を冷遇している。
「ふざけるな。不自由のない生活だと? 物質的に満たせばそれでいいと思っているのか。お前は妹と、心を通わせるつもりが一切ないのだろう」
「私たちは家同士の契約で結ばれた関係だ。そこに不要な感情を持ち込むつもりはない。私は、婚約者として令嬢のためを思って行動しているまでだ」
――ぎゅっ。
心臓の表面を、薄い刃で撫でられたような感覚。
令嬢のためを思って行動している。その言葉自体は嘘ではないのだろう。けれど、その後に続く「だから感情を持ち込まない」という論理が、決定的に歪んでいる。
彼は私のためを思いながら、私を全力で傷つけようとしているのだから。
「嘘をつけ!」
兄が怒鳴った。
「令嬢のためを思っている男が、そんな氷のような目をするものか! お前はただ、妹が目障りなだけだろう。お前のその態度は、妹を痛めつけているだけだ!」
兄の言葉は正論だった。
証拠は何もない。ただの直感と、アルフレート様の纏う冷気だけを根拠にした、兄の純粋な怒り。
けれど、アルフレート様は痛いところを突かれたように、ほんの一瞬だけ――本当に微かに、視線を彷徨わせた。
「……私は、事実を述べているだけだ」
アルフレート様は、静かに目を伏せた。
「もし、シュタルク侯爵家がこの環境に耐えられないというのなら、いつでも解消申請を出すがいい。私は、それを止める権利を持たない」
――ちくり、ちくり。
連続して痛む。
止める権利を持たない。それが嘘。
本当は、出してほしいのだ。私に屋敷から出て行ってほしいと、心の底から願っている。自分の手で私を不幸にしないために。
「言われずともそうさせてもらう。行くぞ、エリーゼ」
兄が、私の手首を掴んだ。
その力は強く、怒りに震えていた。
「お兄様」
私は静かに、けれどしっかりと、兄の手を振り解いた。
「エリーゼ……?」
兄が、信じられないものを見るような目で私を振り返る。
私はアルフレート様の横を通り抜け、階段を数段降りてから、二人に向き直った。
「お兄様。お迎えに来てくださったのは嬉しいですが、私は帰りませんわ」
「な……何を言っているんだ。お前、あんな扱いを受けて、悔しくないのか!」
「悔しいですよ」
私は微笑んで、アルフレート様を見上げた。
彼は、予期せぬ私の言葉に、わずかに目を丸くしていた。
「二時間も待たされて、顔を合わせれば嫌味ばかり。ちっとも優しくしてくださらないし、本当に不器用で、腹立たしいことばかりです」
「だったら――」
「でも」
私は言葉を継ぐ。
「アルフレート様は、私に嘘をつきませんの」
ぴたり、と。
アルフレート様の呼吸が止まる音がした。
「私のことをどうでもいいと思っているのなら、あんなに必死に遠ざけようとはしないはずですわ。私は、もう少しこの邸宅で、アルフレート様のお仕事ぶりを拝見したいと思っています」
沈黙が落ちた。
兄は口を開けたまま、言葉を失っている。
アルフレート様は、ひどく狼狽した瞳で私を見つめ返していた。完璧な氷の仮面が、音を立てて崩れ去っていくのがわかる。
「……勝手にしろ」
やがて、アルフレート様は絞り出すようにそれだけを言い捨てると、逃げるように踵を返した。
マントを翻し、足早に回廊の奥へと消えていく。その後ろ姿は、いつもの堂々とした公爵令息のそれではなく、まるで追い詰められた敗残兵のようだった。
[* * *]
その後、兄を無理やり客室に押し込み、ミアナに最上級の紅茶を淹れさせた。
兄はソファに深く腰掛け、まだ腑に落ちないという顔で腕を組んでいた。
「……エリーゼ。お前、本当に大丈夫なのか。無理をして笑っているのではないだろうな」
「無理なんてしていませんわ。本当に、毎日楽しく過ごしておりますもの」
ティーカップを傾けながら答えると、兄は大きなため息をついた。
「まったく理解できない。あの男のどこがいいんだ。あんな、感情の欠片もない氷のような男の」
「お兄様ったら」
私はカップをソーサーに戻し、くすくすと笑った。
「氷のように冷たいなんて、とんでもない。あの方、先ほどの階段での会話、ほとんど全部嘘でしたのよ」
「は……?」
兄の動きが止まる。
翠緑の瞳が、限界まで見開かれた。
「嘘って、何がだ」
「『冷遇したつもりはない』とか『感情を持ち込むつもりはない』とか。あの方、私を遠ざけるために、必死で嫌われ役を演じていらっしゃるんです。あまりにも不器用すぎて、見ているこちらが痛々しくなるくらい」
私は窓の外、美しく手入れされた庭園に視線を移す。
「だから、お兄様が『嘘をつけ!』と怒鳴ってくださった時、私、心の中で拍手してしまいましたわ。よく言ってくれました、って」
「……お前」
兄は、額に手を当てて天を仰いだ。
しばらく無言で天井を見つめた後、深く、深く息を吐き出す。
「お前……まさか、あの男の考えていることが、全部見透かしているのか?」
「全部とは言いませんが。少なくとも、私を嫌っているわけではないことだけは、わかります」
悪戯っぽく微笑むと、兄はがっくりと肩を落とした。
先ほどまでの激しい怒りはどこへやら、完全に毒気を抜かれた顔をしている。
「……お前が昔から、妙に勘が鋭いのは知っていたが。よもや、あの『氷の公爵』を相手に一歩も引かないとはな」
兄は手元の紅茶を一気に飲み干し、呆れたように笑った。
「わかった。お前がそこまで言うのなら、今は引き下がろう。だが、もし本当に泣くようなことがあれば、その時は公爵家ごと潰すつもりで迎えに来るからな」
「ふふっ。頼りにしていますわ、お兄様」
その日の夕暮れ。
馬車に乗り込む兄を見送る時、彼は最後に私を振り返って、ボソリと呟いた。
「……あの男、少し可哀想になってきたな。この妹を敵に回すとは、運が悪い」
兄の呟きは、風に紛れて消えた。
私は小さく手を振りながら、二階の執務室の窓をそっと見上げる。
分厚いカーテンの隙間から、こちらを見下ろす銀色の髪が、一瞬だけ見えた気がした。




