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カチ、カチ、と静かな廊下に柱時計の音が響く。
時計の針は、すでに深夜の十二時を回っていた。
ヴァルター公爵邸での滞在が始まって、一週間。
「屋敷では好きに過ごすといい」というアルフレート様の言葉通り、私はお言葉に甘えて、広大で美しい客室をすっかり満喫していた。
けれど、一つだけ気になることがあった。
「お嬢様、まだ起きていらしたのですか?」
見回りのついでに夜食の準備をしてくれたミアナが、心配そうに私を覗き込む。
「ええ。少し読書が長引いてしまって。……ねえ、ミアナ。アルフレート様は、まだ執務室にいらっしゃるの?」
「はい。先ほど廊下で従卒の方とお会いしましたが、まだ明かりがついているそうです。ここ数日、まともに睡眠をとっていらっしゃらないとか……」
ミアナは「お可哀想に」と小さく呟いた。
顔合わせの時の恐怖心はどこへやら、彼女もこの一週間で、公爵邸の使用人たちからアルフレート様が「異常なほどの仕事人間」であることを聞き及んでいた。
軍務省の統括、領地の管理、さらには国境付近の魔獣の警戒。
彼が背負う職務は膨大だ。それにしても、ろくに眠りもせず働き続けるのは、いくらなんでも体に障る。
私は手元に置かれた、湯気を立てるハーブティーと、ミアナが焼いてくれたクッキーの皿を見つめた。
「……少し、様子を見てくるわ」
「えっ? ですが、夜間は執務室への立ち入りを禁じられていると……」
「『好きに過ごしていい』と言ったのはアルフレート様だもの。迷子になったと言い訳すれば大丈夫よ」
悪戯っぽく微笑んで見せると、ミアナは呆れたように肩をすくめた。
[* * *]
トレイに温かいカモミールティーとクッキーを載せ、私は静まり返った廊下を進む。
本邸の最奥。重厚な黒檀の扉の隙間から、微かに橙色の光が漏れていた。
コン、コン、と控えめに叩く。
「入れ。報告なら簡潔に頼む」
中から聞こえたのは、ひどく掠れた声だった。いつもの冷徹な響きの中に、隠しきれない疲労が滲んでいる。
「失礼いたします、アルフレート様」
扉を開けて中に入ると、アルフレート様は書類の山からバッと顔を上げた。
驚きに目を見開いた彼の顔には、うっすらと色濃い隈が浮き出ている。
「エリーゼ……? なぜ君がここに。夜間の執務室は立ち入りを――」
「夜更かしをしてしまいましたの。そうしたら、まだ明かりがついているのが見えましたので、差し入れをと思いまして」
私はトレイを机のわずかな隙間に置いた。
アルフレート様は眉をひそめ、不機嫌そうに書類を片付ける。
「不要だ。私は今、非常に立て込んでいる。君の相手をしている暇はない」
――ちくり。
お馴染みの、けれどどこか弱々しい痛みが胸を刺す。
不要だ、という言葉が嘘。
「お忙しいのは重々承知しております。ですが、少し休憩されてはいかがですか? 顔色が優れませんわ」
「問題ない。この程度の激務、いつものことだ。私は頑健だし、眠気など一切感じていない」
――ちくり。ちくり。
連続して胸が痛む。
眠気を感じていないなんて、大嘘だ。今にも閉じてしまいそうなその青い瞳が、何よりの証拠なのに。
「そうですか。では、このお茶だけでも召し上がってください。冷めてしまいますから」
「言ったはずだ、不要だと。私は甘いものも、夜食の類も好まない」
――ちくり。
私はふっと笑みをこぼしそうになるのを堪えた。
嘘つきな婚約者様。
好まない、というのも嘘。本当は、お腹が空いているのではないかしら。
「お嫌いなら仕方ありませんわね。では、私がここで代わりにいただきましょうか。一人で飲むお茶は寂しいものですから」
私が近くのソファに腰掛けようとすると、アルフレート様は慌てたように立ち上がった。
「待て! ……分かった。置いていくがいい。後で気が向いたら口にする」
