6話
二時間待ち続けた庭園での出来事から、数日が過ぎていた。
ヴァルター公爵邸の広大な敷地内にある、日当たりの良いサンルーム。
硝子張りの天井から降り注ぐ柔らかな陽光の中で、私は静かにティーカップを傾けていた。カップに注がれた琥珀色の紅茶からは、ベルガモットの爽やかな香りが細く立ち昇っている。
向かいの席には、今日も隙のない漆黒の軍服姿のアルフレート様が座っていた。
彼の手元には、軍務省から持ち帰ったという分厚い書類の束が積まれている。
革手袋を外した白い指先が、流れるような動作で万年筆を操り、書類に次々と署名を刻んでいく。カリ、カリという微かな摩擦音だけが、この満ち足りた空間に響いていた。
「……」
時折、書類をめくる彼の視線が、ちらりとこちらへ向けられる。
目が合うと、彼はすぐに興味を失ったように手元へ視線を戻した。
先日の庭園で、あんなにも苦しそうな顔を見せた人とは、まるで別人のようだ。
数日間の冷却期間を経て、彼はまた完璧な『氷の公爵』の仮面を被り直したらしい。相変わらず、私に気の利いた言葉をかけることもなく、ただそこに「存在」しているだけだ。
沈黙が続く。
けれど、不思議と居心地の悪さは感じなかった。
背後に控えるミアナは、「婚約者を放置して仕事ばかりなんて」と不満げに息を吐いているけれど、私はただ、彼のつく不器用な嘘の理由が知りたくて、じっとその完璧な横顔を観察し続けていた。
コン、コン。
不意に、控えめなノックの音がサンルームの静寂を破った。
初老の執事が、音もなく扉を開けて一礼する。
「旦那様。ホルスト男爵家より、カリンお嬢様がお見えです。軍務に関する急ぎの書類をお持ちとのことですが」
「……通せ」
アルフレート様が短く応じた直後、サンルームの扉が勢いよく開かれた。
「アルフレート様!」
弾むような声とともに現れたのは、燃えるような赤い髪が印象的な、見目麗しい女性だった。
年齢は私より二つか三つ上だろうか。
はっきりとした目鼻立ちに、自信に満ちた振る舞い。豪奢な真紅のシルクドレスが、彼女の華やかな容姿をさらに引き立てている。歩くたびに、微かに甘い香水がふわりと漂った。
カリン・ホルスト男爵令嬢。
その名前は、私の耳にも届いていた。
ヴァルター公爵家とは旧知の仲であり、彼女自身、幼い頃からアルフレート様を熱心に慕っているという社交界の噂。
カリン様は私を一瞥したあと、迷うことなく真っ直ぐにアルフレート様の元へ歩み寄った。
「お仕事中、申し訳ありません。父から頼まれた国境警備の書類をお持ちしましたの。どうしても今日中にアルフレート様の決裁が必要だと伺いまして」
「ご苦労だったな。使者に預ければ済むものを、わざわざ君が足を運ぶ必要はなかったはずだが」
アルフレート様の声は、いつものように冷ややかだ。
けれど、カリン様は全く怯む様子を見せない。むしろ、その冷たい態度に慣れきっているように、ふふっと楽しげに微笑んだ。
「そうおっしゃらずに。それに、お顔を拝見したかったのです。最近、お休みになられていないと伺いましたから」
彼女はごく自然な動作で、アルフレート様の机に置かれた冷めたティーカップを避け、持参した書類を一番上に置いた。
その距離感。その手つき。
間違いなく、この邸宅に何度も足を運び、彼の隣に立つことを許されてきた人間の振る舞いだった。
胸の奥が、ほんの少しだけざわめく。
痛みではない。ただ、自分の知らない彼の時間を、彼女が当たり前のように共有していることに対する、言葉にできない小さな波紋。
アルフレート様は小さく息を吐き、ようやく私の方へと視線を向けた。
「……カリン。紹介しておこう。私の婚約者となった、エリーゼ・シュタルク侯爵令嬢だ」
「存じておりますわ」
