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王城の一角にある、軍務省の高官専用サロン。
分厚い絨毯が敷き詰められた静謐な空間で、俺――レオン・クラインは、目の前の男と盤上遊戯の駒を挟んで向かい合っていた。
「チェックだ」
低く、抑揚のない声。
盤面を見下ろすアルフレート・ヴァルターの横顔は、彫刻のように美しく、そしてどこまでも冷たかった。
銀色の髪が、薄暗いランプの光を受けて微かに輝いている。氷の結晶を思わせる青い瞳は盤上の駒だけを冷静に分析し、一切の感情の揺らぎを見せない。
社交界で『氷の公爵』と呼ばれるこの男の容貌は、今日も完璧に整っていた。
俺は小さく息を吐き、自分のキングを逃がす。
アルフレートとは、幼い頃からの付き合いだ。軍の士官学校時代から今まで、俺はこの男が取り乱したり、感情を露わにしたりする姿をほとんど見たことがない。
何事においても完璧。計算高く、隙がない。
それが、ヴァルター公爵家次期当主であるアルフレートの絶対的な評価だった。
だが、その『完璧な男』が、ここ数日どうもおかしい。
「手元の駒が遊んでいるぞ、レオン。お前らしくない凡ミスだ」
「お前の攻めが単調だから、少し付き合ってやってるだけさ。それよりアル。お前、ここ数日ろくに寝てないだろ。目の下に薄く隈ができてるぞ」
俺が指摘すると、アルフレートは盤上から視線を上げることなく、淡々と答えた。
「軍務が立て込んでいるだけだ。魔獣の動向調査に、国境警備の再編。それに加えて、来月の式典の準備もある。睡眠など必要最低限で十分だ」
「へえ。てっきり、新しくできた『婚約者殿』の対応で頭を悩ませているのかと思ったが」
俺がその単語を口にした瞬間。
ナイトの駒を動かそうとしていたアルフレートの指先が、ほんの数ミリだけピタリと止まった。
ごくわずかな反応。普通の人間なら絶対に見逃すほどの微細な変化だ。
だが、長年の付き合いがある俺の目は誤魔化せない。
「……シュタルク侯爵令嬢のことか」
アルフレートは駒を置き、静かに俺を睨みつけた。
「彼女は関係ない。私はただ、自分の計画を淡々と進めているだけだ。三ヶ月後、彼女の方から婚約解消申請を出させるための、完璧な計画をな」
「あの『試し行動』ってやつか」
俺は手元のグラスを揺らし、琥珀色の酒を一口含んだ。
ヴァルター公爵家には、ひた隠しにされているある『秘密』がある。
アルフレート本人が固く信じ込んでいる、血の呪い。愛した者を必ず不幸にするという、馬鹿げた言い伝えだ。
俺はその真実について思うところがあるが、今は言わない。問題なのは、アルフレートがその呪いを恐れるあまり、自分に近づく女を徹底的に遠ざけようとしていることだ。
今回の政略結婚もそうだ。家同士の決定を覆せなかったアルフレートは、相手の令嬢に自ら婚約を破棄させるよう仕向けている。
冷たく突き放し、心を折る。
わざと嫌われるような態度をとり、完璧な冷血漢を演じ切る。
「計画は順調か?」
俺が尋ねると、アルフレートは涼しい顔で頷いた。
「ああ。極めて順調だ。顔合わせの席では、この婚約は家の利益のためだけであり、彼女には何の感情も抱いていないと明確に伝えた。先日の茶会でも、心など通わせるつもりはないと念を押してある。普通の令嬢であれば、プライドを傷つけられ、とっくに実家に泣きついている頃合いだ」
「なるほど。で、そのシュタルク侯爵令嬢は泣いて帰ったのか?」
「……いや。まだ、屋敷に留まっている」
アルフレートの眉間に、わずかに皺が寄った。
「彼女は少し、鈍感なところがあるようだ。あるいは、侯爵家からの重圧で簡単には引き下がれないのかもしれない。だが、時間の問題だ。私の冷遇に耐えきれなくなる日は近い」
自信満々に語る親友の顔を見て、俺は思わず吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
こいつは、本当に分かっていない。
自分の演じる『完璧な冷徹公爵』の仮面が、あの小柄な令嬢の前では、紙切れ一枚ほどの防御力も発揮していないことに。
「おい、アル。お前、自分の演技が完璧だと思ってるだろ?」
「当然だ。私の表情筋は完全に統制されている。言葉のトーン、視線の動かし方、どれをとっても冷酷な婚約者そのものだ。誰が見ても、私が彼女を疎んじているとしか思わないはずだ」
「ありえないな。お前の演技は、彼女には全く通用してないぞ」
俺が断言すると、アルフレートは不快そうに目を細めた。
「どういう意味だ」
