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冷徹公爵は私を試しているようですが、全部お見通しです  作者: じょな


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7/9

7

 ヴァルター公爵邸での滞在が二週目に入った、ある日の午後。

 邸宅の静寂は、玄関ホールから響いてきた唐突な怒声によって破られた。


「通せと言っている! 私はシュタルク侯爵家長男、クラウスだ。妹の顔を見に来て、なぜ止められねばならない!」


 客室で読書をしていた私は、ページを繰る手を止めた。

 隣で茶器を磨いていたミアナと、思わず顔を見合わせる。


「……お兄様だわ」


「クラウス様ですね。足音の荒さからして、相当ご立腹の様子かと」


 ミアナが呆れたようにため息をつく。

 私より八つ年上の兄、クラウス・シュタルク。昔から私を過保護なほどに可愛がってくれる自慢の兄だが、少しばかり血の気が多く、私のこととなると周りが見えなくなる悪癖があった。


 騒ぎが大きくなる前にと、私は急いで部屋を出て玄関ホールへと向かった。

 吹き抜けの広いホールでは、数人の使用人たちが困惑した顔で立ち尽くし、その中心で、燃えるような金糸の髪をした兄が声を荒らげていた。


「お兄様」


 階段の踊り場から声をかけると、兄は弾かれたようにこちらを振り向いた。


「エリーゼ!」


 兄は長い脚で階段を二段飛ばしに駆け上がり、私の肩を両手でがっしりと掴んだ。

 翠緑の瞳が、私の頭の先から足の先までを素早く、そして執拗に点検する。


「怪我はないか。顔色が少し悪いようだが、ちゃんと食事は出されているのか。痩せたのではないか。いや、やはり少し痩せた。あの氷野郎、まさか食事まで抜いているのでは……」


「お兄様、落ち着いて。食事は毎食、素晴らしいものをいただいていますわ」


 早口でまくしたてる兄を宥めようとするが、彼の怒りの炎は一向に収まる気配がない。


「落ち着いてなどいられるか。王都の社交界で、どんな噂が流れているか知っているのか」


 兄は奥歯をギリリと鳴らした。


「先日の茶会で、お前が炎天下の庭園に二時間も放置されたという噂だ。おまけに、ろくに顔も合わせず、客室に押し込めたまま放置しているとも聞いた」


 ……なるほど。

 あれだけ目立つ庭園での出来事だ。使用人の口からか、あるいは出入りする業者の口からか、すぐに噂は広まるだろう。ただでさえ、氷の公爵と平凡な侯爵令嬢の婚約は、社交界の格好の的になっているのだから。


「それは少し誤解が――」


「何の騒ぎだ」


 私の言葉を遮るように、静かで、ひどく冷え切った声がホールに落ちた。

 空気が一瞬にして凍りつく。


 二階の回廊の奥から、アルフレート様がゆっくりと歩み寄ってきた。

 今日も一分の隙もない漆黒の軍服。銀色の髪が、窓から差し込む光を受けて冷たい輝きを放っている。

 感情を一切排した青い瞳が、私と、私の肩を抱く兄とを交互に見据えた。


「これはシュタルク殿。事前の報せもなく押し掛け、我が家のホールで怒鳴り声を上げるとは。随分と血気盛んなことだな」


「ヴァルター公爵令息」


 兄は私を自分の背中へ隠すように立ちふさがり、アルフレート様を鋭く睨みつけた。


「妹の顔を見に来るのに、いちいち許可がいるとは思わなかったものでね。それに、怒鳴りたくもなる。大切な妹が、婚約者の家でどのような扱いを受けているかを知ればな」


 アルフレート様は、表情一つ変えない。

 ただ、静かに階段を降り、私たちと同じ高さの踊り場に立った。


「立ち話もなんだ。応接室へ」


「結構。長居するつもりはない。妹を連れて帰る」


 兄のきっぱりとした宣言に、ホールの空気がさらに張り詰める。

 使用人たちが、息を呑んで後ずさった。


「連れて帰る、だと?」


 アルフレート様が、わずかに首を傾げた。


「ええ。婚約期間中の令嬢を冷遇し、あまつさえ炎天下の庭園に二時間も放置する。これは明らかな嫌がらせだ。妹を試して、自分から婚約解消を言い出させようという腹積もりなのだろうが、そうはさせない。こんな扱いを受けるくらいなら、こちらから願い下げだ」


