15
初夏の風が、淡い緑の香りを運んできた。
ヴァルター公爵邸の広大な庭園は、柔らかな陽光をいっぱいに浴びて輝いている。
等間隔に配置された白大理石の石柱。その足元を彩るように、青と白を基調とした無数の花々が咲き誇っていた。昨夜の雨の名残か、花弁には小さな雫が光り、風が吹き抜けるたびにきらきらと零れ落ちる。
あの日、応接室で彼と向かい合ってから、数日が過ぎていた。
『期限が来る前に、私は必ず……君を手放す』
彼が絞り出した言葉に伴う、はっきりとした嘘の痛み。
私を手放したくないという彼の本心を知ってから、私の心には不思議な凪が訪れていた。
アルフレート様は相変わらず多忙で、屋敷にいてもすれ違うことが多い。以前のような氷のような威圧感はすっかり影を潜め、どこか戸惑うような、迷いのある視線を向けられることが増えた。
ミアナは「またお嬢様を放置して」と不満げだったけれど、私はこの静かな距離感が嫌いではなかった。彼が自分の中で何かの感情と必死に戦っているのが、痛いほど伝わってくるから。
白いパラソルを傾けながら、迷路のような小道をゆっくりと歩く。
土と草の混じった、むせ返るような濃い匂いがした。
視界の開けた先に、硝子張りの美しい東屋が見えてくる。少し休憩しようと足を向けた時、不意に人の気配を感じて立ち止まった。
東屋の長椅子に、見慣れた銀色の髪があった。
アルフレート様だった。
いつもの隙のない漆黒の軍服ではない。タイを外し、第一ボタンを開けた白いシャツの上に、濃紺のベストを羽織っただけのくつろいだ装い。
足を組み、手には一冊の古びた革表紙の本を持っている。
長いまつ毛が影を落とし、伏せられた青い瞳が活字を追う。その横顔は、誰も寄せ付けない『氷の公爵』ではなく、ただの静寂を好む一人の青年のものだった。
足音で気配を察したのか、彼がゆっくりと顔を上げた。
私と目が合う。
彼の肩が、わずかにビクッと跳ねた。
「……エリーゼ」
本を閉じる音が、静かな庭園に響く。
彼は立ち上がろうとしたが、私はパラソルを畳みながら静かに首を横に振った。
「そのままになさってください。お邪魔でしたら、すぐに引き返しますわ」
アルフレート様は、閉じた本を膝の上に置き、小さく息を吐いた。
「いや。……ただ、少し息抜きをしていただけだ。君が去る必要はない」
――ぽかぽか。
胸の奥に、柔らかな温かさが広がった。
嘘はない。彼は本当に、一人で息抜きをしていただけなのだ。私を遠ざけるための、トゲのある言葉でもない。
私はゆっくりと歩み寄り、彼から少しだけ距離を空けて、同じ長椅子に腰を下ろした。
アルフレート様は何も言わない。拒絶されるかと少し身構えたけれど、彼はただ視線を庭園の花々に向けたまま、静かに座っていた。
沈黙が落ちる。
けれど、以前のような息の詰まるような重さはなかった。
風が葉を揺らす音。遠くで鳴く鳥の声。
二人の間には、ただ穏やかで、少しだけぎこちない時間が流れている。
彼の横顔を、そっと盗み見る。
目の下の隈は、数日前よりは少し薄くなっていた。それでも、軍務と領地経営、そして何より私との関係に思い悩んで、疲労が蓄積しているのは明らかだった。
長い指先が、無意識に革表紙をなぞっている。
「……君は」
不意に、彼が口を開いた。
声は低く、風に溶けてしまいそうなくらい静かだった。
「君は、何が好きか」
唐突な問いかけに、私は目を瞬かせた。
「何、ですか?」
「趣味でも、食べ物でも、何でもいい」
アルフレート様はこちらを見ず、真っ直ぐに前を見たまま言葉を継ぐ。
「……私は、君のことを何も知らないと気づいた。婚約者でありながら、君の好む花の色すら、把握していない」
――ぽかぽか。
また、胸が温かくなる。
嘘のない、純粋な問い。
私を試すためでも、騙すためでもない。ただ、私という人間を知りたいという、ささやかで切実な本音。
「そうですね」
私は、足元に咲く小さな白い花を見つめた。
