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太陽が随分と西へ傾き、庭園の木々が落とす影が長く伸びていた。
カチリ、とミアナが懐中時計の蓋を閉める音が、静かな東屋に不自然なほど大きく響く。
「……お嬢様。いくらなんでも、これは度が過ぎております」
ミアナの声には、隠しきれない怒りが滲んでいた。
彼女の視線の先には、すっかり冷え切って色の濁った紅茶の入ったティーカップがある。
「約束の時刻から、すでに二時間が経過いたしました。公爵家当主としてお忙しいのは理解しておりますが、使いの者一人寄越さないなど、お嬢様を、ひいてはシュタルク侯爵家を侮辱しているとしか思えません」
普段は冷静なミアナが、今にも屋敷に怒鳴り込みに行きそうな勢いで肩を震わせている。
私は、テーブルに置かれた冷めたスコーンをぼんやりと見つめた。
「ミアナ、怒ると眉間に皺が寄るわよ。せっかくの可愛い顔が台無し」
「お嬢様が呑気すぎるのです! なぜご立腹にならないのですか。これは明らかな嫌がらせです。お嬢様に愛想を尽かさせて、ご自分から婚約を破棄させようという浅ましい魂胆に決まっています!」
ミアナの言う通りだ。
これは間違いなく、わざとやっている。
数日前の茶会で、完璧な婚約者を演じながら「君のことは何とも思っていない」と冷酷な言葉をぶつけてきたアルフレート様。
あの時、私の心が折れなかったから、今度はもっと直接的な手に出たのだろう。
約束の時間に、わざと大幅に遅刻する。
普通の貴族令嬢なら、誇りを傷つけられて激怒し、馬車を呼んで帰ってしまうはずだ。
実家に帰り、「あんな無礼な方とは婚約などできません」と泣きつくのを、彼は待っている。
「そうね。嫌がらせでしょうね」
私は立ち上がり、ふわりとドレスの裾を揺らした。
「でも、帰らないわ」
「お嬢様……」
「だって、せっかくこんなに美しい庭園を独り占めできるんですもの。怒って帰るなんてもったいないわ」
私は東屋を出て、美しく手入れされた花壇へと歩み寄った。
見渡す限りに咲き誇る、青と白を基調とした花々。
先日の茶会では、彼の言葉の裏にある嘘に気を取られてゆっくり鑑賞する余裕がなかった。
白い薔薇の隣に、見たことのない小ぶりな青い花が咲いている。
そっと指先で花弁に触れると、ベルベットのような滑らかな感触がした。
ほんのりと甘い、けれどどこか清涼感のある香りが鼻をくすぐる。
「アルフレート様は、冷たい方かもしれないけれど」
ぽつりと、ひとりごとのように呟く。
「この庭園を管理している方々は、本当に花を愛しているのね。一つ一つの花が、とても丁寧に育てられているのがわかるわ」
もし本当に、私という存在を心の底から疎ましく思っているのなら。
私の目に触れるものすべてを不快にさせることだってできたはずだ。
枯れかけた花壇の前に座らせることも、埃っぽい部屋に案内することも。
でも、彼はそうしない。
用意されるお茶は最高級の茶葉だし、通される場所はいつも完璧に整えられている。
彼の口から出る言葉だけが、ひたすらに冷たく、そして嘘ばかりだ。
幼い頃から『共鳴感知』で数え切れないほどの嘘に触れてきた。
商人の欲にまみれた嘘。
貴族たちの見栄と保身のための嘘。
誰かを蹴落とすための、悪意に満ちた嘘。
それらの嘘は、私の心臓を鋭く、深く抉るように痛めつけた。
けれど、アルフレート様の嘘は違う。
自分自身を傷つけるような、不器用で哀しい嘘。
私を遠ざけるための言葉を吐くたびに、彼自身が何かをすり減らしているような気がしてならないのだ。
カツ、カツ、と。
規則正しい硬質な足音が、庭園の石畳を叩いた。
振り向かなくてもわかる。
空気が、すっと張り詰める感覚。
「……まだ、いたのか」
背後から響いたのは、感情の温度を一切感じさせない、ひどく冷ややかな声だった。
ゆっくりと振り返る。
西日を背に受けて立つアルフレート様は、今日も隙のない漆黒の軍服姿だった。
銀色の髪が風に揺れ、氷のように青い瞳が私を見下ろしている。
ただ、完璧な彫像のようなその佇まいの中に、ほんのわずかだけ、微細な乱れがあった。
呼吸が、普段よりわずかに浅く早い。
それに、軍服の襟元がほんの数ミリだけずれている。
走ってきたのだろうか。
わざと遅刻しておきながら、私がまだいると聞いて、慌てて足を早めた?