カリン様はくるりと振り返り、私に向かって優雅なカーテシーをして見せた。
完璧な所作だ。
「初めまして、エリーゼ様。カリン・ホルストと申します。アルフレート様とは、幼い頃からの友人のようなものでしてよ」
「初めまして、カリン様。エリーゼですわ。お噂はかねがね」
私も立ち上がり、礼を返す。
カリン様の赤い瞳が、私の頭の先から爪先までを、値踏みするように素早く動いた。
あからさまな敵意、とまではいかない。けれど、明確な『対抗心』がそこにはあった。
「お茶の席にお邪魔してしまって申し訳ありません。でも、安心いたしましたわ。アルフレート様は、無意味な時間を過ごすのがお嫌いな方ですから」
カリン様は、アルフレート様の隣に立つ位置を崩さないまま、滑らかな口調で語り始めた。
「この方は、軍務と領地経営で常に頭を悩ませていらっしゃいます。紅茶の温度一つ、執務室の明かりの強さ一つにも、独自のこだわりがおありになるの。ご自身の領域を乱されることを、何より嫌いますわ。エリーゼ様も、早くこの邸宅の『正しい』空気に慣れることができるとよろしいですわね」
微笑みながら放たれた言葉。
それは、暗に「あなたは彼のことを何も知らない」「私の方が彼を理解している」と告げる、貴族令嬢特有の牽制だった。
背後で、ミアナがドレスの擦れる音を立てた。
間違いなく、怒りで肩を震わせている。
けれど、私はカリン様の言葉を聞いて、ただ静かに瞬きをしただけだった。
胸が、痛まない。
彼女の言葉は、少し棘があった。私をこの場から遠ざけようとする、明確な意図があった。
でも、その根底にある思いは、決して嘘ではなかった。
アルフレート様が時間を無駄にするのが嫌いなこと。
彼が多忙で、常に気を張っていること。
そして何より、彼女自身がアルフレート様を深く理解し、気遣っているということ。
すべて、彼女の真実なのだ。
(この方、本当にアルフレート様のことが大切なのね)
嘘と建前ばかりの社交界において、これほど真っ直ぐな感情を向けられることは珍しい。
私は少しだけ嬉しくなって、自然と笑みをこぼした。
「ありがとうございます、カリン様。アルフレート様は無口な方ですから、そうして教えていただけるととても助かりますわ」
「え……」
私が全く怒らず、むしろ感謝を口にしたことで、カリン様は毒気を抜かれたように言葉を詰まらせた。
赤い瞳が、信じられないものを見るように見開かれる。
「な、何を呑気なことを……。私は、あなたに忠告をしているのですよ」
「ええ、わかっております。アルフレート様を支えるのは、とても大変なことだと」
「……っ」
カリン様は小さく唇を噛んだ。
想定していた反応と違ったのか、彼女の瞳にわずかな戸惑いが混じる。
「カリン。もういいだろう。用が済んだのなら帰れ」
見かねたように、アルフレート様が冷たい声で割って入った。
「私は忙しい。君の茶番に付き合っている暇はない。エリーゼ、君もだ。いつまでそこに座っているつもりだ」
――ちくり。
胸の奥で、小さな針が跳ねた。
暇はない、いつまでいるつもりだ。それが、嘘。
本当は私にもカリン様にも、これ以上嫌な思いをさせたくないから、無理やり場を終わらせようとしている。相変わらず、不器用すぎる。
「……申し訳ありません、アルフレート様」
カリン様は、少しだけ傷ついたような顔をした。
彼に冷たくあしらわれることには慣れているはずなのに、それでも向けられた拒絶の言葉に、心が痛んでいるのがわかった。
「それでは、私はこれで失礼いたします。ですが、アルフレート様」
カリン様は、強い視線を彼に向ける。
「私は、諦めませんから。あなたが本当に必要としているのは、ただの家の飾りのような婚約者ではないはずです」
それは、私に対する明確な宣戦布告だった。
