第5話 暗闇の中の温もりと、歪んだ少女の隙間
エレノアの「お人形」としての日常は、どこまでも理不尽で過酷だった。
「だめよ、もっと右を向いて! お人形のくせに、私の思い通りの角度で立たないなんて可愛くないわ!」
ドレスやフリルをコロコロと変えられ、何時間も姿見の前に立たされる。体勢を崩せば容赦なく扇子の柄で叩かれ、お茶会では客たちの前で「喋らない生きた置物」として笑い者にされた。
食事は相変わらず、エレノアがわざと床にこぼした焼き菓子の屑か、老執事が冷ややかに放り投げてくる冷め切ったパンの耳だけ。
(耐えるんだ……。僕を捨てたあの家族も、僕を道具扱いするこの人たちも……ここで折れたら、あいつらやこいつらの思い通りだ……)
腫れた膝と傷つく心に耐え、ヴェルスはただ静かに歯を食いしばっていた。
◇
夜。フリル服のまま、鍵をかけられた暗く冷たい物置部屋。
固い石畳の上に丸くなり、ヴェルスが冷気で身を縮めていたその時だった。
『……くぅ……?』
胸元から、ふっと小さな黒い影が滑り出てきた。
あの日、グラディス公爵家の冷たく薄暗い地下牢でこっそりと現れた召喚獣――つぶらな瞳とバクのような丸いフォルムを持った、小さな『夢喰いバク』だった。
「お前……こんなところまで、ついてきてたのか……」
ヴェルスが弱々しく手を伸ばすと、バクは愛おしそうにヴェルスの小さな指に頬を寄せ、すり寄ってきた。
バクがヴェルスの胸元にちょこんと乗り、小さな鼻先を額に寄せると――ふっと、心の中に渦巻いていたドロドロとした悔しさや痛みが、ほんの少しだけ軽くなる感覚があった。
(……僕の……辛い感情を……食べてくれてるのか……?)
『くぅん……』
ヴェルスはそっとバクの柔らかい毛並みを撫でた。
世界中から見捨てられ、家族からも踏みにじられた自分に、唯一寄り添ってくれる温かな存在。
「ありがとう……お前だけは、僕の味方なんだな……」
暗闇の中、ヴェルスはバクを抱きしめ、静かに温もりを分かち合った。
◇◇◇
数日が過ぎた、ある午後のこと。
「ねえ、なんで私の言う通りにしないの!? あなたは私のお人形なのよ!」
エレノアが甲高い声で叫び、テーブルの上のティーカップを叩き割った。
ヴェルスの差し出した紅茶の温度が、わずかに気に入らなかったらしい。熱い液体がヴェルスの腕にかかり、熱い痛みが走る。
「お嬢様、落ち着いてくださいませ。このような無能のために、お心を痛められる必要はございません」
老執事が恭しく一礼し、割れた陶器を片付け始める。
その光景を、ヴェルスは床に膝をついたまま、じっと見つめていた。
(……待てよ……?)
腕の火傷の痛みに耐えながら、ヴェルスの頭の中で、何かがカチリと小さく噛み合った。
怒り狂うエレノアの顔。だが、その瞳の奥には――「苛立ち」ではなく、どこか怯えるような、誰にも見向きされないことを恐れる「寂しさ」が揺れていた。
側で完璧に給仕する老執事。だが、彼の言葉や態度には「令嬢への敬意」などなく、ただ「伯爵家の命令に従う業務」としての冷たさしかない。
そして、この部屋のどこを見渡しても、彼女を心から愛する者の気配など微塵もなかった。
(この人は……怒ってるんじゃない。ただ……自分を見てほしいだけなんだ)
なぜだか理由は分からない。
けれど、エレノアという少女が抱える「重い承認欲求」と「本当の寂しさ」が、まるで透けて見えるかのように手に取るように理解できた。
(ただ虐げられるだけの『お人形』でいるつもりはない……。この少女の心の隙間に……入るんだ)
床の破片を拾いながら、ヴェルスは、誰にも気づかれないように瞳の奥で小さな、冷徹な光を灯した。