「ごきげんよう、アルフレート様。お仕事、お疲れ様です」
私が優雅にカーテシーをして見せると、彼はわずかに目を細めた。
彼にとって、私のこの態度は完全に計算外のはずだ。
怒り狂っているか、泣き崩れているか、あるいはとっくに帰っているか。そのどれかしか想定していなかった顔をしている。
「軍務省で急な問題が起きてな。対処に追われていた」
淡々とした声で、アルフレート様が口を開く。
「君との約束は、完全に失念していた。使いを出す余裕すらなかった。申し訳ないが、今日の茶会は取り止めだ」
――ぎゅんっ。
心臓を、見えない太い糸で強く締め付けられたような痛みが走った。
思わず、ドレスの裾を握る手に力が入る。
痛い。
失念していた。完全に忘れていた。
それが、嘘。
「私の頭の中には、君という存在が入る隙間などない。ただでさえ公務で多忙を極めているのだ。君の相手をする時間は、一秒たりとも惜しい」
――ぎゅっ、ぎりぎり。
痛みが強くなる。
呼吸が少し苦しくなるほどの、強い反応。
これほど強い痛みは、顔合わせの日以来だ。
彼は必死だ。
私を傷つけ、怒らせ、なんとしてもここから追い出そうと必死になっている。
どうしてそこまでしなければならないのか。
私を追い出すことで、彼にどんな利益があるというのか。
「普通の令嬢であれば、二時間も放置されれば怒って帰るものだが。君は随分と暇を持て余しているようだな」
アルフレート様の言葉に、後ろに控えていたミアナが一歩前に出ようとした。
私は彼女を片手で制し、アルフレート様の氷の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「ええ。暇を持て余しておりましたわ」
にっこりと、最高に楽しそうな笑顔を作ってみせる。
「でも、待つのは好きですよ。考える時間ができますから」
「……考える時間、だと?」
アルフレート様の完璧な仮面に、ピキリと亀裂が入った。
彼の眉が、かすかに寄る。
「はい。アルフレート様はどんなお仕事をされているのだろうとか。この美しい庭園は、誰がどんな想いで手入れをしているのだろうとか」
私は先ほど触れていた、青い花に視線を落とす。
「それに、あなたがどうしてそんなに……不器用なことをなさるのだろう、とか」
「な……っ」
アルフレート様が、小さく息を呑む音が聞こえた。
彼の方へ歩み寄る。
一歩、また一歩。
アルフレート様は無意識のうちに、半歩だけ後ずさった。
戦場でも決して退かないという噂の軍務卿が、ただの令嬢の歩み寄りに怯えるように。
「二時間、とても有意義な時間でした。ですから、謝る必要なんてどこにもありませんわ」
彼を見上げて、ふわりと微笑む。
「むしろ、お忙しい中わざわざ足を運んでくださって、ありがとうございます」
沈黙が落ちた。
風が吹き抜け、庭園の木々がざわめく音だけが響く。
アルフレート様は、信じられないものを見るような目で私を見下ろしていた。
彼の青い瞳の奥で、何かが激しく揺れ動いている。
計算外。理解不能。
彼の理路整然とした頭脳が、私の反応を処理しきれずにショートを起こしているのがわかった。
「君は……」
彼が何かを言いかけた、その時。
アルフレート様の顔が、ふっと苦痛に歪んだ。
まるで、見えない刃で胸を刺されたかのように、彼自身が自分の胸元を強く押さえたのだ。
「アルフレート様?」
私は驚いて彼を見る。
彼の視線は私から外れ、足元の石畳に向けられていた。
きつく結ばれた唇。奥歯を噛み締めるような、張り詰めた顎のライン。
……なぜ?
どうしてあなたが、そんなに痛そうな顔をするの。
傷つけられたのは私のほうだ。
二時間待たされ、忘れていたと言われ、時間を割く価値もないと冷遇されたのは、私のほうなのに。
どうして、嘘をついた張本人であるあなたのほうが、そんなに苦しそうにしているの。
「……もう、遅い」
絞り出すような、低い声。
「馬車を用意させる。すぐに帰れ」
それだけ言い捨てて、アルフレート様は踵を返した。
来た時よりもずっと乱れた足取りで、本邸へと逃げるように戻っていく。
私はその後ろ姿を、ただ黙って見送ることしかできなかった。
胸の奥で、まだ彼の嘘の痛みが小さく疼いている。
でも、それ以上に気になったのは、最後に見た彼のあの表情だった。
傷つけるためについたはずの嘘で、自分自身を深く切り裂いているような、あの痛切な顔。
「アルフレート様……」
私は自分の胸元に手を当てたまま、西日に照らされた庭園に一人立ち尽くしていた。




