第7話 お人形の温もり
あの日以来、部屋の空気は密かに、だが確実に変わり始めていた。
「おい、無能。……お嬢様のお召し替えだ。こちらへ来い」
老執事セバスの冷淡な声に促され、ヴェルスは部屋に入る。
普段ならフリル服を着せ替えられて何時間も直立させられるか、理不尽に怒声を浴びせられる場面だった。
だが、姿見の前に立つエレノアは、鏡越しにヴェルスが入ってくるのを確認すると、どこかわそわそわとした様子で視線を泳がせた。
「……遅いわよ、お人形」
「申し訳ございません、お嬢様」
ヴェルスが深々と頭を下げると、エレノアはフンと鼻を鳴らしたものの、今日はいつもと違って一度も罵声や怒声が飛んでこなかった。
それどころか、お茶会の最中も、彼女の視線は時折チラッと部屋の隅に立つヴェルスへと向けられていた。
(……僕の言葉を、ずっと反芻しているな)
ヴェルスは表情を変えず、静かにその変化を観察していた。
誰からも「理解者」として扱われたことのなかった我儘な令嬢にとって、あの日ヴェルスが掛けた言葉は、心の奥底に強く突き刺さる毒薬であり、救いでもあったのだ。
◇
その日の夜のこと。
物置部屋へ戻される手前、エレノアが不機嫌そうにセバスへ言い放った。
「セバス、今日はこのお人形は私の部屋で寝せるわ」
「……はい? お嬢様、いくらお人形とはいえ、このような薄汚い奴隷を同じ部屋に置くなど……」
「黙りなさい! 私がそうしたいと言っているのよ! 文句があるならお父様に言えばいいでしょ!」
金髪のロールを揺らして激昂するエレノアに、老執事は眉ひとつ動かさず「……承知いたしました」と深く一礼し、引き下がっていった。
◇◇◇
ふかふかの高級絨毯が敷き詰められた、夜のエレノアの部屋。
月光がステンドグラスを通り抜け、床に美しい影を落としている。
「そこへ座りなさい」
シルクのナイトウェアに身を包んだエレノアが、ベッドの縁をぽんぽんと叩いた。
ヴェルスは言われた通り、静かに歩み寄ってベッドの足元へ腰を下ろす。
昼間の高飛車な態度とは一転し、夜の静寂の中にいるエレノアは、どこか脆く、等身大の十八歳の少女に見えた。
「ねえ……お人形。あなた、この間、言ったこと……本当なの?」
エレノアが膝を抱え、小さな声で問いかけてくる。
「何のことでしょうか、お嬢様」
「とぼけないで! 私が……本当はお美しくて、誰もその素晴らしさに気づいてないって言ったことよ……!」
顔を真っ赤にしながらも、縋るような瞳で自分を見つめてくるエレノア。
ヴェルスはどこか儚げな面持ちのまま、甘く穏やかな微笑みを浮かべた。
「嘘などつきません。お嬢様は誰よりも気高く、特別なお方です。僕にとっては、この世界でただ一人のご主人様ですから」
「っ……」
エレノアの瞳が大きく揺れた。
寂しさと承認欲求に飢えていた彼女の心に、ヴェルスの言葉が甘く染み込んでいく。
「……来なさい」
エレノアはヴェルスの華奢な手首を引っ張ると、そのまま自分の広いベッドの中へと引き入れた。
最高級の羽毛布団と、少女の甘い香水の花の香りがヴェルスを包み込む。
「今夜はここで寝なさい。……お人形なんだから、私を暖めるくらい当然でしょう?」
「……承知いたしました、お嬢様」
隣に横たわったヴェルスを、エレノアはまるで大切な抱き枕でも扱うかのようにぎゅっと抱きしめてきた。
小柄な身体越しに伝わってくる、彼女の緊張した小さな鼓動。
すると突然、エレノアは思い立ったようにヴェルスの体の上に覆いかぶさると、彼の滑らかな頬へ、そっと唇を寄せた。
ちゅっ、と静かな部屋に小さな甘い音が響く。
「……これは、ご褒美よ。私をイライラさせなかったお礼」
照れくさそうに顔を背け、布団を頭までかぶるエレノア。
彼女にとってそれは、自分のお気に入りのお人形に対する「愛着」のつもりだったのだろう。
だが――布団の中でエレノアに背を向けたヴェルスは、静かに暗闇を見つめていた。
(冷たかった瞳が、ほんの少し揺れた……。僕が彼女の『特別』になれれば、この泥沼から抜け出せるかもしれない)
少女から分け与えられた小さな体温を感じながらも、ヴェルスの胸の奥では、ただ虐げられるだけで終わらせないという静かな決意が、より一層深く根を張りつつあった。