「甘めに淹れたミルクティーと、焼き立てのクッキーが好きです。それから、晴れた日の読書。雨上がりの土の匂い。……綺麗に飾られた大輪の薔薇よりも、こうして足元でひっそりと咲いている名もなき花の方が好きですわ」
アルフレート様は、黙って私の言葉に耳を傾けている。
「それから……そう。静かな時間が、好きです」
嘘ばかりの社交界で、心を削られずに済む時間。
誰の悪意も、誰の虚栄心も感じることのない、ただ呼吸することだけが許される空間。
「……そして、何よりも」
私は彼の方へ顔を向けた。
「私に嘘をつかず、本当のことだけを言ってくださる方が好きです」
アルフレート様の長いまつ毛が、微かに揺れた。
彼はゆっくりとこちらへ顔を向ける。
氷のように冷たかったはずの青い瞳は、今はひどく澄んでいて、私の姿を真っ直ぐに映し出していた。
「アルフレート様は、何がお好きですか?」
私が問い返すと、彼は少しだけ戸惑うように視線を泳がせた。
普段なら「軍務だ」「家の利益だ」と、すかさず冷たい建前を並べ立てるはずの唇が、迷うように微かに開閉する。
やがて、彼は観念したように小さく息を吐き出した。
「……静寂だ」
ぽつりと、低い声が零れる。
「夜更けの、誰もいない執務室。物音一つしない空間で、淹れたての珈琲を飲む時間。……それと、この庭園の風の音」
――ぽかぽか。
温かい。
「あとは……そうだな。チェスのような、盤上遊戯。論理と計算だけで完結し、不確定な要素が入り込まない世界。……私は、自分の計算が狂うのが、何よりも嫌いだ」
最後の一言は、どこか自嘲するように響いた。
計算が狂うのが嫌い。それはきっと、私という存在に対する彼の本音。
それでも、胸の奥は痛まなかった。彼が私に、自分の弱さや好みを、一切の偽りなく曝け出してくれているからだ。
「……それから」
アルフレート様が、私を見つめた。
吸い込まれそうなほど深い青。
「嘘をつかなくていい、この時間が」
ドクン、と。
私の心臓が、今までとは違う理由で大きく跳ねた。
嘘をつかなくていい時間が、好き。
それが、彼から私に向けられた、初めての、そして紛れもない真実だった。
「……私も、同じですわ」
私の声は、ひどく掠れてしまった。
アルフレート様は、私の目をじっと見つめ返している。
二人の間にあった見えない壁が、初夏の風に溶けて消えていくような感覚。
ただの一人の男性と、一人の女性として、私たちは初めて向き合っていた。
その時。
アルフレート様の瞳に、ハッとしたような光が走った。
彼の表情が、みるみるうちに硬直していく。
自分の発した言葉。今のこの状況。
それらが、彼が自分に課していた『完璧な計画』から、どれほど逸脱しているかに気づいてしまったのだ。
「……私は、今」
彼が、呆然と呟く。
素のままで。一切の嘘も、演技の仮面もなしに、私と語り合っていた。
私を遠ざけなければならないはずなのに、無意識のうちに、私の隣に座ることを許し、自分の内面を曝け出してしまった。
「……すまない」
アルフレート様が、弾かれたように長椅子から立ち上がった。
膝の上の本が床に落ちるが、彼は拾おうともしない。
「急ぎの仕事を、思い出した」
――ちくり。
嘘の痛みが、胸を刺す。
彼は逃げようとしている。自分が今、どれほど無防備な状態になっていたかに気づいて、恐怖すら覚えているのだ。
「アルフレート様」
私が呼び止める声にも振り返らず、彼は足早に東屋を出て行った。
銀色の髪が風に揺れ、瞬く間に庭園の木々の向こうへ消えていく。
残された私は、床に落ちたままの革表紙の本をそっと拾い上げた。
表紙には、古い詩集のタイトルが刻まれている。
少しだけ温かいそれは、彼が確かにここで、私と同じ時間を共有していた証だった。
「……不器用な人」
本を胸に抱き寄せ、私は小さく息を吐いた。
彼は気づいてしまったのだ。
私を追い出すための理由を探していたはずなのに。
彼の心の中に、絶対に壊してはいけないものが、すでに生まれてしまっていることに。