 兄の怒気を含んだ言葉が、石造りの壁に反響する。

 私は、背中越しにアルフレート様の様子を窺った。

 彼は何も言い返さず、ただ静かに兄の言葉を聞いている。その彫像のような顔には、やはり何の感情も浮かんでいない。


「……何か誤解があるようだな」


 やがて、アルフレート様は淡々とした口調で口を開いた。


「二時間待たせたのは、軍務省での急なトラブルによるものだ。冷遇したつもりはないし、彼女にはこの邸宅で不自由のない生活を保証している」


 ――ちくり。


 胸の奥で、小さな針が跳ねた。

 冷遇したつもりはない。それが嘘。

 彼は明確な意思を持って、私を冷遇している。


「ふざけるな。不自由のない生活だと? 物質的に満たせばそれでいいと思っているのか。お前は妹と、心を通わせるつもりが一切ないのだろう」


「私たちは家同士の契約で結ばれた関係だ。そこに不要な感情を持ち込むつもりはない。私は、婚約者として令嬢のためを思って行動しているまでだ」


 ――ぎゅっ。


 心臓の表面を、薄い刃で撫でられたような感覚。

 令嬢のためを思って行動している。その言葉自体は嘘ではないのだろう。けれど、その後に続く「だから感情を持ち込まない」という論理が、決定的に歪んでいる。

 彼は私のためを思いながら、私を全力で傷つけようとしているのだから。


「嘘をつけ!」


 兄が怒鳴った。


「令嬢のためを思っている男が、そんな氷のような目をするものか! お前はただ、妹が目障りなだけだろう。お前のその態度は、妹を痛めつけているだけだ!」


 兄の言葉は正論だった。

 証拠は何もない。ただの直感と、アルフレート様の纏う冷気だけを根拠にした、兄の純粋な怒り。

 けれど、アルフレート様は痛いところを突かれたように、ほんの一瞬だけ――本当に微かに、視線を彷徨わせた。


「……私は、事実を述べているだけだ」


 アルフレート様は、静かに目を伏せた。


「もし、シュタルク侯爵家がこの環境に耐えられないというのなら、いつでも解消申請を出すがいい。私は、それを止める権利を持たない」


 ――ちくり、ちくり。


 連続して痛む。

 止める権利を持たない。それが嘘。

 本当は、出してほしいのだ。私に屋敷から出て行ってほしいと、心の底から願っている。自分の手で私を不幸にしないために。


「言われずともそうさせてもらう。行くぞ、エリーゼ」


 兄が、私の手首を掴んだ。

 その力は強く、怒りに震えていた。


「お兄様」


 私は静かに、けれどしっかりと、兄の手を振り解いた。


「エリーゼ……?」


 兄が、信じられないものを見るような目で私を振り返る。

 私はアルフレート様の横を通り抜け、階段を数段降りてから、二人に向き直った。


「お兄様。お迎えに来てくださったのは嬉しいですが、私は帰りませんわ」


「な……何を言っているんだ。お前、あんな扱いを受けて、悔しくないのか!」


「悔しいですよ」


 私は微笑んで、アルフレート様を見上げた。

 彼は、予期せぬ私の言葉に、わずかに目を丸くしていた。


「二時間も待たされて、顔を合わせれば嫌味ばかり。ちっとも優しくしてくださらないし、本当に不器用で、腹立たしいことばかりです」


「だったら――」


「でも」


 私は言葉を継ぐ。


「アルフレート様は、私に嘘をつきませんの」


 ぴたり、と。

 アルフレート様の呼吸が止まる音がした。


「私のことをどうでもいいと思っているのなら、あんなに必死に遠ざけようとはしないはずですわ。私は、もう少しこの邸宅で、アルフレート様のお仕事ぶりを拝見したいと思っています」


 沈黙が落ちた。

 兄は口を開けたまま、言葉を失っている。

 アルフレート様は、ひどく狼狽した瞳で私を見つめ返していた。完璧な氷の仮面が、音を立てて崩れ去っていくのがわかる。


「……勝手にしろ」


 やがて、アルフレート様は絞り出すようにそれだけを言い捨てると、逃げるように踵を返した。

 マントを翻し、足早に回廊の奥へと消えていく。その後ろ姿は、いつもの堂々とした公爵令息のそれではなく、まるで追い詰められた敗残兵のようだった。


[* * *]


 その後、兄を無理やり客室に押し込み、ミアナに最上級の紅茶を淹れさせた。

 兄はソファに深く腰掛け、まだ腑に落ちないという顔で腕を組んでいた。


「……エリーゼ。お前、本当に大丈夫なのか。無理をして笑っているのではないだろうな」


「無理なんてしていませんわ。本当に、毎日楽しく過ごしておりますもの」


 ティーカップを傾けながら答えると、兄は大きなため息をついた。


「まったく理解できない。あの男のどこがいいんだ。あんな、感情の欠片もない氷のような男の」


「お兄様ったら」


 私はカップをソーサーに戻し、くすくすと笑った。


「氷のように冷たいなんて、とんでもない。あの方、先ほどの階段での会話、ほとんど全部嘘でしたのよ」


「は……?」


 兄の動きが止まる。

 翠緑の瞳が、限界まで見開かれた。


「嘘って、何がだ」


「『冷遇したつもりはない』とか『感情を持ち込むつもりはない』とか。あの方、私を遠ざけるために、必死で嫌われ役を演じていらっしゃるんです。あまりにも不器用すぎて、見ているこちらが痛々しくなるくらい」


 私は窓の外、美しく手入れされた庭園に視線を移す。


「だから、お兄様が『嘘をつけ!』と怒鳴ってくださった時、私、心の中で拍手してしまいましたわ。よく言ってくれました、って」


「……お前」


 兄は、額に手を当てて天を仰いだ。

 しばらく無言で天井を見つめた後、深く、深く息を吐き出す。


「お前……まさか、あの男の考えていることが、全部見透かしているのか?」


「全部とは言いませんが。少なくとも、私を嫌っているわけではないことだけは、わかります」


 悪戯っぽく微笑むと、兄はがっくりと肩を落とした。

 先ほどまでの激しい怒りはどこへやら、完全に毒気を抜かれた顔をしている。


「……お前が昔から、妙に勘が鋭いのは知っていたが。よもや、あの『氷の公爵』を相手に一歩も引かないとはな」


 兄は手元の紅茶を一気に飲み干し、呆れたように笑った。


「わかった。お前がそこまで言うのなら、今は引き下がろう。だが、もし本当に泣くようなことがあれば、その時は公爵家ごと潰すつもりで迎えに来るからな」


「ふふっ。頼りにしていますわ、お兄様」


 その日の夕暮れ。

 馬車に乗り込む兄を見送る時、彼は最後に私を振り返って、ボソリと呟いた。


「……あの男、少し可哀想になってきたな。この妹を敵に回すとは、運が悪い」


 兄の呟きは、風に紛れて消えた。

 私は小さく手を振りながら、二階の執務室の窓をそっと見上げる。


 分厚いカーテンの隙間から、こちらを見下ろす銀色の髪が、一瞬だけ見えた気がした。


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