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深夜の軍務省、統括執務室。
分厚いマホガニーの机に積まれた書類の山を前にして、俺は持っていた万年筆を静かに置いた。
インクの乾いていない決裁書類の文字が、ひどく歪んで見える。
集中できていない。
この数日、まるで熱病にでも冒されたかのように、思考がひどく鈍かった。
「……計算通りに進めればいいだけだ」
誰に聞かせるわけでもなく、暗い部屋の中に低い声が落ちる。
婚約期間は三ヶ月。
その間に、令嬢のプライドをへし折り、自ら婚約解消を申し出させる。
こちらから一方的に破棄すればシュタルク侯爵家に泥を塗ることになるが、相手から「耐えられない」と逃げ出させれば、家の体面を保ったまま関係を白紙に戻すことができる。
完璧な『撤退戦』のシナリオだった。
顔合わせの場での冷酷な宣告。庭園での放置。無関心を装った冷遇。
並の令嬢であれば、三日と持たずに泣いて実家に逃げ帰るはずだった。
だが。
『嘘ですよ』
脳裏に、あの栗色の髪をした令嬢の顔が浮かび上がる。
こちらを見透かすような、深い緑色の瞳。
俺がどれほど冷たい言葉を並べても、どれほど甘い言葉で騙そうとしても、彼女は全く動じなかった。それどころか、困ったような、ひどく悲しそうな顔で俺を見つめ返してきた。
『あなたが嘘をつくたびに、私、なんだかとても……悲しくなってしまうんです』
あの時、俺の心臓は確かに凍りついた。
見抜かれていた。俺が自分自身を偽って、必死に悪役を演じていることまで、彼女は最初からすべて気づいていたのだ。
なぜエリーゼに動揺する。
彼女が少し勘の鋭い女だったというだけの話だ。俺の演技にどこか不自然な点があり、それを見透かされたに過ぎない。
計画の修正が必要なだけだ。焦る必要など、どこにもないはずだ。
両手で顔を覆う。
目を閉じると、先日の応接室での光景が鮮明に蘇ってきた。
『今日はお仕事、お疲れ様でしたか?』
『本当のことを言うのは、そんなに難しくないでしょう?』
俺の隣に座り、ただ微笑んでみせた彼女の顔。
不思議な女だ。
俺が突き放すための嘘をつくと、彼女は悲しそうに眉を下げる。だが、俺が本音――情けない弱音や、疲労の事実を口にした瞬間、彼女は花が咲いたように、心底嬉しそうに笑うのだ。
あの屈託のない笑顔が、網膜に焼き付いて離れない。
隣に座った時に伝わってきた、微かな体温。ベルガモットと、微かな石鹸の甘い香り。
「……くそっ」
小さく毒づき、俺は机の引き出しを乱暴に開けた。
一番上の段に入っている、一枚の羊皮紙。
『婚約解消申請書』。
あとは俺と彼女の署名さえ入れれば、すべてが終わる魔法の紙切れ。
これを突きつければいい。
有無を言わさず、強引にサインをさせて、実家に送り返せばいいだけだ。彼女が何を言おうと、俺が物理的に彼女を切り捨てれば済む話だ。
だが、その羊皮紙に手を伸ばそうとした瞬間。
――ぎゅっ。
俺の胸の奥が、強く軋んだ。
息苦しいほどの、鈍い痛み。
伸ばしかけた指先が、空中でピタリと止まる。
彼女を、この家から追い出す。
二度と、会えなくなる。
あの緑色の瞳が、俺以外の誰かに向けられるようになる。
別の男と腕を組み、別の男に向かって、あの温かい笑顔を向ける日が来る。
「っ……」
呼吸が浅くなる。奥歯を強く噛み締めた。
なんだ、この得体の知れない焦燥感は。
まるで、自分の体の一部を無理やりもぎ取られるような、理不尽な痛み。
「……だめだ」
俺は引き出しをバンッと閉め、椅子から立ち上がった。
荒い息を吐きながら、窓辺へと歩み寄る。
夜の王都は静まり返り、冷たい月明かりだけが街を照らしていた。
呪いのことを、忘れたわけではない。
ヴァルターの血に流れる、忌まわしい呪い。
愛した者を必ず不幸にするという、逃れられない血の宿命。
俺は幼い頃、この目で見たのだ。父に愛されたがゆえに、心を病み、日に日に衰弱し、最後は狂い死んでいった母の哀れな姿を。
俺も、あの血を継いでいる。
俺が誰かに執着し、誰かを愛せば、必ずその人間を壊してしまう。
エリーゼは、真っ直ぐすぎる。
あんな、人の嘘を悲しみ、人の弱さを許せるような優しい女を、俺の呪いに巻き込むわけにはいかない。
彼女のあの透き通るような緑の瞳を、絶望で濁らせてはならない。
俺のせいで、彼女を母と同じ目に遭わせるくらいなら。
俺は、彼女に一生憎まれたままでいい。
軽蔑され、冷酷な男だと罵られて、彼女の記憶から消え去るのが一番いいのだ。
「……そうだ。これが正しい。俺は、彼女を守らなければならない」
冷たい窓ガラスに額を押し当て、自らに言い聞かせるように呟く。
すべては計算通りに進んでいる。
少し予定は狂ったが、彼女を遠ざけるという目的は変えてはならない。
俺が徹頭徹尾、彼女を拒絶し続ければ、いずれ彼女も諦めるはずだ。あんなに聡明な令嬢なのだから、自分から身を引くのが一番賢い選択だと気づく日が必ず来る。
彼女の心に、俺という存在が深く根を下ろしてしまう前に。
俺の心の中に、彼女の存在がこれ以上入り込んでくる前に。
「計算通りに、進めるだけだ」
もう一度、暗い執務室の中で自分に言い聞かせる。
だが、彼女の目を見ると──。
あの、すべてを包み込むような、底抜けに優しい笑顔を見ると。
俺の頭の中で組み立てた完璧な論理が、音を立てて崩れ去っていくのを感じるのだ。
本当は、突き放したくない。
隣に座って、もっと話がしたい。
彼女が淹れてくれた温かいお茶を飲み、他愛のない会話で笑い合いたい。
馬車の事故で彼女を抱きとめた時。
腕の中にすっぽりと収まった彼女の小ささと、その温もりが、今でも手のひらに焼き付いて離れない。
あの時、俺は呪いのことなど完全に忘れていた。
ただ、彼女に怪我をさせたくない、失いたくないという一心だけで体が動いていた。
「まさか」
窓ガラスに映る自分の顔を見る。
ひどく狼狽し、怯えたような目をしている男がそこにいた。
「俺は……」
自分でも気づかないうちに、拳を固く握りしめていた。
爪が手のひらに食い込み、微かな痛みが走る。
彼女を遠ざけなければならないという『理屈』と。
彼女を手放したくないという、どろどろとした『感情』。
これまで一度も感じたことのない、コントロール不能な熱が、胸の奥で静かに、けれど確実に燃え広がり始めている。
この感情の正体を、俺は知っている。
知っているがゆえに、認めるわけにはいかなかった。
「……ありえない。そんなことは、絶対に」
俺の震える声は、深夜の執務室の静寂に虚しく溶けて消えた。