アルフレート様は何も答えない。ただ、不快そうに眉を寄せて視線を外しただけだった。
カリン様は踵を返し、サンルームの出口へと向かう。
私は、すかさず彼女の背中を追って立ち上がった。
「エリーゼ?」
アルフレート様の戸惑う声を背中に聞きながら、私は足早に廊下へ出た。
「カリン様。少し、お待ちいただけますか」
邸宅の玄関へと続く大廊下で、私は彼女を呼び止めた。
カリン様は足を止め、振り返る。その表情には、はっきりとした警戒の色が浮かんでいた。
「何でしょう。今の私の言葉に、抗議でもなさるおつもり?」
「いいえ」
私は静かに首を振った。
「ただ、あなたに伝えておきたくて」
廊下には、遠くから使用人たちの足音が微かに聞こえるだけ。
高い天井の空間で、私は彼女の赤い瞳を真っ直ぐに見つめた。
「あなたは、アルフレート様のことが、本当にお好きなんですね」
ぴたり、と。
カリン様の動きが完全に止まった。
「な……っ」
彼女の白い頬が、みるみるうちに朱に染まっていく。
完璧だった貴族令嬢の仮面が崩れ落ち、ただの恋する女性の素顔がそこにあった。
「何を、突然……っ! 私は、ただホルスト家として、ヴァルター公爵家との親交を深めているだけで、決して個人的な感情で動いているわけでは――」
――ちくり。
私の胸が、小さく痛んだ。
強がりの嘘。見栄を張るための、健気で可愛い嘘。
「私にはわかりますわ」
私は微笑んで、彼女の言葉を遮った。
「だって、カリン様の先ほどの言葉、ちっとも痛くなかったんですもの」
「……痛くない?」
カリン様は、理解できないというように首を傾げた。
「ええ。アルフレート様を大切に思うお気持ちに、一つも嘘がありませんでした。だから、とても温かい言葉だと思いましたわ」
「嘘がないって……あなた、どうしてそんなふうに言い切れるの? 私が、彼を利用しようとしている腹黒い女かもしれないじゃない」
カリン様は、少しだけ声のトーンを下げて睨みつけてくる。
けれど、その目には困惑ばかりが広がっていた。私が怒りもせず、ただ事実だけを告げている理由がわからないのだろう。
「もしそうだとしたら、私はきっと、あなたを不快に思っていたでしょうね。でも、私はあなたのことを、とても素敵な方だと思いました」
私が心からの言葉を紡ぐと、カリン様はついに何も言えなくなってしまった。
きゅっとドレスの裾を握りしめ、視線を泳がせる。
「……あなた、本当に変わっていらっしゃるのね。アルフレート様が動揺なさるのも、無理はないわ」
ぽつりとこぼしたその言葉には、もう敵意はなかった。
少しだけ諦めのような、不思議な響きが混じっている。
「私、あなたのこと、まだ認めたわけではありませんからね」
最後にそれだけ言い残して、カリン様は足早に廊下を去っていった。
深紅のドレスが、曲がり角の先へ消えていく。
私は自分の胸元にそっと手を当てた。
人の嘘がわかる。本当の気持ちがわかる。
この『共鳴感知』の体質を、これまではただの呪いのように感じていた。
嘘ばかりの社交界で、心を削られるだけの忌まわしい力だと。
でも、今初めて。
この力があって良かったと思った。
嘘をつかずに真っ直ぐな感情をぶつけてくれる人がいること。
そして、嘘をついてまで必死に何かを守ろうとしている不器用な人がいること。
それを、理屈ではなく感覚として知ることができるのだから。
(カリン様は、強くて素直な方ね)
それに比べて、あのサンルームに残っている私の婚約者様は。
今日も今日とて、冷徹な仮面の下で、一人で勝手に苦しんでいるのだろう。
「さて。戻ったら、お茶を淹れ直してさしあげましょうか」
私は踵を返し、アルフレート様の待つサンルームへと歩き出した。
彼がまたどんな痛い嘘をつくのか、今は少しだけ楽しみになっていた。