「そのままの意味だよ。お前の嘘は、あの令嬢に全部バレてるってことだ」
アルフレートは鼻で笑った。
「馬鹿げている。私の心理を読める人間など、この国には存在しない」
「じゃあなんで、彼女はお前が冷たい言葉を吐き捨てた直後に、あんなに楽しそうにニコニコしてるんだ?」
俺の言葉に、アルフレートの動きが完全に止まった。
数日前の、ヴァルター公爵邸での茶会。
俺は偶然本邸を訪れており、二階のバルコニーから庭園の東屋をこっそり見下ろしていた。
そこには、完璧な所作で紅茶を飲むアルフレートと、向かいに座るエリーゼ嬢の姿があった。
声までは聞こえなかったが、アルフレートが何を言っているかは想像がついた。いつものように、突き放すような冷たい台詞を並べていたのだろう。
普通なら、あんな氷のような視線を向けられれば、令嬢は萎縮するか、怒って席を立つ。
だが、エリーゼ嬢は違った。
彼女は、アルフレートが何かを言い切るたびに、小さく首を傾げたり、なぜか安堵したような顔を見せたりしていた。
しまいには、心底可笑しそうにふわりと微笑んでみせたのだ。
あの時のアルフレートの動揺ぶりといったらなかった。肩の線がわずかに強張り、紅茶のカップを持つ手が不自然に止まっていたのを、俺は上からしっかり見ていた。
「……ただの強がりだろう。見栄を張って、平気なふりをしているだけだ」
アルフレートは低い声で反論した。
「強がり? お前、本気でそう思ってるのか? 強がりで出るような笑顔じゃなかったぜ。まるで、不器用な子供の嘘を見守るような、底抜けに優しい顔だった。お前が『君のことなど何とも思っていない』とか言うたびに、彼女は『この人、また嘘をついてるわ』って顔をしてたんだよ」
「っ……!」
アルフレートが、盤上のビショップを強く握りしめた。
その顔には、彼自身も気づいていない焦りがはっきりと浮かんでいる。
「昨日の夜のことも聞いたぞ」
俺は畳み掛けるように言葉を続けた。
「深夜の執務室に、彼女が夜食を持って現れたそうじゃないか。お前、普段なら使用人が部屋に入ることすら嫌がるくせに、彼女が淹れたお茶を大人しく飲んだらしいな」
「それは……彼女が、勝手に置いていっただけだ。冷める前に処理したに過ぎない」
「言い訳が苦しいぞ、氷の公爵殿。お前、彼女に『自分に関わるな』って言ったんだろ? 完璧に冷酷な男を演じているなら、その場でお茶を床にぶちまけて追い出すくらいできたはずだ。なぜしなかった?」
「……」
アルフレートは沈黙した。
握りしめられたビショップの駒が、カタカタと小さく震えている。
「お前は、彼女を傷つけたくないんだよ。遠ざけようとしてわざと悪ぶっているが、根が真面目すぎるから、その『嘘』に悪意を込めきれていない。彼女はそれを感覚的に見抜いている。お前がどれだけ冷たい言葉を並べても、その裏にあるお前の本質的な不器用さに気づいてるんだ」
「そんなはずはない……私の、計算では……」
「お前の計算はとっくに破綻してる。お前は彼女を試しているつもりだろうが、実際には、彼女の手のひらの上で踊らされてるのはお前の方だ」
俺はグラスの残りを飲み干し、盤上のクイーンを真っ直ぐに進めた。
「チェックメイトだ、アル」
アルフレートは盤面を見つめたまま、微動だにしなかった。
彼のキングは、完全に退路を断たれていた。いつの間にか、俺の仕掛けた単純な罠にすら気づかず、自ら死地へと駒を進めてしまっていたのだ。
完璧な男の、ありえない凡ミス。
それは盤上だけの話ではない。現実の彼もまた、エリーゼ・シュタルクという完全に計算外の存在によって、これまでの絶対的な論理を崩されかけていた。
「……ありえない」
長い沈黙の後、アルフレートが絞り出すように呟いた。
「私の演技は完璧なはずだ。彼女を遠ざけるための、完璧な虚勢。それが、なぜ」
「だから言ってるだろ。バレてるんだよ、最初から全部な」
俺は立ち上がり、軍服のシワを伸ばした。
これ以上、俺から言うことはない。あとは彼自身が、自分の感情と彼女の存在にどう向き合うかだ。
「せいぜい頑張るんだな。三ヶ月後、泣きを見るのは彼女じゃない。お前の方かもしれないぜ」
サロンの出口に向かって歩き出し、最後に振り返る。
アルフレートは一人、薄暗い部屋の中で盤面を見つめていた。
その横顔には、もはや『氷の公爵』の完璧な冷たさはなかった。
あるのは、未知の数式に直面して混乱する、等身大の不器用な青年の姿だけだ。
「……あの女、何者だ」
アルフレートの唇から漏れたその小さな呟きは、誰に宛てたものかもわからず、深夜の静寂の中に吸い込まれていった。