「今、召し上がってくださいな。私が淹れたわけではありませんが、ミアナが心を込めて用意したものですの。目の前で美味しそうに飲んでいただけたら、私も安心いたします」
アルフレート様は、大きなため息をついた。
諦めたように椅子に座り直し、渋々とカップを手に取る。
革手袋を外した彼の指先は、白く、驚くほど整っていた。
そっと紅茶を口に含む。
その瞬間、彼の張り詰めていた肩の線が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……悪くない」
呟かれた言葉に、嘘の痛みはなかった。
彼はそのまま、静かにクッキーにも手を伸ばす。サク、と軽い音が部屋に響き、彼は満足そうに咀嚼した。
「美味しいですか?」
「普通だ。格別言うほどの味ではない」
――ちくり。
本当は美味しいと思っているくせに。
私は胸の痛みを心地よく感じながら、彼の横顔を見つめた。
少しだけ血色が戻ったようで、安心する。
「アルフレート様。どうしてそんなに無理をなさるのですか?」
私の問いに、彼の手が止まった。
カップをソーサーに戻す音が、やけに大きく響く。
彼は再び、あの冷徹な「氷の公爵」の仮面を被り、私を冷たく見据えた。
「無理などしていない。これがヴァルター家の当主となる者の義務だ。君のような、のんびりと育った侯爵令嬢には理解できないだろうがね」
――ちくり。
「私は君に、この家に深く関わってほしくないのだ。先日の茶会でも言った通り、君はただの飾りでいい。余計な詮索をせず、三ヶ月の間、大人しく過ごしていればいいんだ」
――きりきり、と。
今までで一番、強い痛みが胸の奥を走った。
悪意の痛みではない。
けれど、ひどく切なく、胸が締め付けられるような痛み。
飾りでいい、関わってほしくない、という言葉のすべてが、彼の本心ではない。
彼は、私を突き放そうとしている。
それは、私を嫌っているからではなく――私を『守る』ため?
「……エリーゼ?」
私が突然、胸元を押さえて俯いたため、アルフレート様の声に動揺が混じった。
椅子がガタリと音を立てる。彼は机を回り込み、私の前に膝をついた。
「どうした、具合でも悪いのか。おい――」
伸ばされかけた彼の手が、空中でピタリと止まる。
触れてはいけないものに触れようとしたかのように、彼はきゅっと拳を握り締め、手を引いた。
「……やはり、早く部屋に戻るがいい。私の部屋にいると、ろくなことがない」
――ちくり。
その小さな痛みが、私に確信をくれた。
この人は、何かに怯えている。
自分が誰かを傍に置くことで、その相手を傷つけてしまうことを。
だからこそ、完璧な冷酷さを演じて、誰も寄せ付けないようにしているのだ。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
胸の痛みはまだ残っているけれど、不思議と怖さはなかった。
「大丈夫ですわ、少し目眩がしただけです」
私は、彼の凍りついた瞳を真っ直ぐに見つめ、微笑んだ。
「アルフレート様。お茶を飲んでくださってありがとうございました。私は約束通り、部屋に戻りますね」
立ち上がり、扉へと向かう。
背後から、アルフレート様の視線が突き刺さるのを感じた。
「……エリーゼ」
名前を呼ばれ、振り返る。
「明日からは、もう来るな。夜間の徘徊は、我が家の風紀を乱す」
――ちくり。
「はい。体調には気を付けてくださいね」
私はあえてその嘘を指摘せず、優雅に一礼して執務室を後にした。
[* * *]
自室に戻り、ベッドに潜り込む。
胸の奥に残る、あの切ない痛みの余韻。
アルフレート様が抱える、ヴァルター公爵家の闇。
彼が必死に私を遠ざけようとする理由が、少しだけ見えた気がした。
私を巻き込みたくないから、彼は嘘をつく。
「だったら、なおさら放っておけるわけがないわ」
枕に顔を埋め、私は小さく呟いた。
完璧な仮面の裏にある、彼の本当の素顔を暴くまで。
私の『共鳴感知』は、きっと止まらない。




